虚空蔵菩薩
[こくぞうぼさつ]
栃木県さくら市葛城1203
星宮福一満虚空蔵菩薩が祀られている。
293号線で道の駅喜連川を越え,鍬柄坂kuwagarazaka下信号を右折,神明宮のすぐ先を右に降りて葛城大橋で荒川を渡り小高い丘を探す。道端に「ほほえみ仏2号」を見つけて坂を上がると境内地。入り口に4基の石仏と1基の石塔。標識に「○○菩薩堂」
平安末期の1168年創建。星宮神社かと思ったが,堂宇右手軒下の由来書を見ると無関係(明快かつ往古の葛城の描写が見事な板書なので,最後に全文掲載させていただきます)。
天保十年1839に現在の本堂が建立され,平成6年に修復されている。慶応四年1868に維新の神仏分離令で葛城細久保の鳴神山に遷され,福一満虚空蔵菩薩は喜連山慈光寺に合祀された。
寺院に合祀されているので神社ではないと考えていいだろう。(喜連*山*は不明。*川*かもしれない。慈光寺は,さくら市喜連川4374に現存する。
荒川流域の広大な田園地帯が見下ろせる境内には老桜と籐。
福一満虚空蔵菩薩は,丑年,寅年生まれの守り本尊なので,入り口の狛犬が牛と虎である。とてもユニークなのでしつこく写真を。
1924年狛犬台座に「栃木縣塩谷郡喜連川町大字葛城・大正十三甲子年十一月・金田渓谷刻」
菩薩堂内部に福一満額。奉納額も福一満のトラと丑寅虚空蔵尊のウシの絵。右手にはウナギの奉納額。
喜連川町指定文化財の標識に「指定日 平成三年六月十八日」「所有者 葛城星の宮講中」
入り口に「ほほえみ仏」一基は昭和62年。



堂内の紹介

ウシとトラ

由来板書

堂内

年代不明の石燈籠2基

入り口

ヒョウのようなトラ



ただ者出はない風貌

  ウシ

 

すばらしい造形


手水石


入り口の坂

ほほえみ仏

坂を上がった右手

古そうな石像

左2基

中央辺りに鎮座

星の宮虚空蔵尊の由来
星の宮虚空蔵尊の由来については古くより次のように言い伝えております。今を去る八百有余年前,平安の末期嘉応年間(一一六八)高倉天皇の御代,大洪水により,深山幽谷より,流れ来て,この地東裏にある沼地に漂よい夜な夜な,瑞光を放す不思議な霊木に,村人は怪しみ恐れていました。
たまたま通りかかった旅の僧は,村人からその話を聞かれ陸に引きあげ黙拝し,近くの川で身を潔め,お加持をなされ,庵に籠りて,全身 全霊をかたむけ刃を下し,念仏を唱えながら刃を振りついに高さ八十二センチの虚空蔵菩薩の座像をお刻みになり,星宮福一満虚空蔵菩薩(俗称丑寅虚空蔵尊)と名づけ,この稀なる霊地葛城山西前寺に安置し奉ったのであります。それ以来この地を星の宮と呼ぶようになりました。星宮とは宇宙の方位を示す大明神で,天の水を司る神であり,鰻は水界の王「水神」であり虚空蔵菩薩の,のりうまでお使いである。このありがたき鰻は食べてはならないとゆう禁忌がこの時より村に残されました。
日光,月光,星光の三光に照り輝く宇宙の大光明輪を背景として頭には五智妙来の宝冠を戴き,右手に智慧の利剣を持ち,左手に福徳の宝珠を捧げ,全身金色,容顔殊妙熙台喜悦の相,諸人の求願に応えて真実の知恵を授け,無量の福徳を与えんと本誓を示し給う,智恵の光明は日月を越え福徳の広大な宇宙より勝るから「虚空蔵」と名づけられました。
当時,星の宮は東西に小高い山並が連なり,其の間の窪地に浮かぶ段丘で十戸程の集落があり,北裏は篠藪と雑木が叢生し,古代からの仏石や仏文が刻まれた大小の石塚が,随所に有り,その周辺には,榎や欅の老木が覆い立つ霊感漂う荒地であった,西前寺東裏の崖下には崖に添っての長い沼地があり,虚空蔵菩薩のお使いである鰻が多く生息していました。
北西から南西にかけての窪地一円は,清水が湧き出し周りの山沢より流れこむ山水が東を流れる荒川と岩淵附近で打つかり逆流し酷い淀みとなり底なしの泥沼で,夏には菰や水草が繁茂し村人の通過以外踏み入ることが出来ない天然の要害として恰好の地であった。平安の末期より鎌倉,南北朝,室町,安土桃山と戦乱の五百年間,幾多の豪族や,武将が砦や,出城を築き,虚空蔵菩薩を守り本尊として心の拠り処として深く崇敬したと言われています。喜連川九代目藩主,塩谷椎延の弟左京亮幸賀太郎行縄が,長緑元年(一四五七)出城を築き,文明九年(一四七七)頃迄居住し其の後,加藤八郎の居住となり,地名を加藤氏(加藤内)と呼ぶようになった。
江戸時代となり乱世も治り,開運出世,無病延命,諸願成就と無量のご慈悲を授ける本尊は庶民の信仰益々高く,地元は勿論近村村から,其の御利益に授かりたく,祈願参詣者は常に後を絶つことがなかった。
天保十年三月十三日現在の本堂が再建され御本尊の両側の脇仏は向って右が不動明王で左は勢多加童子忌災の福寿の仏士で右手に金剛を持つ金迦羅とゆう,彫刻師伊賀守藤原後愛の作で,天保十三年(一八一八)願主藤左ェ門により奉納されたものです。
尚本堂内東西の欄間の六歌仙の絵画も当時奉納されたものですが(画人不明)破損が酷く昭和五十年,当部落の書画人,永井玉邨翁により模写されたものです。慶応四年神仏分離令,星宮の神霊を葛城細久保(鳴神山)に移し紀(祀)られ,明治三年福一満虚空蔵菩薩は,喜連山慈光寺に合祀されました。
平成三年六月十八日星宮虚空蔵菩薩像は町教育委員会により町有形文化財指定となる。
現在の本堂は,再建されてより百六十有余年,茅葺屋根の雨漏れが酷く其の他各所も腐朽し部落講X町,篤志者の御協力に依り,屋根を銅板葺替とし外壁,濡縁も改修されました。平成六年三月十一日着工,五月二十五日完成となりました。
星の宮部落改築委員...寄付者氏名...実行委員名
編さん相談役永井武知 撰文大塲邦夫
平成六年六月五日落恵鎮座式 大塲邦夫謹書



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