喜久澤神社

[きくさわ神社]

栃木県鹿沼市見野1542

旧地名:上都賀郡・菊澤村大字見野
祭神:藤原藤房卿 境内社:稲荷神社・三峯神社・足尾神社
創建は弘化四年1847。由緒の起源は明和四年1767に獲龍山の中腹から藤原藤房卿の遺物の発見に遡る。下記『下野神社沿革誌』記載の遺物は長光寺に納められていた。天保十五年1844例幣使万里小路正房卿より寄贈された藤房卿の真像を3年後に一宇を建立して奉祭した。明治政府が神社として認めたのが明治五年1872である。
東武日光線と並行する164号線沿いに旗杭と明治四十二年1909の社号標があり,かたわらに「名勝史蹟・喜久沢神社」の看板が掲げてある。その先に朱色の大きな鳥居が立っている。山に向かってしばらく進むと境内にたどり着く。社務所と「縣社喜久澤神社」の社号標。県指定天然記念物ツクバネガシの近くには「稲荷神社」が確認できる。社殿はさらに奥の沢に造営されているので,まだ見えない。
石段を二度上ると昭和60年1985の石段改修記念碑。立派な拝殿と石で囲われた本殿覆屋。神庫の屋根が損壊していた。
社殿の背後左手に弘化二年1845石燈籠や宝塔があり,右手に明治四十二年1909九月「喜久澤神社碑」
ツクバネガシより手前左手に社殿が隠れている。境内社にしては立派すぎる。旧本殿か?
例祭:4月12日
*『下野神社沿革誌』巻三-16丁(明治三十五年1902)
上都賀郡菊澤村大字見野鎭座 縣社 喜久澤神社 祭神 中納言万里小路藤原藤房卿靈 祭日四月十二日
建物本社間口四尺五寸奥行三尺五寸栃葺 幣殿間口三間奥行二間 木鳥居一基 寳物 古鏡一面/表に興国四年1343辛巳*三月(*辛巳は興国二年)祖父資通冥福父宣房▢福不二行者授翁外に經文あり 寳祚興久一字三禮一品一銭とあり/裏に/整衣冠尊瞻視/の六字あり 紫銅三重塔 古丁錢九百枚餘 此の三品は明和四年1767獲龍山崩壊の時土中より發見したる遺物なり 故中納言藤原藤房卿の眞像一軆 板茵/禁裏御所拜領にして菊の御紋ウンコン縁付たるもの/万里小路正房卿より奉納 大旗/一流正五位栃木縣令鍋島幹一流従五位同藤川爲親の奉納なり 氏子九十四戸總代十員 社司掌/田邊上豊同郡落合村大字岩崎 高島廣國同郡菊澤村大字見野
本社創建は弘化四年1847にして明治五年1872喜久澤神社の神社號を賜はられ同七年六月十日縣社に列せらる 祠官田邊上豊祠掌高島廣國に命せらる 祭典には地方官臨塲し嚴かなる祭式を行ふ 神社紋章は竹の丸の内に三つ笹三羽雀なり(続きは長いので写真の下に)
石段改修記念碑
本殿裏手
喜久澤神社碑 大雨が心配だ 鳥居の先の山に鎭座
道路沿い ツクバネガシ
稲荷神社 縣社の文字 社務所
社務所の反対側に屋根 社殿が見える
旗杭もある 社号は分からない
由緒は明和四年丁亥正月霖雨の爲め同月廿八日西見野村獲龍山の山腹崩壊し卿の遺物發見し里民之を得て官に訴ふ 遂に許ありて西見野村長光寺に保護をなさしむ 茲に古老の傳聞に故中納言藤房卿の墳墓にして其遺跡たること明かなるを以て天保十五年四月万里小路正房卿日光例幣使の勅命を受け参向の路次本地に立寄り發見の遺物等拝覧ありしより爾后先例となりて年々例幣使の詣するに至るも慶應年間に止む 弘化四年四月万里小路正房卿より故中納言藤房卿の眞像を贈らるヽより村民等昔日崩壊せし邊を拓き一社を建設し卿の眞像を鎭祭し傍らに古鏡古錢三重塔の遣物を納め寺僧をして監守せしめしも王政の新天に至り明治五年神社號を賜はられ同七年縣社に列せらる 而るに本社は久しき星霜を經るにより社殿破砕し漸々腐朽せんとす 茲に祠官田邊氏深く患て有志の寄附を募り本社幣殿拝殿社務所等を造營し悉く壯観を極む
本社は松平豊後守崇敬により御供米として米一俵宛年々奉納せらる 殊に鍋島藤川兩縣令の尊崇する所なり
社域四千八十餘坪にして岭々たる獲龍山の中腹崩壊せる趾にして峨々たる岩層三方に繞らし其中央に社殿を鎭す 石磴二十三階を躋れは古樅松杉蓊蔚にして幽凄の趣に富み風光頗る絶景なり
國史開係
大日本史に後上言大聽藤原之曰臣之道於我盡り侍御前至瞭而退却還事徒入北山岩藏爲とあり案するに卿か廷を去りし後洛北の岩蔵に至り不二房を師として十戒待律を修め身を雲水に托し修行の趣意を鏡面に鐫り付玉ひ觀音古錢を携帯し下野都賀郡西見野長光寺に至れり 寺の後園に接し山丘相連なれる内に菊ヶ澤と云へる地あり茲に庵室を結ひ冥福を祷り居給ひしと今神社附近の地是なり 抑も長光寺は元洛西妙心寺派にして哲外和尚の開基慶安三年の草創なり 然るに享録年中下野國都賀郡玉田村瑞光寺八世妙極和尚入つて住職となり以後長光寺を洞門とするよし之是れを見れは妙心寺と長光寺は由緒關係するものとあるを知るべし 卿か入北山岩藏と云云
又大日本史の下曰帝警命宣房索之將再任用宣房馳人召之藤房以哥答曰
  なにことのうらやましさにかへるへきよにありとてもいとひこそせめ
宣房親馳至岩藏則藤房既去矣書哥障子曰く
  すみすつるやまをうきよのひととはヽあらしやにはのまつにこたへん
既去後逐ふに由なし憶ふに卿を索め玉ひし時は早や東北に至り深く其追跡を顕せし日にやあらん 況や卿か山谷僻遠の地を求め難行苦行を身になしヽに於けるをや 案するに當時の喜久ヶ澤は森林叢草渓谷の地にして人跡の至る稀なるぺきなり 憶ふに卿か終世の地又他に非ざるを證するに足る
住吉神社

住吉神社

[すみよし神社]

栃木県鹿沼市見野585

旧地名:上都賀郡・菊澤村大字見野
祭神:上筒男神・中筒男神・底筒男神
境内社:三峯・鹿島・稲荷・厳島・庭渡・薬師・豊年神社
行川と黒川の合流地点付近の菊沢小学校の北1キロに鎮座。1250年以上前に創建された県内屈指の古社。500m北に富岡の熊野神社がある。
鹿沼市役所の北5キロだが,なにやら恐ろしげな「熊注意」の看板が。
二の鳥居をくぐると「文化二年乙丑1805九月」と「天保十五年1844甲辰九月吉日」の石燈籠。
本殿左に「鹿嶋神社」,その左手の朱色の祠は「厳嶋神社」,となりの石祠は「薬師大神」
本殿右に「庭渡神社」,その右手の石祠は「稲荷神社」,電燈新設記念碑の右に「豊年大神」
電燈新設記念碑裏に壊れた石祠と木製祠があり,どちらかが「三峯神社」だろう。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 住吉大明神 見野 青柳河内
*『下野神社沿革誌』巻三-19丁(明治三十五年1902)
上都賀郡菊澤村大字見野鎭座 村社 住吉神社 祭神中筒男命 建物本社間口五尺二寸奥行五尺四寸 末社四社 氏子九十四戸
本社は神護景雲年中767~770の創立にて字山根に在りて社域一千八十九坪を有せり
一の鳥居 石段を上ると二の鳥居 熊が出る!!!
二の鳥居をくぐってさらに石段 本殿  
  享保二丁酉1717 左が享保二年の石燈籠
   
鶏神社

鶏神社

[にわとり神社]

栃木県鹿沼市見野1526

上記喜久澤神社の北,164号線沿いの民家の庭に鎮座する。明治三十六年1903再建の石宮が祀られている。文政十三年1830石燈籠。個人の崇敬社のようだ。詳細不祥。鶏はもちろん荷渡神社系列。鹿沼では西沢町にもニワタリ神社が鎭座。上記の住吉神社の境内社にも庭渡神社がある。
道路方向

 

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