神明宮

[しんめいぐう]

栃木県さくら市葛城281

祭神:天照大神
旧地名:塩谷郡喜連川町大字葛城
293号線「鍬柄坂上交差点」を右折して800mほど,東光寺手前左手に鳥居が見える。
昭和六十二年1987の社号標裏面に「神明宮由来」が刻まれている。永禄六年1563伊勢皇大神宮の御分霊を奉遷とある。「平三郎村と称され」とあり,『鹿沼聞書・下野神名帳』と一致する。明治四十二年1909十二月に喜連川神社に合祀された後も「お宮さん・鎭守様・天社」と呼ばれて親しまれてきたと書かれている。昭和六十一年に社外覆と参道などの改築改修を記念して碑を建てたとも刻まれている。
国家統制から自由になって,合祀されたことは氏子にとって関係がなくなっている。すばらしい。
2012年11月20日参拝のときには木鳥居だったが,翌平成25年2013六月に石鳥居に建て替えられた。石鳥居の写真は2018年7月撮影。
鳥居左手の熊野山碑に明治二十五年1892参拝者,月山・羽黒山・湯殿山碑に大正十四年1925と昭和十二年1937に参拝した氏子さんの名が刻まれている。左手奥は大正四年1915熊野山。社号標裏の熊野山は明治三十四年1901。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 神明宮 平三郎村 高橋
*『下野神社沿革誌』巻七-13丁 明治三十五年1902
鹽谷郡喜連川町大字葛城鎭座 村社神明宮 祭神天照大御神 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口三尺五寸奥行三尺五寸 雨覆間口二間奥行二間 拜殿間口九尺奥行二間 木鳥居一基 石燈籠二基 氏子五十戸 社掌高鹽數麿同町二五六番地住
本社は永禄六年1563中鹽谷兵部大輔惟朝の家臣關和泉仲保か崇信により伊勢皇大神宮の御分霊を奉遷し此地に勸請せしか濫觴にして后村民彌崇敬して鎭守神となす 明治五年1872村社に列せらる 社域百三十八坪 本社は元西葛城村の山腹に鎭し境内には櫻樹を植ひ春は櫻花亂發し艶雪香雲凝つて流れす洵に絶奇と稱すへし
2012年木鳥居2018年7月撮影2018年7月撮影
簡素な社殿左から湯殿山・月山・羽黒山,熊野山2基,神明宮社号標と熊野山
社号標裏の神明宮由来
拝殿額本殿
背後は山石祠があったか
石塔と石祠手入れが行き届いている震災
石段から男体山が見える右手に見えるのは御丸山公園
虚空蔵菩薩

虚空蔵菩薩

[こくぞうぼさつ]

さくら市・葛城1203

星宮福一満虚空蔵菩薩が祀られている。
293号線で道の駅喜連川を越え,鍬柄坂kuwagarazaka下信号を右折,神明宮のすぐ先を右に降りて葛城大橋で荒川を渡り小高い丘を探す。道端に「ほほえみ仏2号」を見つけて坂を上がると境内地。入り口に4基の石仏と1基の石塔。標識に「○○菩薩堂」
平安末期の1168年創建。堂宇右手軒下の由来書が掛けられている。(明快かつ往古の葛城の描写が見事な板書なので,写真の後に全文掲載させていただきます)。
天保十年1839に現在の本堂が建立され,平成6年に修復されている。慶応四年1868に維新の神仏分離令で葛城細久保の鳴神山に遷され,福一満虚空蔵菩薩は喜連山慈光寺に合祀された。(喜連山は山号で喜連山歓喜院慈光寺。さくら市喜連川4374に現存する。境内に國朝の子義方を鎭祭する御坊権現)
維新政府の強権で合祀されたが,現在は地元で信仰されていて,平成六年に改築している。
荒川流域の広大な田園地帯が見下ろせる境内には老桜と籐。
福一満虚空蔵菩薩は,丑年,寅年生まれの守り本尊なので,入り口の狛犬が牛と虎である。とてもユニークなのでしつこく写真を。
1924年狛犬台座に「栃木縣塩谷郡喜連川町大字葛城・大正十三甲子年十一月・金田渓谷刻」
菩薩堂内部に福一満額。奉納額も福一満のトラと丑寅虚空蔵尊のウシの絵。右手にはウナギの奉納額。
喜連川町指定文化財の標識に「指定日 平成三年六月十八日」「所有者 葛城星の宮講中」
入り口に「ほほえみ仏」一基は昭和62年。
【参考】葛城に星宮は見つからないので,下記は当社をさすかもしれない。創建年が異なるので,あるいは明治三十九年1906に喜連川神社に合祀されて消えてしまった星宮かもしれない。
*『下野神社沿革誌』巻七-14丁 明治三十五年1902
鹽谷郡喜連川町大字葛城鎭座 村社 星宮神社 祭神經津主神 祭日陰暦九月十九日 建物本社間口三尺奥行三尺 雨覆間口二間奥行二間半 拜殿間口三間奥行二間 石鳥居一基 氏子八十五戸 兼社掌高鹽數麿同町二五六番地住
本社勸請は正徳六年1716にして一村の鎭守神たり 社域四十坪 字高山に鎭座す 末社一社あり
堂内の紹介
ウシとトラ 由来板書 堂内
年代不明の石燈籠2基 入り口 ヒョウのようなトラ
ただ者出はない風貌
ウシ すばらしい造形
手水石
入り口の坂 ほほえみ仏 坂を上がった右手
古そうな石像 左2基 中央辺りに鎮座
星の宮虚空蔵尊の由来
星の宮虚空蔵尊の由来については古くより次のように言い伝えております。今を去る八百有余年前,平安の末期嘉応年間(一一六八)高倉天皇の御代,大洪水により,深山幽谷より,流れ来て,この地東裏にある沼地に漂よい夜な夜な,瑞光を放す不思議な霊木に,村人は怪しみ恐れていました。
たまたま通りかかった旅の僧は,村人からその話を聞かれ陸に引きあげ黙拝し,近くの川で身を潔め,お加持をなされ,庵に籠りて,全身 全霊をかたむけ刃を下し,念仏を唱えながら刃を振りついに高さ八十二センチの虚空蔵菩薩の座像をお刻みになり,星宮福一満虚空蔵菩薩(俗称丑寅虚空蔵尊)と名づけ,この稀なる霊地葛城山西前寺に安置し奉ったのであります。それ以来この地を星の宮と呼ぶようになりました。星宮とは宇宙の方位を示す大明神で,天の水を司る神であり,鰻は水界の王「水神」であり虚空蔵菩薩の,のりうまでお使いである。このありがたき鰻は食べてはならないとゆう禁忌がこの時より村に残されました。
日光,月光,星光の三光に照り輝く宇宙の大光明輪を背景として頭には五智妙来の宝冠を戴き,右手に智慧の利剣を持ち,左手に福徳の宝珠を捧げ,全身金色,容顔殊妙熙台喜悦の相,諸人の求願に応えて真実の知恵を授け,無量の福徳を与えんと本誓を示し給う,智恵の光明は日月を越え福徳の広大な宇宙より勝るから「虚空蔵」と名づけられました。
当時,星の宮は東西に小高い山並が連なり,其の間の窪地に浮かぶ段丘で十戸程の集落があり,北裏は篠藪と雑木が叢生し,古代からの仏石や仏文が刻まれた大小の石塚が,随所に有り,その周辺には,榎や欅の老木が覆い立つ霊感漂う荒地であった,西前寺東裏の崖下には崖に添っての長い沼地があり,虚空蔵菩薩のお使いである鰻が多く生息していました。
北西から南西にかけての窪地一円は,清水が湧き出し周りの山沢より流れこむ山水が東を流れる荒川と岩淵附近で打つかり逆流し酷い淀みとなり底なしの泥沼で,夏には菰や水草が繁茂し村人の通過以外踏み入ることが出来ない天然の要害として恰好の地であった。平安の末期より鎌倉,南北朝,室町,安土桃山と戦乱の五百年間,幾多の豪族や,武将が砦や,出城を築き,虚空蔵菩薩を守り本尊として心の拠り処として深く崇敬したと言われています。喜連川九代目藩主,塩谷椎延の弟左京亮幸賀太郎行縄が,長緑元年(一四五七)出城を築き,文明九年(一四七七)頃迄居住し其の後,加藤八郎の居住となり,地名を加藤氏(加藤内)と呼ぶようになった。
江戸時代となり乱世も治り,開運出世,無病延命,諸願成就と無量のご慈悲を授ける本尊は庶民の信仰益々高く,地元は勿論近村村から,其の御利益に授かりたく,祈願参詣者は常に後を絶つことがなかった。
天保十年三月十三日現在の本堂が再建され御本尊の両側の脇仏は向って右が不動明王で左は勢多加童子忌災の福寿の仏士で右手に金剛を持つ金迦羅とゆう,彫刻師伊賀守藤原後愛の作で,天保十三年(一八一八)願主藤左ェ門により奉納されたものです。
尚本堂内東西の欄間の六歌仙の絵画も当時奉納されたものですが(画人不明)破損が酷く昭和五十年,当部落の書画人,永井玉邨翁により模写されたものです。慶応四年神仏分離令,星宮の神霊を葛城細久保(鳴神山)に移し紀(祀)られ,明治三年福一満虚空蔵菩薩は,喜連山慈光寺に合祀されました。
平成三年六月十八日星宮虚空蔵菩薩像は町教育委員会により町有形文化財指定となる。
現在の本堂は,再建されてより百六十有余年,茅葺屋根の雨漏れが酷く其の他各所も腐朽し部落講X町,篤志者の御協力に依り,屋根を銅板葺替とし外壁,濡縁も改修されました。平成六年三月十一日着工,五月二十五日完成となりました。
星の宮部落改築委員...寄付者氏名...実行委員名
編さん相談役永井武知 撰文大塲邦夫
平成六年六月五日落恵鎮座式 大塲邦夫謹書

 

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