御霊神社

[ごりょう神社]

栃木県さくら市喜連川3579

祭神:若御魂命・鎌倉権五郎影政公
旧地名:塩谷郡喜連川町大字喜連川
喜連川神社,伯耆根神社,田中稲荷に次いで,お城に近い社である。喜連川庁舎の北方。中心部の街道を北進し,福島酒店を左折して突き当たりを右に進むと右手に。
『喜連川町誌』p.145に「御霊神社(松並)」と植字され,祭神に「若御魂命」と「鎌倉影政公」が併記されている。 後三年の役1083-87に源義家について戦った鎌倉影政,時に16歳。清原勢の弓矢に右目を射られるも奮戦して敵を射殺す。この影政の左右の目の大きさが違う木造座像が社殿に祀られている。武運の神である。鳥井脇の標識にあるように昭和62年の調査で喜連川町指定文化財に指定された平成三年頃は足利頼氏公木像と推定されていたことがある。近年の再調査で再び影政公像と推定された。
明治四十四1911年1月11日に喜連川神社に合祀された。
平成22年奉納の新しい鳥居。次に紹介した八幡宮と同じように御神体返還があったのだろう。
文政十三年1830 御神燈
弘化四年1847丁未十月十日 正一位金毘羅大権現

Web地図・さくら市HPに「御領」とあるのは間違い。「御霊」です。なお文久三年1863の「紙本着色喜連川城下絵図」には「五霊宮」と数字の五で記録されている。
拝殿前石段金毘羅大権現
文政十三年1830
御霊神社の額全部見えない板絵こちらは「御霊宮」
旧喜連川町指定庁舎側から
八幡宮

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県さくら市喜連川3525

祭神:譽田別命
旧地名:塩谷郡喜連川町大字喜連川
御霊神社野北約350m。専念寺の南隣りの路地奥に鎮座。
拝殿内の本殿上部に「八幡宮」扁額。左右に「八幡宮」奉納額。
右手の板書に「御神軆還納記念・當時の世話人発起となって八幡宮の社殿を改築し同時に郷社に御神体返還を要請昭和ニ十九年九月十二日無事八幡宮に還納せり」
これは明治四十三年1910九月四日に郷社喜連川神社に合祀させられた松並八幡宮を,戦後,神道指令「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」によって,政府支配から自由になって,再び御神体を町内に呼び戻し,改築した社殿に祀ったことを意味する。貴重な記録である。
その後ろの板書は「平成十四年XX台風により倒壊 町内各戸壱萬円の浄財による 八幡宮鞘堂建立」
文久三年1863の「紙本着色喜連川城下絵図」によると町筋から「龍蔵院」参道を入って正面に龍蔵院,その奥に八幡宮が描かれている。現在の社殿より大きかったようだ。立王山光福寺龍蔵院は廃寺にされ,専念寺が残った。
つぎの200年以上前の古記録に別当「竜蔵院」と記録されている。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 男山八幡宮 喜連川 竜蔵院
貴重な文字が書かれている
古そうだ本殿上部に「八幡宮」昭和15年製
石塔の名残旗竿
八龍神社

八龍神社

[はちりゅう神社]

さくら市喜連川3294

境内社[八龍神社]

祭神:海神命
旧地名:塩谷郡喜連川町大字喜連川
八幡宮の北東300m,内川右岸に鎮座。喜連川の町中を抜け,台町交差点を北に直進し内川にかかる金竜橋の手前を左折してすぐ。
拝殿内に「八龍神」の額,となりには「龍神宮」。奥にかなり古そうな本殿が見える。昇り龍,降り龍もかろうじて確認できる。左手に見事な墨絵の龍。
なお文久三年1863の「紙本着色喜連川城下絵図」には「八龍神」で記録されている。
「八龍山」と刻まれた石燈籠は大正八年の奉納。
賞状の宛名に「河原町」と見える。昔の小字は「八龍神」である。
「八龍山・御神燈」は嘉永三歳次庚戌1850九月吉日の奉納。
大きい方の石燈籠は明治三十二年のもの。
社殿左手奥に古峰神社の石祠。
大正九年の庚申塔。
明治四十二年1909十二月二十七日に喜連川神社に合祀されている。昭和54年の「八龍神新築記念植樹」板書が拝殿内にあるので,国の支配から自由になって地元で祀っていることが分かる。
拝殿左手
「八龍神」扁額 墨絵の龍 賞状と板書
嘉永三年 八龍山・御神燈 八龍山と刻まれている
庚申塔 聖地参拝記念碑
内川が見える 杜の向こう側が内川 内川左岸から 車の真後ろの森に鎮座
右手に喜連川城址
金雞山神社

金雞山神社

[きんけいざん神社]

栃木県さくら市喜連川1470

祭神:猿田彦命
旧地名:塩谷郡喜連川町大字喜連川
喜連川の中心部から北上し金竜橋を渡って旧陸羽街道・佐久山喜連川線を500mほど進んで右手に鮮やかな朱色の鳥居が見える。隣りは田町公民館。
鳥居額は隹の雞で「金雞山」
瀟洒な社殿の額は文字ではなく二羽の鶏が描かれている。本殿左右のレリーフは雛鳥か。
文政五壬午歳夏1822「金麗川艸碑」(彫工 佐久山 ?梁)
嘉永七年甲寅1854仲秋 秋與題「(読めない歌)潭梁」碑。裏に「結廬在人境恬淡自養者…葛城 素梁 ○五○ 早游/石堤/五水/潭崖 補助 宇都宮霞郷 氏家青什 素○」
大正十一年1922旧三月十五日「甲子記念碑」
昭和四十三年九月十七日「庚申塔・田町々内一同」
江戸期には,となりに明治初期に廃寺にされた金鶏山宗林寺一条院があった。
鮮やかな鳥居社殿
右手に2社祀られている拝殿の絵額白着色の見事な彫刻
雛鳥だろう左:甲子記念 右:金麗川艸碑道路拡張鳥居改修記念
 道路側から
田中稲荷

田中稲荷大明神

[たなかいなり]

さくら市喜連川3915

祭神:豊遠賀比賣命
旧地名:塩谷郡喜連川町大字喜連川 倉ケ崎
喜連川小学校の校庭に鎮座。参道・境内地を校庭に寄附しており,昭和56年に謝辞の石碑が建てられている。
文久三年1863の「紙本着色喜連川城下絵図」には「稲荷」で記録されており,広大な田の中心にあったことが見て取れる。
現在は鳥居から一直線西に御丸山公園のタワーが見える。つまり昔はお城が見えた。
豊遠賀比賣は書記に見当たらず不明。
明治四十四年1911にいちど喜連川神社に合祀されている。
3額とも田中稲荷大明神左手に境内社
右手に校舎
参道を校庭に寄附校舎が見える
正門からサッカーゴールのところ
稲荷神社

稲荷神社

[いなり神社]

さくら市喜連川4225

祭神:倉稲魂命
旧地名:塩谷郡喜連川町大字喜連川
道の駅喜連川から246号線を渡って直進してすぐ左手。社号はとくに見当たらず,新旧の狛狐が稲荷を表している。
詳細は不明。
車の進行方向に道の駅
弁財天

厳島神社野邊山弁財天

[いつくしま神社のべやまべんざいてん]

さくら市・喜連川4699

喜連川丘陵の震災で崖崩れを起こした喜連川タワーの西に「かんぽの湯」がある。そこから荒川に向かって斜面があり,その中腹の道路沿いに鎮座。璉光院から西に500mほど進んだ右手。荒川が見下ろせる。
お近くのお宅でおうかがいすると「弁天さまだよ。恵比寿,大黒,毘沙門,弁天,布袋,福禄,寿郎神の四番目だよ。もとは厳島さん」とすらすら。「昔はもっと大きかったんだけどね。今じゃあんまりお参りに来ないよ」
喜連川神社から見た場合は西では最初の神社になる。
社号は社殿内に置かれた平成16年12月1日の「御本殿改修記念」板書による。「野辺山」は旧喜連川町の小字名。
本殿隣りに「奉納 祝迎弁天神 平成16年12月吉日 野辺山一同」白地布様に墨書したものが掲げてある。
その左手の壁に「厳島神社改築記録 改築期昭和四十八年十二月」
往古は野辺山辯才天であったが,維新の神仏分離令で厳島神社を名乗った。言を使った「辯」字は当用漢字で制限されて「弁」になる。鳥居額は弁財ではなく「才」もそのまま「辯才天」と見事な風格。
大きめの旗杭の左手に石祠2基。
手前は「庚申供養塔・天明八戊申年1788十一月吉祥日・野辺山中」
奥は読みにくいが「明治十六年1883○○○・○村・(月篇の字)・稲見直吉・七月」か。
上段右から「(小字で2行)○内 ○神」中央に「くまの三社」左に「え平?神」。
下の行右から「羽くろ神」「ゆとの神」「月○神」
右脇に「今上皇富壽○全国家人安全」
入り口 太鼓橋
水がある
両部鳥居の額 石段を上る
本殿 御本殿改修記念 厳島神社の文字
本殿右手の面 左手の山 右手の山
庚申供養塔 くまの三社
拡大 左脇 右脇
社殿から見下ろす 荒川が見える
愛宕山神社

愛宕山神社

[あたごやま神社]

栃木県さくら市喜連川4584-2

祭神:火産霊命
旧地名:塩谷郡喜連川町
御丸山公園の南,荒川右岸の荒川養殖漁業生産組合隣りの小集落に鎮座。
詳細は不明。
愛宕山神社瀟洒な佇まい
本殿喜連川神社神璽
拝殿から旗杭万延元年1860二十三夜塔

 

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