喜連川入門以前
●高原山系釈迦ケ岳の南斜面を水源とする「荒川」と,高原山系剣が峰東斜面を水源とする「内川」が喜連川町南部の「道の駅きつれがわ」で合流する。荒川は南東に流れて烏山南部で那珂川に合流する。名水で有名な尚仁沢が荒川の源流である。さらに東部を「江川」が貫流する。昭和30年に合併した上江川村から下河戸,南和田,金枝,鹿子畑に「江川」が貫流する。喜連川は水利に恵まれて良質な田園地帯を構成する。
●栃木県中央を北から東に斜めに横断する山脈を「喜連川丘陵」と呼ぶ。高原山麓に始まり矢板,喜連川,南那須町,市貝町,益子に続き,八溝山地につながる。塩那丘陵,下野丘陵とも呼ばれ,この丘陵の北を那珂川が茨城に向かい,南を鬼怒川が南流する。荒川,内川,江川が氾濫を繰り返し,喜連川丘陵を削って沖積平野を発生させた。明和三年1766の荒川大洪水では璉光院の南側境内が崩壊し,本堂,祖師堂,衆寮,鐘楼,経蔵が流失した。
荒川右岸の田園にある赤城神社の標高は140m,その南向かいの浅間神社の標高は206mで,66mの高度差がある。荒川北のタワーの標高は195m。
内川右岸の於麻武神社の標高は146m,その北向かいの山腹にある鹿嶋神社の標高は197mで,高度差51m。
江川右岸の氷川神社裏の山頂標高は203m,北の田園の標高は150mで高度差53m。
●塩谷維弘が義経に付き従い屋島の合戦の功により,ここ塩谷の里,喜連川に三千町を賜り,大倉ケ崎に築城したのが文治二年1186のことである。塩谷氏は十七代惟久が豊臣秀吉に逆らって天正十八年1590に滅亡するまで曲折はあったが400年の長きにわたってこの地を治めた。
惟久の妻島子は足利頼純の娘であり,その弟国朝は義明の孫に当たる。秀吉は島子の懇願もあり,武家の棟梁の立場から名家である足利氏を立てる必要もあって古河公方五代足利義氏の娘を国朝に娶らせ古河公方足利家を継がせ3500石の喜連川城主とする。国朝は文禄二年1593に逝去し,保福山興国寺,現在の法常山璉光院に葬られ,後を継いだ国朝の弟頼氏から喜連川氏を名乗ることになる。
●徳川幕府もまた名門を重んじて石高1万石に満たないにも関わらず10万石の格式を与えて「喜連川公方」の面目だけを保たせた。関ヶ原の後,慶長六年1601に1000石,寛政元年1789には500石を加増され,計5000石を領有した参勤交代を免除された特殊大名の特殊藩で,喜連川公方は「五千石国主」とも呼ばれた。
喜連川氏は明治維新に足利氏を復称するまで十三代270年にわたりこの地を治めた。
●鎌倉期に喜連河・喜烈川・狐川・狐河などと記録されている。塩谷郡に属し,明治二十二年1889に喜連川町・鷲宿・小入・早乙女・葛城が合併して「喜連川村」となり同年6月町制施行,「喜連川町」となる。昭和30年に那須郡上江川村を合併。昭和51年に鷲宿・小入・早乙女の一部を氏家町に編入。平成17年2005に氏家町と合併し「さくら市」に属す。

●喜連川の神社38社
『鹿沼聞書・下野神名帳』(1800年頃)には推定12社が記録されている。
『下野神社沿革誌』(明治35年1902十一月十八日発行)には14社が記録されている。
『栃木県神社誌』(昭和39年2月11日発行)には8社が記録されている。
『喜連川町誌』(昭和52年11月3日発行)には12社が記録されている。
『栃木県神社誌』(平成18年7月12日発行)には8社が記録されている。
「さくら市のホームページ」(喜連川の古刹)には2012年11月現在28社が記録されている。
明治四十年1907から四十三年1910の間に「喜連川神社」は23社を合祀している。
「鷲宮神社」も11社を合祀。
「赤城神社」は7社を合祀。
「穂積神社」は10社を合祀。
明治三十九年1906の勅令によって喜連川では51社が合祀された。
神道指令によって国の支配から自由になった現在,合祀された社が旧鎮座地に復活している場合もある。
なお南和田の「磐裂神社」は『喜連川町誌』発行の後30年ほどの間に「星宮神社」に変更されたようだ。
早乙女愛宕山神社わきの羽黒山神社と葛城の星宮虚空蔵菩薩を加えると,2012年現在,喜連川には38の神社が現存する。

【付録】
●喜連川町 *『下野神社沿革誌』巻七-12丁 明治三十五年1902
本町は喜連川,鷲宿,葛城,早乙女,及ひ小入の舊一宿四ヶ村を合せ一の自治區をなせしものにて幅員東西一里十五町あり喜連川は其中央にして他は南北西の三面に點在す 地勢稍平坦にして内川荒川の二川あり 町民の風俗敦厚活潑にして喜連川は専ら商業を螢み其他は農業に従事し敬神の風あり
古來の沿革を尋ねるに鷲宿は旗下の釆地に屬し他は共に喜連川の領邑にして同藩の治廳あり 維新后に及び共に宇都宮縣に次て栃木縣に屬し第三大區二小區に編入せられ次て小入村を除き一戸長役塲に屬し后二戸長役塲に分屬せられ更に又三戸長役塲の所轄となり而して町村制實施に當り又合して一の自治町に至しものとす
本町には有名なる郷社喜連川神社及ひ伯耆禰神社を始め各大字には村社あり其氏子を合算すれは九百五十餘戸人口六千五百八十人許を有す
本町大字早乙女に名勝あり之を鹽谷の里と云へて古より名所にして詠歌多し 回國雑記に曰く「旅衣うちふれてゆく甕のやに煙さひしき夕かすみかな」と詠せるは即ち此地なり 又下野歌枕に藤原躬鶴の歌に「甕のやの月かけ淸みあこかれて蜑ならぬ身もやとりさためす」其他古詠多けれとも省略す
喜連川の古城跡は同町の西北に在り今は只其跡のみ存せり
●上江川村 *『下野神社沿革誌』巻八-13丁 明治三十五年1902
本村は下河戸、上河戸、南和田,金枝、鹿子畑,穂積の舊六村を合せて一の自治村となせしものにて其幅員東西一里十八町南北二里十町各部落は西北より東南に延長して民居接續し地勢東西に山脈連亘し西は鹽谷那と界を接し東は佐久山町に連り北は野崎村に隣し南は下江川村に連續し江川は村内を流れ灌漑の便あり 村民質直にして親密の風あり 古來沿革に付ては往時は幕府領若しくは旗下の釆地たりしか維新后に至り栃木縣所轄となり第三大區四小區及ひ八小區に編入せられ后一戸長役塲の所轄となり次て町村制實施に及ひ合同して一村となるなり
本村には村社七社ありて其氏子戸數三百余戸人口二千五百十余人を有す

 

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