龍神社・八大龍王宮

[りゅう神社・はちだいりゅうおうぐう]

益子町・七井3195

主祭神[高龗神]

益子町大字七井3195
主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
明治五年八月に氏子が協議して水の神の龍神「高龗神」を奉斎することを決める。
真岡鉄道多田羅駅の南500m,163号線沿い。
平成10年11月の鳥居額は「八大龍王宮」本殿内の額も同じ。『栃木県神社誌』には通称「八大龍王宮」とある。
平成10年の花崗岩鳥居の左手に石塔が6基ずらりと並ぶ。かなり古い。この地に昔から小祠があって,明治五年に龍神社としたのか,古来からの聖地に創建したのかは不明だが,仏教関係の古碑と神社の歴史が必ずしも一致しない例である。
「安永五申年 前田嶋 十三夜供養塔 十月十三日同行中」1776
「享保三 奉供養十九夜念佛二世安楽所 十一月十九日」(養は羊良が上下でなく左右に)1718
「元禄十二歳己卯 前田嶋道男同X 擧身光中五道衆生 一切色相皆於中現 九月十九日 本願主六十八成」1699
「享保五庚子天 前田嶋同行 奉納西國卅三所X二世爲安樂 八月九日 十五人内八人 田小谷」1722
「正徳二壬辰歳 萩原平八 高橋次荘 梶木正?重 深沢久了 奉詣西國巡礼爲二世安樂也 霜月吉日 敬白」1712
神社登り口に維新前の「元治元甲子歳 二十三夜塔」1864と「元治乙丑年正月」1865の石塔,中央に地蔵計3基が並ぶ。
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本殿:棚造銅板葺 拝殿:寄棟造銅版葺  例祭:11月15日
拝殿内
神社の由来より遥か昔の 元禄十二1699など古い石塔
日枝神社

日枝神社

[ひえ神社]

益子町・七井1003

境内社:[高龗神社]

芳賀郡益子町七井1003
主祭神:天太玉命
配神:奥津彦命,奥津姫命,大己貴命 境内社:稲荷神社(保食大神),加茂神社(大雷神),二荒神社(事代主神)これに『栃木県神社誌』新版では日月神社,瀧神社,八雲神社,高龗神社が加わっている。旧版327頁にはこの4社の記述はない。ちなみに日月,瀧,八雲の3社は小貝川対岸の七井の地に南北に並んで現存する。
小貝川の東400m,七井駅の北600mの田園地帯に鎮座。
鳥居右手の社殿は「八雲神社」。村社日枝神社の社柱と一の鳥居は大正三年四月三日。杉の古木の参道の奥に平成14年の朱塗りの両部鳥居と拝殿が見える。
「天保三壬辰年 十二月吉辰」1832の手水石が新調された土台に保存されている。昭和九年の狛犬。昭和十年の石燈籠。
由緒沿革によれば神護景雲二年768創立という。矢島郷惣鎮守。中世から山王神社,山王権現とよばれてきた。
現在の社殿は享保四年1719正月の建築。改修は行われているが,県内屈指の古社殿である。圧倒的な存在感のある茅葺きの偉容を見ることができる。
拝殿内に4枚の板絵が掛かっているが肉眼では暗くて確認できない。
拝殿右手に石祠2基。その奥に手水石つき石祠1基。こちらには土台の四方に金毘羅大権現,秋葉山,石尊大権現,八百万神の文字。
裏手に1基。 拝殿左手に5基。ひとつは賀茂神社の社柱があるが,他には文字なし。高龗神社がどれにあたるのか不明。
境内に神社7社があり,それぞれに井戸すなわち泉がわいていたため「七井」の地名になったという。亀井,石井,宝来,桜井,宝井,種苗,瀧の水と呼んだ。現在その面影はない。
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本殿:流造茅葺 幣殿:日吉造トタン葺 拝殿:日吉造トタン葺 例祭:11月第2日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡 正一位 山王神社 七井村 岩松志摩
*『下野掌覧』万延元年1860 芳賀郡之部
正一位 山王神社 七井村鎮座 祭主岩松氏ナリ *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・19丁
芳賀郡七井村大字七井字山王鎭座 村社 日枝神社 祭神 天太玉命 澳津彦命 澳津姫命 大己貴命 建物本社間口二間奥行三間 拜殿間口五間半奥行三間半 瑞籬延長十三間 末社八社 華表一基 盥漱盤一基 氏子百六十三戸 社掌岩松義一
本社創立遼遠にして詳かならす 長久元年1040正月矢島城主七井刑部太夫頼治の再建にして丸木を以て造營す 久寿二年1155室神社日枝神社を本社に合祀し三王神社と改稱す 中古山王權現と稱せしは(山王山王國音通すれはなり)建保四年1216六月岩松新六郎綱持本社再建す 當時社殿を距る南八十間の所に槻木日本左右に並植して一の鳥居木と名稱す 今尚繁茂せり 永禄二年1559五月一日社殿祝融の災に罹り悉く灰燼に歸す 享保四年1719正月再建す 今の社殿これなり 慶安二年1649徳川將軍家光より社領七石を寄附せられ仝將軍累代崇敬厚く先判の例により朱印地を下賜せらる 社域一千五十六坪社殿宏壯古杉森然として之を繚繞し幽邃の趣に富み地方屈指の社なり
八雲神社
熊野神社

熊野神社

[くまの神社]

益子町・大平57

境内社祭神[闇龗神]

芳賀郡益子町大字大平57
主祭神:伊弉册命 配神:天之狭土命,國之狭土命
境内社が稲荷,四社,湯殿,八坂,大杉,浅間,愛宕とあり,そのうちの四社神社の祭神が「闇龗神」[くらおかみのかみ]である。四社神社他の3神は豊磐間戸命,櫛磐間戸命,猿田彦命。
四社神社がどれかは判別しない。
益子の北部,茂木との境に標高271.7mの芳賀富士がある。北の入口から駐車場まで車で登ることができる。舗装はされておらず,轍の中央が盛り上がって草が茂っているのでインサイトのお腹を掃除することができた。
西の安養寺入口からも入れるが,神社までは距離を歩くことになる。
花崗岩製神明鳥居まで丸太の階段と石の階段。社殿までまた丸太の階段と石の階段。下から見上げるとはるか彼方に見える。途中に手水石が土に埋もれている。
拝殿左手に石祠が5基。右手に3つ。裏に1つ(明治三十八年九月廿九日・大手氏子中)。
建久五年9月1194平氏の滅亡後に一族の筑後の守貞能が出家して安善寺を建てた。安養寺とは別である。寺の守護神として芳賀富士中腹に勧請したといわれる。その後,地頭の河原小藤治光直が延応元年1239に再建する。野火にやられ文化六年1809に再建,明治七年豪雨にやられ,明治17年に再建される。 花崗岩神明鳥居,社号標等はこの時のものである。
『下野神社沿革誌』に「大平字鶏足山鎭座」と記録され,別名芳賀富士の記載がある。ここから南東に7キロ離れた茂木と茨城の境に「鶏足山」があるが同名の別の山で,そちらは『下野神社沿革誌』では「小貫字鶏足山」として区別して「鶏足山神社」を記録している。
かなり登る
鳥居をくぐってまだ上へ 手水石だろう
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・21丁
芳賀郡七井村大字大平字鷄足山鎭座 村社 熊野神社 祭神 伊弉冊命 天狭土命 國狭土命 祭日五月一日 陰暦九月二十九日 建物本社間口四尺奥行三尺五寸小羽葺 雨覆三間四方 幣殿二間四方 拜殿間口三間奥行二間萱葺 末社四社 華表一基 水盤舎一棟 氏子三十五戸惣代河原宇平次河原三千喜岩下吉蔵瀧澤直市郎高木重太郎 社掌風山廣雄
本社は後鳥羽天皇の御宇建久五年1194九月の創立にして平氏の族築後守貞能の勸請なり 平氏一谷八島の軍利非す氏族悉く滅亡誰能く亡魂の爲に佛事を營まんと 貞能剃髪染衣の身に変し大岩と改名し當地に來りて一草庵を結ひ建久五年1194寺殿堂門を造營し安禪寺と號す 此時寺鎭の神として院の東北隅の高丘の中腹に祀りしか嚆矢にして後一邑の鎭守と崇敬す(安善寺記に詳なり)延應元年1239二月地頭河原小藤治光直再建後延びの爲めに社傳悉く灰燼に帰す 文化六年1809十一月再建 天保三年1832二月領主太田原飛騨守より高一石四斗七升余 文久元年1861二月仝氏より高七斗七升四合本村地内に於て祭田除地として寄附せらる 明治七年1874四月雨覆再建 仝十七年十一月拜殿幣殿水盤舎等再築 悉く壯麗を極む これ皆氏子惣代等の力を效せし結果と云はさらんや 社域一千三百九十二坪字鶏足山の半腹に在りて全郡第一の勝地と證すへき 舊記の一節を左に抄祿す…略…亦稱芳賀富士…因に云ふ建久年間1190-99の當時佛教盛んにして殊に平氏の族の出家なれは衆庶之を尊信して遂に寺鎭なる熊野大神をも一邑の鎭守となせしものなりと云へり…參照安善寺記 正徳六年1716二月十五日…以下略

なお200年ほど前に以下が記録されたが該当社がわからない
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡 熊野大権現 北益子村 養林寺

 

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