綱神社

[つな神社]

栃木県芳賀郡益子町上大羽943

祭神:味耜高彦根命・大国主命
境内社:大倉神社・八坂神社・日枝神社・千勝神社・菅原神社
建久六-七年1195-96頃の創建。建久五年1194土佐国に配流されていた宇都宮家三代朝網が土佐の加茂明神に帰還を祈った甲斐あって罪を赦され大晦日に帰国。2年前の建久三年1192に宇都宮家の菩提寺として建てておいた地蔵院に隠居する。宇都宮家墓所の南山腹に加茂明神を勧請し,土佐明神を建立する。ここから帰国の翌年あたりの創建説が有力と思われる。また別の伝説によれば,帰国前に加茂明神の勧請が国元に命じられており、村民は大晦日に間に合わせるため門松の準備も取りやめ,机を逆さにして祭神を祀ったとされており,建久五年1194創立の説が生まれてくる。このため現在でもこの地では門松を飾らない。この場合も社殿の建立は翌年か、翌々年の建久六-7年創建となる。古い神社である。土佐明神,通称は朝網の綱から綱明神。文明四年1472本殿改築、「綱明神」と改称したらしい。大永七年1527に改築。維新に際して「綱神社」と改称する。維新前まで使われた「綱大明神」鳥居額が残っている。
石段を登り切った左手に明治十三年1880石段造営の石碑が建てられている。右手にも似た形の石碑があるが右上部が欠けていて不明。
昭和25年1950大倉神社とともに国重要文化財指定。
昭和29-32年1954-57に大倉神社とともに解体修理がなされている。
風格のある美しい神社。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』(1800年頃)
芳賀郡 綱大明神 上大羽村 黒子主水
*『下野国誌』巻四 嘉永三年1850
綱明神
*『下野掌覧』万延元年1860 芳賀郡之部
綱大明神 上大羽村鎮座 祭主黒子氏ナリ
*『下野神社沿革誌』巻六-16丁 明治三十六年1903
芳賀郡益子町大字上大羽鎭座 村社綱神社
祭神 味耜高彦根命 祭日陰暦九月九日 建物本社間口二間奥行一間 拜殿間口四間奥行二間 末社五社 木鳥居一基 氏子九十五戸 社掌木村央仝所住
本社創立は建久年間1190~99にして宇都宮朝綱の勸請なり 社傳に曰く宇都宮左衛門尉法印公田を掠領したる罪に依りて建久五年1194五月土佐國に配流せられしに依り彼國の加茂神社を祈誓すること久し 既に赦免せられて本國に歸り本社を創建す 故に世俗綱明神と唱號せり(朝綱配流のこと東鑑に見へり)本社は武将の崇敬厚く殊に徳川将軍より朱印十五石を賜らる 神主は往古より黑子家なりしも近世故ありて木村氏奉仕せり 社域一千七百九坪高燥の地にして古樹亭々と高く聳ひ幽邃にして山水に富むの境なり
一の鳥居 二の鳥居
昭和44年・石垣改修記念碑 99段登り切ると綱神社
見事なつくり
裏手上から
裏手上から 左手に境内社 右:800年を超える椎の御神木
大倉神社

大倉神社

祭神:大国主命
綱神社創立よりも400年ほど遡る大同二年807に現在地の西方向にあたる愛宕山の大倉林に創建され,往古に大倉権現と称した。大永七年1527に改築され現在に伝わる。県内ではとても古い本殿である。
もとは現在地を西に降りたと旧大羽小学校校庭に鎮座していたが、境内地に小学校を建てるにあたって綱神社境内に遷座した。その時期は諸説入り乱れている。
大羽小学校は明治七年1874に化成学舎として地蔵院に開校した。十七年に大羽小学校と改称、十八年に上大羽小学校と改称,二十五年に大羽尋常小学校となり、明治四十五年に大倉林に校舎移転。2007年閉校。住所:上大羽709番地。
境内地に移転が決まったのが明治四十二年1909であり,その後工事が始まる。そこでまず御神体を綱神社に合祀。すぐには建造物を移すことかなわず昭和25年1950になって愛宕山に移してあった社殿を綱神社境内に移転した。同時に旧大倉神社拝殿も移築して現在の社務所とした。『栃木県神社誌』(昭和39年発行)では昭和32年移転としているが,昭和29-32年1954-57に綱神社とともに解体修理がなされているので,どうやらこの昭和の大改修のことを「移転」と記したようだ。その裏付けとして昭和25年1950綱神社とともに国重要文化財指定を受けていることがあげられる。昭和32年移転ならその後の重文指定になっていただろう。
こちらも質素な佇まいに時代を感じさせる美しい神社。栃木県では大倉神社は珍しい社号で他には鹿沼市判官塚古墳に1社のみ。
背後上から 綱神社裏手から
綱神社手前に境内社 境内社4社
境内社名額が掲げられている 美しい石垣
左:綱神社屋根 右:大倉神社 左端:社務所 社務所は旧大倉神社拝殿を移築
一の鳥居脇の英文解説 一の鳥居左手の宇都宮定綱朝臣之碑記 定綱公頌徳碑解説
大羽地区の文化財について 標識 鶴亀の池
鶴亀の池由来 右:地蔵院 地蔵院周辺案内図
地蔵院本堂 菩提樹
イトヒバ
宇都宮家墓所案内看板 ここから右手上方に綱神社
宇都宮家33代墓石が並ぶ 初代兼綱 右:8代忠綱
祭神[あぢすきたかひこね]表記について:『下野国誌』『栃木県神社誌』は「阿遲鉏高彦根命」と「阿」の字。社殿で配られている『綱神社縁起プリント』は「安遲鉏高彦根命」と「安」の字。『下野神社沿革誌』では「味耜高彦根命」,1994年刊の小学館版『日本書紀』でも「味耜高彦根神」と「味」の字。立派な耜(鋤)の,高く輝く男,実体は雷神。味耜は高彦根の美称。耜は田を鋤く農具、また刀剣の一種としている。
『古事記』には阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神と「阿」字+「高日子根」。
岩波古典体系『日本書紀』補注ではアヂは可美[ウマシ]の意とし,『古事記』の「鉏」と「志貴」で悩んでいる。ここでは『日本書紀』表記を掲げておく。

『古事記』の大国主命の神裔のところに「此の阿遅鉏高日子根神は,今、迦毛大御神と謂ふぞ」とある。葛城高鴨神社の祭神が「味鋤高彦根命」であり,中鴨神社の境内社に「味鋤高彦根命神社」がある。
味耜高彦根命は栃木県宇都宮市・鹿沼市・日光市では田心姫命・大己貴命とともに祭神とする神社が多い。

 

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