壬生町壬生は甲乙丙丁に分けられていたが,壬生駅周辺部は昭和59年7月の住居表示変更で通町,大師町,中央町,駅東町,元町,表町,本丸1丁目と2丁目に変更された。

雄琴神社

[おこと神社]

栃木県壬生町通町15-58

主祭神:天照大神・天武天皇・一品舎人親王 配神:小槻今雄公・壬生町出身の靖国分霊 境内社:稲荷神社・琴平神社
旧地名:下都賀郡壬生町大字壬生甲432 昭和57年住居表示変更
壬生でいちばん大きい神社。壬生町役場の西,黒川と姿川が合流する手前に広がる肥沃な台地の黒川右岸に鎭座。上の写真の銅製明神鳥居は安永七年1778の貴重品。
寛治元年1087に清原保定が祖先の一品舎人親王を奉祭して壬生郷黒川駅に創建。嘉保二年1095に保定家中185人集いて式典を挙行してより壬生郷鎮守となる。寛喜元年1229に藤森大明神と称す。文明元年1469に江州=滋賀県雄琴村鎭座の壬生氏の祖小槻今雄公の分霊を勧請して雄琴大明神と改称。維新に際し大明神改め雄琴神社。
黒川を背にして境内社が並ぶ。そのうちのひとつ琴平神社の木祠前に325年以上前の「貞享三年1686」と刻まれた貴重な石燈籠2基。貞享三年は現在の社殿が完成した年だ。その右手に明治三十五年1902の石祠。その右は厳島神社。
黒川からの入口大正十年1921鳥居の右手に石製鳥居,狛犬,石燈籠も備えた石祠が2基。右は「山神社」
なお[おこと]か[おごと]かについて地元で聞けた範囲では[おこと],『栃木県神社誌』昭和39年2月11日発行のルビも[おこと]と清音。
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 4巻21丁
下都賀郡壬生町大字壬生通町字郷社鎭座 郷社 雄琴神社 祭神 天照大御神・天武天皇・大地主神・小槻今雄 建物 本社二間四方 拜殿間口五間奥行二間 神饌所間口二間奥行四間 神樂殿一棟 随身門間口四間奥行二間 華表二基 氏子九百五十三戸 社司黑川豊麿仝町仝大字住
本社は寛治五年1091二月二十八日鎭守府將軍淸原武則の三男保定の創建にして其遠祖を奉祀せるものなり 仝六年壬申二月源義家奥州より凱旋の時本社に參詣せられ本社剏宮の縁起を訪尋し百貫の地租を荒間地にて寄附せらる 寛喜元巳丑年1229三月故ありて社號を藤森と改む 文明元乙丑年1469小槻今雄の末裔壬生彦五郎胤業始めて當地(源義家寄附の除地)に一城を築きしより古名上の原を改め壬生と稱す 後壬生筑後守胤業か嚮祖の地江州滋賀郡雄琴村に祖先今雄を祭祀あるを以て本社に遷祀合祭し是れより兩祖の神社と稱す 當時城主か首領として尊敬せしより藤森の名稱は暫く絶へて雄琴神社と稱するに至れり 後五世の孫上総介義雄反して北條氏直に属し天正十八年相州酒匂川にて病死し嗣なくして断絶し仝十九年結城三河守當城を領し故ありて大地主命を本社に附祭す 後日根野氏の領する所となるも皆本社崇敬淺からす就中寛永十二年代官市川孫右衝門支配所たりしとき淸原保定十五世の孫勝成(今黑川氏の祖なり)を以て公廳に逹し改めて神主とせられ又三浦志摩守城主たりしとき本社の哀徴を歎き萬治三年検地の節畑山林等改めて除地となし寄附せらる 尋て鳥井氏に至るも崇敬怠らす年々の大祭式嚴かにして城主自ら參向ありて幣帛を献し又月々代拜使あり 亦祈睛及ひ雨乞の祈願には域主より代參あり又領内村吏に逹して參詣せしめ以て郡奉行及ひ小頭等參向し參拜せし村吏の姓名を改る等又城主代換の際は吉日良辰を撰て城主社參して武運長久及ひ頒内安寧を祈るを例とす故に往時は式外の大社と稱す 明治五年郷社に列せらる
社域二千百九十九坪社境廣寛にして平坦にあり華表を潜りて社門あり 千年の老樹蔚蒼として社殿を繚繞し幽邃にして古雅に富み人をして覺わす襟を正くして敬せしむ
正弌位雄琴大明神 巨大な鳥居
随神門 随神門の額 江戸の狛犬二対
拝殿額 右手の境内社
貞享三年1686石燈籠 右端は厳島神社 さらに右手の境内社
小さい石祠が山神社 黒川を背にして すぐ東の黒川

雷電神社

[らいでん神社]

栃木県壬生町通町9-19

主祭神:大雷神
壬生町役場の正門前に鎭座。休日に役場の駐車場が開放されているので,車を停めて中心部を歩いて神社めぐりができる。役場の裏手つまり東先に神明宮,左手東奥に雄琴神社。
白い建物が役場 雷電宮 拝殿内も雷電宮
御神木切り株
中央通り側から
白横

白横神社

[はくおう神社]

栃木県壬生町通町6-14

主祭神:大己貴命
旧地名:下都賀郡壬生町大字壬生甲1396のロ号 昭和57年住居表示変更
本殿に「大己貴命=多名持/大国主命」と書いた白紙が張ってある。石燈籠一基。
路地の奥に鎮座
民家の土蔵 大己貴命の張紙
天満宮

天満宮

[てんまんぐう]

栃木県壬生町中央町7-20

主祭神:菅原道真公
壬生中央町郵便局から南に50m行って西に細道を入ってすぐ右手,栄町公民館となりに鎮座。
延宝三乙卯天1675青面金剛,宝暦二壬申年1752青面金剛供養塔,万延元年1860,文久三年1863の庚申塔など古い文字が残っている。
右に栄町公民館 「天満宮」額 本殿
延宝三1675と古い
八幡宮

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県壬生町本丸2-14-16

主祭神:譽田別命
下台郭八幡宮旧地名:下都賀郡壬生町大字壬生乙1545昭和57年住居表示変更
壬生小学校宇の南,豊栖院の東となりに鎮座。拝殿内の額は「八幡宮」,右手の縦長の板書に「下台郭八幡宮」とある。すぐ裏の方にお聞きしたところ下台郭は付けず[はちまんさま]としか言わないそうだ。相撲が奉納される。お忙しい中分かりにくいからと案内していただき感謝。寛延二己巳1749石塔,右の埋もれているのは「二年」が読める。あとひと文字は青面金剛の「青」か?
下大郭の文字  
寛延二己巳1749
稲荷神社

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県壬生町本丸2-14-30

主祭神:倉稲魂命
旧地名:下都賀郡壬生町大字壬生乙1532 昭和57年住居表示変更
壬生小学校宇の南,豊栖院の西となりに鎮座。鳥居が多数建てられている。
社号を示すものがないが,軒の板書に「明治百年記念・城南稲荷神社・??屋根替」の文字が読める。1967か68年の改修記念だろう。また小さい板書に「昭和拾四年拾貳月・稲荷神社屋根替寄附」と読める。
最後の鳥居右手に推定享保元歳丙申1716の四面に文字がびっしり刻まれた奉納石塔がある。天明元年1781狛犬。文政十三庚寅年1830石燈籠。
多数の鳥居
社名を示す額はない  
板書の右端に稲荷神社文字 この板書にも稲荷神社文字
  読める人が読めばきっと価値がある

雷電神社

[らいでん神社]

栃木県壬生町本丸2-17-2

主祭神:大雷命
旧地名:下都賀郡壬生町大字壬生甲399-1
二柱祀られている。詳細はすでに不明。細道の向かい側に十九夜などの石塔が多数保存されている。
今井公民館に,織元地蔵尊のお堂が建っている。ここに南の愛宕神社指示標識。雷電神社は逆に北に200m。
「雷電宮」 二連の本殿
向かい側の石祠群
地蔵尊 この先に雷電宮 愛宕神社指示標識
精忠

精忠神社

[せいちゅう神社]

栃木県壬生町本丸1-9-13

主祭神:鳥居彦右衛門元忠公
旧地名:下都賀郡壬生町大字壬生乙3262 昭和57年住居表示変更
二の鳥居左手に平成十三年に精忠神社四百年祭を執行した記念碑。南にかなり離れて立派な一の鳥居がある。
奥の方に昭和37年の「干瓢発祥二百五十周年記念碑」。入口には「干瓢伝来三百年記念」のモニュメント。干瓢栽培を奨励したのは鳥居忠英(ただてる)公。元忠公を祖とする家系。
左に四百年祭記念碑 堂々たる随神門  
真横から 東から
御輿倉 御輿
干瓢発祥二百五十周年記念碑 随神門 干瓢伝来三百年記念
従是南・下野國都賀 北側から 城内屋台倉庫
愛宕

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県壬生町表町4-15

主祭神:火産霊神(迦具土神)
旧地名:下都賀郡壬生町大字壬生乙696 昭和57年住居表示変更
東武線壬生駅の西南,古墳様の丘に鎮座。思川越しに日光連山がくっきり見える。東武電車も間近に通る。由緒沿革の大きな立て看はありがたい。松平輝定公が三好町とここ表町に愛宕神社を造営した。こちらは裏鬼門にあたる。輝貞でなく輝定と書かれている。
二の鳥居右手に「明治四十年1907石段再築記念碑」「庚申塔・文政七甲申年1824十一月」
盛土様の頂上に鎮座 平成15年の由緒書き
  本殿
手前文政七甲申年1824 左手から見下ろす
裏手を見下ろす 大きな切り株 南から

 

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