雀宮神社

[すずめのみや神社]

栃木県宇都宮市雀宮1-2-21

境内のステンレス製由緒には「御諸別王」を主神とし素盞嗚尊と大山祇命を祀り,長徳三年997八幡太郎義家によって創建されたと刻まれている。正徳三年1713に東山天皇より下賜された勅額が本殿に保存されている。金文字で「雀宮」と書かれている。
『栃木県神社誌』昭和39年発行記載の祭神・境内社は次の通り:
祭 神:素盞嗚命 配神:藤原実方・倉稲魂命・大山祇命
境内社:琴平神社・稲荷神社・厳島神社・雷電神社・天満宮・湯殿神社
綾女神社は明治四十二年1909湯殿神社と共に合祀とある。拝殿左手の「綾女稲荷神社」がそれ。
長徳三年997創建の古社。JR雀宮駅北。
最初に綾女ayame姫の遺言による神社が素盞嗚命を祭神として創立され,ついで雀宮神社と改称する。
藤原行成とのけんかが原因で左遷されるはめになった陸奥守藤原実方が先に任地に赴く。後を追って妻の綾女姫が平安京から旅をしてくるも病を得てこの地で亡くなる。臨終の床で土地の者に遺言を残す。「天照大神と素盞嗚命の誓約で交換された八坂瓊曲玉[やさかにのまがたま]を持ってきたので,これを祀れば繁栄を保証する」というので,このとんでもない宝珠を祀ったのが綾女神社の始まり。
この曲玉からは田心姫命・市杵嶋姫命・湍津姫命の三女神が化成している。本物なら伊勢に返上すべき超絶お宝で,そもそも存在しない。権力者が家格を高く見せるために仕立てたもの。それはよくあることで悪いことではない。
藤原実方も長徳三年998九月に任地陸奥で他界するが,雀に姿を変えて綾女姫ゆかりの社に飛来する。霊異にあやかり実方朝臣を相殿に祀り,雀宮大明神と改称する。
下記の『下野神社沿革誌』では雀宮神社と綾女神社の二社が掲載されており,混乱するが合祀前の記録である。明治30年代の氏子の数は同数で126戸であった。
同時期に倉稲魂命を祭神とする「稲荷神社」が雀宮神社とは別に少し北東にあった綾女塚古墳(明治十七年1884東北本線施設で削られ始め,大正二年1913までの複線工事で消滅)に創建され,明治十八年1885に雀宮神社の隣りに30坪の広さで遷宮し,祭神との関係で「綾女稲荷神社」と呼ばれるようになり,明治四十二年1909に雀宮神社に合祀され,土地の方のおっしゃる「お稲荷さん」になった。
藤原実方=さねかたの中将の百人一首収録の歌は「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」
清少納言とも浮き名を流した。光源氏のモデルともいわれる。入内雀・実方雀の怪異を内裏にもたらした張本人で,さすれば京への途上に雀宮に寄ったのか。ロマンティクな怨霊といえばあたりそうな激情のかたまりのような男であった。
後に多数の和歌に詠まれる歌枕「室の八島」を早い時期に使って「いかでかは思ひありとは知らすべき室の八嶋の煙ならでは」を作っていて,栃木には縁が深い。 1999年建立の石鳥居が4号線沿いに立つ。読めるもので古い文字は石燈籠の天保十一子年1840。
残念ながら2013年10月15/16の台風26号で倒された御神木の大ケヤキの下敷きになり綾女神社は破壊され,屋根と土台が残っているのみ。本殿にも枝が覆いかぶさり,10度以上傾いてしまった。台風被害の詳細はこちら雀宮地区まちづくり推進協議会
社殿はかつては石の玉垣で囲われていた。玉垣の石材は横に積んで残されている。(写真は2013/11/13現在)
*『下野神社沿革誌』5巻39丁 明治三十五年1902
■河内郡雀宮村大字雀宮字十里木鎭座 郷社
雀宮神社 祭神素盞嗚命 相殿一座藤原實方朝臣命 祭日九月十九日 建物本社間口一間一尺奥行一間一尺 拜殿間口三間半奥行二間 華表一基 石燈籠二基 氏子百二十六戸 社掌中川義信
本村は徃時臺横田村と稱せしか寛政八年四月より雀宮宿と改號す 社傳に曰く 一絛天皇の御字長徳元年藤原中將實方朝臣陸奥守に任せられ赴任の途本村に淹留せられ而して奥地へ下向す 尋て中將の妃綾女卿を慕へ此里に尋ね参らせ暫し安息し給ひるに折しも圖さりき病に羅り漸次重らせ給へ終に身まかり給はんとする時郷人等に宣りけるに妾は中將殿のをわし座す陸奥國まても尋ね参へらんと欲りせしも病ひ革まり此世の名残りこれまてなりと云ひ亦妾か秘して斎らせる此寶玉は古昔天照皇大神と素畿鳴命と盟約の中に効績ありつる賓玉なるか藤原家遠祖に預け置れたるものにして則ち素盞嗚命の奇魂なれは此地に止め置き產土神と斎ひ肥りて崇敬せは此の地は永く繁榮すへしそかうちに中將殿も必す間はせ給はんと云ひ遂にはかなくならせ給ふ 郷人等此遺言を奉して祠を立賓玉を納めて素盞嗚命を祀りて產土碑と崇敬せり 然るに藤原實方朝臣も長徳三年九月十九日陸奥國笠島の里にて薨し給へるとかや其靈魂雀と化して飛來り本社に出入して屡奇異を示す これによりて實方朝臣を合殿に祀りて改めて雀宮大明神と稱す 后慶長二年五月此里も驛轉塲となり彌繁華の地たり 后寛永八年四月地名雀宮黽と改む 本社は徃時徳川將軍代々崇敬の社にして社領を付せられ殊に同將軍日光社参の途本社小休をなし厚く崇敬せらる例あり 叉別當には本山修験常學院にて代々奉仕せり 明治維新に際し復飾して奉務せしも故ありて中川氏代りて奉仕怠たらす 社域八百九十二坪上部東側に在り 境内には古樹亭々として高く聳ひ幽靜にして雅致あり
5巻40丁
■河内郡雀宮村大字雀宮字十里木鎭座 村社
綾女神社 祭神宇賀御魂命 建物本社間口三尺奥行三尺五寸 拜殿間口二間奥行一間 鳥居一基 盥漱盤一個 氏子百二十六戸 社掌中川義信郷社雀宮神社社掌
社傳に曰く長徳元年995藤原中将實方朝臣の妃綾女卿を慕ひ此里に尋ね來り暫し休息せる時俄に病に罹り終に逝去せるを里民妃を葬り祠を立
綾女稲荷大明神と崇敬す 其靈験あるを以て本地の鬼門除に祀り給ふと云云 后明治十八年1885四月今の地に奉遷す 社域三十坪平坦の地に在り
郷社雀宮神社
由来書
綾女稲荷神社屋根 綾女稲荷神社土台
旧鳥居など ベンチのところに御神木があった
仮本陣

雀宮宿仮本陣の神社

[すずめのみやしゅくかりほんじん神社]

栃木県宇都宮市雀の宮3丁目1-29

雀宮宿仮本陣芦谷家
JR雀宮駅から真西に徒歩5分,4号線沿い。
雀宮は日光道中二十一宿の一,16番目の宿場町。日本橋から25里99キロ。慶安元年1648ころには参勤交代の大名や偉い人が宿泊する本陣・脇本陣が各1軒,旅籠が36軒(天保十五年1844には38軒)あったが現存するのはここのみ。明治維新20年前の嘉永元年1848大火災の後に再建された。
本陣職は名主の小倉家が務めた。寛政五年1793小倉半右衛門から助郷御証文,名寄帳,宿絵図などの諸帳面を受け取った「覚」が芦谷家文書の中に残っている。以来芦谷家当主は治左衛門を襲名し問屋と名主を務める。 芦谷家は農業のほかに旅籠も経営していた名主。江戸期の絵画掛軸文物を保管しており,そのうち芦谷家文書379点が栃木県立文書館に寄贈・保存されている。
「仮」がつくのは上使をもてなす「茶屋」の役割を果たしていたので本陣・脇本陣と区別するため。控本陣とも。明治十四年1881明治天皇東北巡幸の際にはここ仮本陣で庭の梨を召し上がられた。
小倉家と芦谷家の関係はなかなかよくわからない。寛政五年1793以降も元治二年1865の家康250回忌大祭に際して下された手当金の記録に「金拾両 本陣 半右衛門‏/ 金六両 脇 本陣 小倉平治右衛門‏/金四両二 分 仮本陣 治左衛門」とあることから,本陣・脇本陣はずっと小倉家が,脇本陣は芦谷家が担当していたことが分かる。雀宮では名主半右衛門と名主平治右衛門の二名で宿手配を分担していた。
平成26年2004の発掘調査では仮本陣の地下室遺構から多数の遺物が出土している。

仮本陣の北側に鳥居と二つの社が立っている。いずれも,かつては東側の芦谷家庭園に建立されていたものを,こちらに移築した。つまり芦谷家の氏神さまである。仮本陣ののまわりに置かれた石燈籠も芦谷家庭園から移築したもの。仮本陣東にあるまだ新しい芦谷家は空き家になったため2023現在売りに出されている。仮本陣は町で管理している。
右手の覆屋内には木製祠が2基祀られている。右は狐の陶器狛犬が置かれているので稲荷か。左は不明。それぞれ祠の柱に文字が書かれていた板が打ち付けてあるが読めない。手前左下に日蓮上人の大曼荼羅額が立て掛けられており南無妙法蓮・毘沙門天・大持国天・南無上行天…などの文字が読める。
左手の覆屋も同様芦谷家庭園より移築,詳細は不明。
*氏神さまを掲載するときりがないので基本的に当webでは取り上げていませんが,歴史的建造物である仮本陣内の社なので,何も分からないが掲載します。

四号線斜め向かいの「大和田内科」と「やまや」(西松屋の跡地)の間に本陣跡碑。
碑の裏面:「江戸時代(一八〇九年)より現存した門は埼玉県に創立された学校法人国際学院日本文化研修館「敦照殿」の門に寄贈 平成十年1998八月吉日 小倉家十四代当主・小倉敦」
2014年のGoogleストリートビューでは撮影されていないので,ここ数年の間に現在地に復元した(2023/2/9)。
参考:
芦谷孚[あしやまこと]家文書紹介
栃木県埋蔵文化財調査報告第381集「雀宮宿跡」p.44「第2節近世以降」に芦谷家の記述あり。pdfがダウンロードされます。
宮めぐり
4号線雀宮神社方面 雀宮駅方面
高麗門 仮本陣解説
北側 右手 右手内部
左手の神社
堂々たる石燈籠
雀宮本陣跡碑 裏面 四号線=旧日光街道
御田神社

御田神社

[みた神社]

栃木県宇都宮市上御田町456

主祭神:大山祇命 境内社:大山神社・二荒神社・猿田彦神社
東北新幹線と宇都宮線にはさまれ,東に広大な田園が広がる。
昭和30年1955の「上御田東坪一同」の奉納旗杭が鳥居手前に。石段左手に「男體山三社大権現」,右手に「大山石尊大権現・天保十一年1840」
北側に「延宝九辛酉年1681」の古い石像と,不明の石塔,馬頭観世音が並ぶ。
*『下野神社沿革誌』5巻40丁 明治三十五年1902
河内郡雀宮村大字上御田鎭座 村社御田神社 祭神大山祇命 建物本社間口五尺奥行六尺 拜殿間口二間奥行三間三尺 末社三社 氏子三十九戸
本社創立年月詳ならす 社域四百九坪にして平坦の地に在り
本殿屋根 本殿鰹木 石段左手
石段右手
左端:延宝九年1681
湯殿山神社

湯殿山神社

[ゆどのさん神社]

栃木県宇都宮市城南3-15-3

主祭神:大山祇命 境内社:大杉神社
宇都宮スケートセンターの南に鎮座。田川から引かれた用水の辺に石製鳥居。
『下野神社沿革誌』『栃木県神社誌』ともに「山」なしの「湯殿神社」で収録されていたが,昭和60年の新築完成記念碑には「湯殿山神社」と刻まれた。
*『下野神社沿革誌』5巻10丁 明治三十五年1902
河内郡横川村大字東横田鎭座 村社湯殿神社 祭神大山祇命 建物本社間口七尺奥行八尺 拜殿間口二間奥行二間 末社一社 氏子二十五戸
本社創立年月詳ならす 社域百七十一坪平坦の地に在り境内には華表及ひ石の燈籠ありて風致優雅なり
鳥居建設記念 新築完成記念
菅原神社

菅原神社

[すがわら神社]

栃木県宇都宮市台新田1-1-14

旧地番:宇都宮市台新田町194
主祭神:菅原道真公 配神:素盞嗚命 境内社:八坂神社・神明宮・三峯神社・稲荷神社・大山祇神社
4号線日光街道沿いに石製鳥居が立つ。台新田集会所のさらに奥に社殿。「菅原神社の由来」には道真公の略伝が書かれている。
拝殿左手に境内社5社が整然と並び,「末社の由来」案内板のうち,八坂神社の項に素盞嗚命と荒振神の神楽面が保存されていることが書かれている。境内社前の古い方の石燈籠は「安政六年1859」
*『下野神社沿革誌』5巻10丁 明治三十五年1902
河内郡横川村大字大字臺新田鎭座 村社 菅原神社 祭神菅原道眞朝臣命 建物本社間口一間半奥行二間一尺 拜殿間口二間奥行一間半 末社四社 石燈籠二基 手洗盤一個 氏子四十八戸
本社勸請不詳 社域三百八十一坪平坦の地に在り
菅原神社の由来
末社の由来
大山祇神社

大山祇神社

[おおやまつみ神社]

栃木県宇都宮市上横田町707-1

主祭神:大山祇命 配神:素盞嗚命・伊弉諾命・菅原道真公 境内社:八幡神社
田川が新幹線をくぐるあたりの住宅地の東端に鎮座。東に田園地帯。昭和62年の朱色の鳥居の奥の少し小高い丘の上に拝殿が見える。鳥居脇に「万延元年1860」石燈籠。
二の鳥居「享和三癸亥歳1803」は石製で「臺新田村・上横田村・西屋板村」の文字。石段手前の石燈籠には「天保十己亥年1839季春吉祥日」
拝殿手前の被災した石燈籠「弘化四丁未年1847」の脇に「文化三丙寅天1806臺新田村中」の200年を超える手水石。古い方の狛犬台座に「弘化四年1847」,新しい方の狛犬台座に「嘉永元戊申年1848」
明治貳拾八年1895石坂修繕記念碑。
*『下野神社沿革誌』5巻9丁 明治三十五年1902
河内郡横川村大字上横田鎭座 村社大山祇神社 祭神大山祇命 建物本社間口一間四尺奥行一間四尺 末社一社 華表一基 石燈籠六基 氏子百二十戸
本社創立年月詳ならす 社域六百三十五坪字大房林に在り
石坂修繕記念碑 文化三1806
二の鳥居 一の鳥居手前
中嶋神社

中嶋神社

[なかじま神社]

栃木県宇都宮市中島町614

主祭神:大山祇命 境内社:浅間神社・三峯神社・八坂神社
平成19年の「中嶋神社御遷座記念碑」に,明治三年1870ころ御神体の金幣束を富豪に売って飢饉から村人を救ったため,仮の御幣束の時代が長く続いたことが記されている。
時を経て平成19年3月26日に愛媛県今治市大三島の大山祇神社から正式に御分霊を勧請し直したことが厳かな遷座式の様子と共に刻まれている。
昭和34年石鳥居。明治十四巳年1881の「當神社境内杉千本献」記念碑が立っているが,今は数十本の杉が残っているのみ。明治十四年頃には杉千本を寄贈する信奉者またはグループが存在した。
文久三亥1863の石燈籠。
なお,『下野神社沿革誌』では「山」なしの「中島神社」で,『栃木県神社誌』では「山」つきの「中嶋神社」。社務所看板も中嶋神社,公民館看板も中嶋町。奉納額は混在している。
*『下野神社沿革誌』5巻40丁 明治三十五年1902
河内郡雀宮村大字中島鎭座 村社中島神社 祭神大山祇命 建物本社間口一間奥行一間半 拜殿間口二間奥行九尺 末社三社 氏子十九戸
本社は字芋内に鎭して社域六百三十二坪平坦の地に在り
中嶋神社御遷座記念碑
稲荷神社

桜稲荷神社

[さくらいなり神社]

栃木県宇都宮市中島町790

中嶋神社の南,インターパークの西の田園地帯に鎮座。脇に用水が流れている。詳細不詳。
鎮座の杜
東谷神社

東谷神社

[とうや神社]

宇都宮市・東谷町817

主祭神[高龗神]

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
境内社に「高龗神」の「高尾神社」と大物主の大杉神社。高尾と「尾」を使っている。『下野神社沿革誌』記載の祭神は大山祇命。
宇都宮インターパークのジョイフル本田の200m西の田んぼに鎮座。
北関東自動車道が風景を分断してしまったが,このあたりは関東平野中心部の大平地。現在でも一大農業地帯である。
昭和三年の旗杭。鳥居には文字なし。
大正四年十一月の石燈籠。右手に大正四年十一月の手水石。
昭和十八年の伊勢参宮記念石祠。明治十八年十月廿七日の石祠。
社殿裏に石祠二社。右手に昭和十八年十一月吉日の石祠。年代不明石祠。合計5基。どれが「高龗神」の高尾神社か判別しない。
本殿:流造 拝殿:入母屋造 例祭:11月15日
*『下野神社沿革誌』5巻40丁 明治三十五年1902
河内郡雀宮村大字東谷字權現山鎭座 村社 東谷神社 祭神大山祇命 建物本社間口一尺六寸奥行一尺一寸 末社二社 氏子二十八戸
本社創立詳ならす社域五百五十五坪を有す
千勝神社

千勝神社・三日月神社

[ちかつ・みかづき神社]

宇都宮市・東谷町529

宇都宮南高等学校のすぐ南の双子塚古墳の頂上に鎮座。田川左岸に点在する東谷古墳群の一つで,前方後円墳であったが径20m,高さ4mの後円部だけが残っている。
石宮二基は昭和四十六年1971初午建立。
平成30年石鳥居を建替えている。
祭神は不明。猿田彦命または大己貴命か。
*なお,2023春までに樹木はすべて切り払われ,はだかの古墳が出現している。
三日月神社祭神は月読命。三日月神社は珍しい社号で宇都宮市には石井町と上横倉の兜山頂上に鎮座。ほかに鹿沼市上殿町,栃木市川原田町,佐野市豊代町,大和町,真岡市大根田に見つかる。
双子塚古墳
昭和四十六年1971建立
北に宇都宮南高
『下野神社沿革誌』収録の河内郡雀宮村の神社には他に下反町「高尾神社」,下横田「高尾神社」,羽牛田「高龗神社」,茂原「高龗神社」があり,「栃木県の高龗神社」「龗関係神社」に掲載しました。また針ケ谷の「八幡宮」「熊野神社」は「針ケ谷」の項に掲載しました。御田長島に「白山神社」が記録されていますが発見できません。