磐裂神社

磐裂神社

[いわさく神社]

栃木県日光市和泉914

祭神:磐裂神・根裂神 配神:王位神
旧地名:日光市・和泉上ノ台
天長三年826九月創建。嘉祥元年848頃の慈覚大師円仁作と伝わる虚空蔵尊が月蔵寺に祀られた。宝暦三年1753五月に日光山星宮の御分霊を勧請して村の鎮守とした。江戸期には虚空蔵尊,妙見天童と称し,維新に際し磐裂神社と改称し現在地に遷宮した。
宝暦十二年1762の石鳥居。明和五歳戊子1768礒部太神宮。そのとなりは天保十己亥年1839石燈籠。天保八丁酉歳1837狛犬。
拝殿前には享保十七年1732と寛保元年1741の貴重な石燈籠。
明治四十五年1912玉垣。 昭和28年1953建立の震災復興記念碑。これは昭和二十四年1949の今市大地震からの復興記念で今市の神社でよく見かける。「昭和二十四年十二月二十六日午前八時十七分突如トシテ激震に襲ハレ山ハ崩レ大地ハ裂ケ社殿ヤ家屋ハ傾キ或ハ倒レ甚大ナ被害ヲ受ル…」と刻まれている。
例祭:11月3日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 星宮大明神 和泉 月蔵寺
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻三-8丁
上都賀郡日光町大字北和泉鎭座 村社 磐裂神社 祭神 磐裂神 建物本社間口三間奥行二間 拜殿間口二間半奥行九尺 氏子四十七戸 社掌柴田半之錠
本社は字上の臺に在りて社域五百三十一坪を有す
宝暦十二年1762
礒部太神宮 明和五歳戊子1768 天保十己亥年1839
本殿左手
天保八丁酉歳1837 寛保元年1741
享保十七年1732 震災復興記念碑
 
裏から 本殿は朱塗
 
二の鳥居 宝暦十二年1762二の鳥居
一の鳥居 参道 石段右手
水田 参道敷石
庚申塔など多数
生岡

生岡神社

[いきおか神社]

日光市・七里187

主祭神:大己貴命 配神:田心姫命・味耜高彦根命
『下野神社沿革誌』記載の創建時よりは53年ほど後の弘仁十一年820空海によって大日遍昭像を祀る大日堂が建隆されたとする伝説が残っている。真言密教系の修業場で,僧坊が建ち並んでいた。生岡大日堂と称したが,明治初期の神仏分離で生岡神社と改称し日光二荒山神社の摂社とされた。ほどなく明治十四年1881に村社に指定された。「上野の強飯式」と総称される「強飯式」「お飯式」「春駒」神事が行われる(案内板写真参照)。
高速日光宇都宮道路の南側の山の中に鎮座。地名の七里は神橋までの距離とされるが,実際は4キロほどで,謎。
この神社の最大の価値はなんといっても大杉にある。巨木の多くは根本が太く目の高さあたりから細くなっていくものだが,ここの御神木は巨大な円筒がどーんと垂直に聳えている。落雷で上部が欠けたというが,厄災を乗り越えて枝を伸ばしている。なかなか他では見られない御神木で案内板の樹齢500年をはるかに超えているのではないだろうか。根本に径5センチほどの二世の苗が育てられている。
さらにその後ろにもう一本,エゾエノキの巨木が聳えている。
鳥居手前に「昭和32年1957・天然記念物生岡の杉」石標と「市岡神社強飯式」解説板。
鳥居手前の石燈籠に「元禄五壬申年1692・青面金剛供養敬白」「宝永子1708・奉寄進・大日如来・青面金剛供養」
「安永七戊戌年1778常夜燈」に「大日」の文字。
「大正十三年1924」尻を立てた狛犬。
本殿真後ろに「生岡大日堂」額が保存されている。
昭和61年1986御本社上屋建設寄附御芳名板書。
本殿真裏に印を結んだ座像二基と「日光三社大權現・東照大權現・慈眼大日大權現」石塔があり,読みにくいが「元禄七年1694」の貴重品。石燈籠は大正元年1912。
境内左手奥に並んでいる6基の十九夜塔などの左から二番目「享保十九寅1734十二月」の合掌像に「普門寺」の文字。
鳥居右手前の道沿いに大正九年1920などの庚申塔4基,馬頭観世音,念佛供養塔。いちばん手前のお堂に祀られているのは地蔵尊か。
例祭:11月25日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 三巻-8丁
上都賀郡日光町大字七里鎭座 村社 生岡神社 祭神 大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命 建物本社間口三間奥行堂 拜殿間口五間半奥行二間 華表一基 氏子五十六戸 兼社掌間宮魚用
本社創立は神護景雲元年767正月八日の創立にして小祠建築ありしか天正十八年1590正月廿二日宇都宮國綱の兵燹に罹り本社拜殿烏有に屬し後再建す 社域二百二十坪字上野に在りて淸洒たり
生岡の杉記念碑 昭和32年1957天然記念物指定
強飯式解説 鳥居年代不明
手水石
元禄三年1690
ユニークな造形
拝殿額
本殿 生岡大日堂額 社殿左手
本殿覆屋と大杉 本殿真裏
元禄七年1694の貴重品 日光三社大權現
中央がエゾエノキ 十九夜供養塔
馬頭尊
普門寺と彫ってある
■生岡の杉
本殿左手裏に聳えている
生岡の杉解説
二世の看板 もうひとつ二世の看板 二世
■生岡神社のエゾエノキ
エゾエノキ
エゾエノキ解説 本殿背後
中央がエゾエノキ
日枝

日枝神社

[ひえ神社]

日光市・野口989

主祭神:大山咋神 配神:倉稲魂命・王位神 境内社:八坂神社・東照宮
嘉祥元年848元年,慈覚大師円仁が近江国日枝山王大社より御分霊を勧請して野口生岡平に山王権現を祀ったことに始まる。貞享元年1684に再建された本殿はその後14度の修復をなされて現在に至っている。拝殿左手から回り込むと色鮮やかな本殿を間近に見ることができる。
本殿解説板はかすれて半分しか読めない。「江戸時代には日光山王七社のひとつ…近郷八か村の総鎮守」。
東照宮整備以前,杉並木街道がなかったころ,黒川小来川または,行川沿いに日光に向かうといずれのコースでも山久保に至り生岡を通過する。日光山内の入口聚落が当地であり,上記大日如来堂とともに日光山とは別の修験道が発達し生岡二十一坊の規模を誇ったが戦国時代に日光山に攻められて衰退した。
拝殿前の石燈籠は貞享二年か五年か読めない。四天卯1687かもしれない。しゃがんだ人物が一基に一人彫られている。演奏している?
昭和53年1978「日枝神社拝殿新造奉賛者御芳名」碑に「奉仕の僧坊二十余が立並び…正徳1711~16年中氏子挙って現社殿を奉斎し…昭和49年1974日光宇都宮道路の開設により当社参道の一部変更付替工事のため記念樹並びに記念碑を移しその保証金の一部を基金として…境内の整備を行い拝殿を新築…」と彫られている。このくらいくっきりと刻まれれば後世にも読めそうだ。貞享でなく正徳再建説をとっている。
となりにある自然石は「宝暦五乙亥年1755・奉寄進踏磐石」,寛政十一年未1799「奉寄進社東凡二百十四坪・西凡四百八拾三坪」
社殿左手に八坂神社と東照宮。八坂神社前に「安永二歳1773」石燈籠。 生岡神社の東となりに鎮座。日光街道から入って徒歩で日光宇都宮道路をくぐり石段を上ってたどりつくようだが,西参道から車で入った。
例祭:4月25日
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻三-8丁
上都賀郡日光町大字野口鎭座 村社 日枝神社 祭神 大山祇命 建物本社間口四尺五寸奥行三尺五寸 末社二社 氏子五十三戸 社掌柴田半之錠
本社は嘉祥元年848七月の創立にして往時は山王大權現と稱せしも明治元年1868十一月社號を改めて日枝神社と稱す 社域八百八十七坪字生岡平に在り
鳥居脇
貞享四天卯1687か
本殿解説
本殿
拝殿右手 拝殿新造寄附者芳名碑 沿革が刻まれている
宝暦五年1755の寄進碑 側面
本殿左手 境内社手前の手水石
東照宮 東照宮裏手
石敷が美しい 八坂神社
八坂神社左手
鳥居年代不明
日光街道へ たいへんそうだ 西参道

 

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