大田原市の神社資料



▊大 田 原 町  *『下野神社沿革誌』明治三十五年1902五月十日發行 巻八-4丁
本町は太田原,刈切,浅野の舊宿村を合せて一の自治區となせしものにて其幅員東西十四町南北三十二町あり舊太田原は舊奥羽街道の要路に當り人家連檐櫛比し刈切田は東南部に位し地勢東北は蛇尾川を隔て〻金田村に隣し西北南の三面は平原相連り西那須野村に界し土地平坦最も繁盛なる一市街地にして町民は商工業に従事し浅野刈切は農業に従事し頗る勤勉の風あり而して近時葉姻草専賣支局を設けられ其商業盆々隆盛を來せるなり
古來沿革に付ては往時は太田原藩領にして太田原藩の治廳所在地にあり明治維新に及ひ版圖を奉還するに至り明治四年十一月宇都宮縣の所轄となり次て栃木縣に屬し第三大區九小區に編入せられ其后刈切は別戸長役塲に屬せしか後遂に今の自治區に合併して一町となれり
本町は郡役所々在の地にして村社ありて戸數一千八百二十餘戸人口八千五百餘人を有せり

大田原神社

[おおたわら神社]

栃木県大田原市・山の手2丁目2039

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:火産霊神・素盞嗚命・大日靈貴神・木花開耶姫神・倉稲魂神 境内社:稲荷神社・三峯神社・天満宮・神明宮
大同二年807創建と伝わる。那須郡上中下温泉三社の下社。那須郡の入口に鎭座したので久寿二年1155那須野の妖狐退治に派遣された三浦介義純,上総介弘経が祈誓した。
天文年間1532~55金田村中田原に遷宮,「中田原湯泉大明神」と称したらしい。中田原はお城と水口居館の間あたり。正徳年間1711~16古文書もろとも焼失して時期は明らかでないが維新よりだいぶ前から神社の称号を用いて「下宮湯泉神社」と称していた。城の防御のために蛇尾川土木工事をする頃「大田原神社」と改称。維新の際に郷社指定。
『下野神社沿革誌』編纂中の明治三十六年頃は荒廃していたが,明治三十七年1904大田原城趾のすぐ北,陸羽街道から入ったところの現在地,龍城公園北側丘陵に遷宮,境内地は中田原時代の3275坪から1万4934坪に拡大し,壮麗な社殿を造営して大田原総鎮守となる。
境内に伏見稲荷神社,明治十年1877創建の大田原護国神社。
例祭:9月15日
四月に九つの町内から繰り出される屋台の「ぶっつけ」が行われる。この大田原神社の屋台行事は2018年11月に市の無形民俗文化財に指定された。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 下宮湯泉神社 大田原城下 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
下宮湯泉神社 太田原城下鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-65丁
金田村大字中田原字社地郭鎭座 郷社 大田原神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社間口二間一尺奥行二間三尺 拜殿間口三間半奥行二間 樓門一棟 華表一基 氏子七百二戸 社司山本靜衛大田原町住
本社は往時大田原藩主崇敬の神杜にして明治維新の際郷社に列せらる 然れとも正徳年中1711~16祝融の災に罹り由緒書及ひ古書類灰燼に歸したれは惜むらくは沿革詳ならす 今社宇の現存するもの本社拜殿樓門等にして神職は印南家にて代々奉仕し社殿の結構輪奐たりしか今や大に破壊に傾き只葱々として榮ゆるものは楓樹のみ 社域三千二百七十五坪大田原町を距る五町余にして土地高燥雑樹蓊蔚にして頗る深邃の趣きあり
山中村に神明宮が記録されたが現在社不明。山中は大田原城南の山林をさす村名で,現在の元町二丁目あたりだが。大田原神社の境内社になったか。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 神明宮 山中 増淵民部
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
神明宮 山中村鎮座 祭主増淵氏ナリ

三吉稲荷神社

[さんきちいなり神社]

栃木県大田原市・山の手2丁目17-9

詳しいことは分からない。三吉霊神からなら[みよし]でなく[さんきち]だろう。
紫塚

経塚稲荷神社

[きょうづかいなり神社]

栃木県大田原市・紫塚1-2718-1 むらさきづか

主祭神:倉稲魂命 境内社:古塚神社(神狐の霊)
大田原城主丹治晴淸公が所蔵していた法華経千部が公の逝去後破損したため寛永十年1633当地に塚を築いて埋めた。小祠を建てて経塚としたことに始まる。909坪。
宝暦十年1760創建説も残るが,これは新祠の建造年である。
拝殿裏手に経塚がある。石宮,狐狛犬,石碑二基。明治四十一年1908三月十六日建立の「経塚稲荷碑」には由緒が刻まれている。小型の碑は残念ながら読めない。
昭和十一年1936下記水源神社奉納の石碑。
朱鳥居付近に昭和二年1927石燈籠,大正十五年1926狛犬。明治三十四年1901,明治四十年1907記念碑。平成十二年建立の御影石碑に由来が刻まれている。
例祭:4月第一土曜日
多数の奉納鳥居
拝殿内
経塚の記念碑が見える 経塚入り口
経塚の石宮 由緒
経塚から拝殿 奥に経塚
由緒 明治三十四年1901
天壌無窮 水源神
御神水
 
ヒガンザクラ
紫塚

水源神社

[すいげん神社]

栃木県大田原市・柴塚2-2606

主祭神:水速女命 境内社:厳島神社
寛文三年1663水乞いのため創建。水速女命は水神の罔象女[みつはのめ]。548坪。
明治三十四年1901「水源神」
例祭:旧暦3月11日
厳島神社
境内の水路 拝殿右手
水源神
紫塚

光龍神社

[こうりゅう神社]

栃木県大田原市・紫塚3-2665-15

主祭神:?
珍しい社号で,栃木県にはこの一社のみだろう。何も分からない。
西宮市大谷町に光龍大神,東大阪市の大石神社に熊光龍神,光龍大神の石塔,愛知県岩倉市に光瀧龍神社など。
中田原

小駒押稲荷神社

[いなり神社]

栃木県大田原市・中田原1551 なかだわら

主祭神:倉稲魂命
天喜五年1057創建。164坪。
『栃木県神社誌』新旧版とも「小駒押」で植字されている。坂になっているので馬も押してあげないと,というところか。『下野掌覧』は小駒崎。『鹿沼聞書』の小駒島は未解決。
例祭:10月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 稲荷神社 小駒島 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 小駒崎村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
中央

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県大田原市・中央2-13-8

主祭神:火産霊神 境内社:足尾神社・稲荷神社
文明三年1471十二月創建。寛永十六年1639城主大田原政清が霊夢を見て字上ノ山に遷宮。しかしながら正保三年1646,四年,慶安二年1649と失火が続いたため慶安三年1650元の鎭座地に再遷宮。昭和四十五年1970神明町公民館を新築して神社と併用。鹿島川沿いに鎭座,隣りの薬師堂が立派。
鳥居をくぐって右手に「足尾神社」,公民館左手の朱鳥居は稲荷神社。石宮は昭和十五年1940建立。
公民館前右手に江戸期の六角宝憧。昭和四十四年1969石燈籠。
足尾神社右手に文政十一年1828大黒天,石塔三基。
昭和四十四年1969石燈籠。
例祭:4月14日
『下野神社沿革誌』に高燥の地で石段数十階上ればとあるのがあてはまらない。文明三年創建,丹治政淸の夢告は一致するので当社に比定した。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-4丁
太田原町大字太田原鎭座 村社 愛宕神社 祭神火產霊神 建物本社二間四方 拜殿間口二間奥行三間 末社九社 華表一基氏子五十三戸 社掌兼社司山本静衛仝町仝大字住
本社は文明三年十二月十七日の創立にして元字新田地の中島に勸請せしか寛永六年八月中領主丹治政淸一夜神人枕上に現はれ告て曰く我は是れ中嶋の愛宕なり字北町の清き地に祭らは火災を能く守らむ我言を疑ふこと勿れと言ひ了つて忽に見えす因て今の地に移遷すと云ふ 社域九百五十二坪高燥の地にして古杉老檜蔚々として繁茂し石磴數十階躋れは石の燈籠左右に双並列し幽邃にして頗る雅致あり
神明町公民館兼拝殿
QRコードこれは便利
六角宝憧 goodアイデア 手水石
拝殿右手前 足尾社 足尾神社本殿
大黒天
拝殿左手 稲荷神社 なんとか稲荷,読めない
中央右奥に薬師堂
薬師堂裏 薬師堂
天和四年1684石燈籠
薬師堂入口
富士見

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県大田原市・富士見1-1769

主祭神:応神天皇(譽田別命) 境内社:稲荷神社・蚕玉神社
安政二年1855三月創建。御祭神は三歳未満の幼児に籤を引かせて決めた。明治三十年1897本殿と神楽殿を造営。
例祭:9月15日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
太田原町大字浅野鎭座 村社 八幡宮 祭神譽田別命 祭日陰暦二月初午日八月十五日十一月二十三日 建物本社間口一丈三尺栃葺 幣殿マグっ二間奥行三間栃葺 拜殿間口六間奥行三間栃葺 神樂殿間口二間奥行三間半栃葺 木鳥居一基 石燈籠二基 末社祖霊社加勢友之助之霊一社 六角石重量四十貫目あり天然の奇石にして寛政年中1789~180一京都某殿の庭石なるを大田原の金屋助八なるもの二十七年の間某殿に勤仕し此石を希望して乞て持來しものなりと云ふ 鐵燈籠二基 洗手磐一基瓦葺 寳物神鏡一面 矢乃根一本 太刀一振 水晶玉一個徑一寸一分 氏子四十八戸總代三員 社掌加勢熊次郎仝町大字仝七番地住
本社創立は安政二年三月十五日にして加勢友之助淺野定次郎山口又兵衛の三氏天保十二年184一中大田原飛騨守に誓願し那須野原二万五千丁歩の曠野開墾に着手しより十五年目の春に到り村民と計り鎭守神を創建せんと諸神の名稱を書き抽籤して八幡大神の籤を揚けれは枷淺野山口の三氏等悦ひて宮殿を造營し以て勸請せしか濫觴にして后明治十二年八月中再建 仝三十年十月六日官の認可を得て本大字三千七百二十一番地の二號今の地に移轉す 當時本郡大田原町外六ヶ村有志の寄附ありて巨大壯觀なる社殿とはなりぬ
社域四百九十二坪平坦の地にして馬塲の入口には神橋ありて左右には梅櫻枝を交へ花時には▢人西より東より▢至し雑沓を極む
新富

天満宮

[てんまんぐう]

栃木県大田原市・新富町1-8

主祭神:菅原道真公
享保十年1725観音山普門院住職が創建。天明六年1786社殿造営。113坪。
例祭:3月25日
美原

千壽稲荷神社/愛宕神社

[せんじゅいなり‏‏/あたご神社]

栃木県大田原市・美原3-3335 みはら

主祭神:倉稲魂命 配神:火産霊命ほか一柱
文明三年1471創建。もと鉄砲町その後,裏林。当社北東に美原橋,鉄砲町橋,愛宕橋があった。449坪。

『栃木県神社誌』平成18年版では「愛宕神社」で記録され,千木つきの写真もまさに当社と一致する。拝殿内の感謝状の宛名は愛宕神社。
しかし拝殿額に「正一位千壽稲荷社」とあり,明治三十七年1904正月建立の二の鳥居の柱にも大きな字で「稲荷神社」と刻まれている。
さて,拝殿内には中央に大きめの観音扉,その左右にほんの少し小さい観音扉が設けられ,右手の扉の上に「愛宕山」額が掛けられている。推測するに中央に稲荷神社が祀られていて,右手が愛宕神社,左手は足尾神社ではないか。大正か昭和のいつごろかに兼任神主が愛宕神社と改称して神社庁に登録したのではないだろうか。
あるいは稲荷神社を合祀して鳥居を移築したとも考えられる。
社殿左手に「渡邊利▢▢那須野原」に始まる三分の一欠損した石碑があり,三行目に「愛宕神社」の文字が見えるが,年号は欠損部にあったろうし,文字はほとんど読めない状態なので,稲荷の文字もあったかもしれない。
明治三十五年1902一の鳥居。明治四年1871原町氏子一同奉納の石燈籠。昭和四年1929狛犬。昭和三十八年1963旗杭。
例祭:10月14日
稲荷神社
千壽稲荷神社 扉3つ
原町氏子一同
西郷

西郷神社

[さいごう神社]

栃木県大田原市・鍛冶屋 かじや

那須野が原開拓に尽力した西郷従道を祀る。明治三十六年1903創建。
小松寅吉布孝・亀之助布行父子の手になる明治三十六年造立の石製本殿が見事。高さ4mほど。全面に精緻な彫刻が施されている。石祠・石宮の超豪華版。
大正十一年1922狛犬。
従道の妻清子が明治三十八年1905に奉納した石燈籠。大正五か九か元年の石燈籠。大正元年1912石鳥居。西郷元帥神靈▢碑。昭和十五年1940西郷農場感恩碑。昭和五十七年1982慰霊碑。
鍛冶屋開墾の創業者,大山巖と西郷従道が鹿児島市鍛冶屋町の出身であることから地名を鍛冶屋とした。旧西那須野町。
国道461号沿い,向かいに丼マル。
例祭:8月26日
 
手水石   本殿
明治參拾六年
 
明治三十八年1905 大正元年1912
狛犬台座
西郷元帥神靈▢
記念碑二基 ヌマスギ群生地 昭和四十三年植樹碑
昭和二十八年植樹記念碑


▊親 園 村 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
本村は親園、實取,瀧澤,瀧岡,花岡,宇田川及ひ荻の目の舊七村を合併して一の自治區をなせしものにて其幅員東西三十四町南北三十二町あり舊奥羽街道に沿ふて各大字を連絡せり 地勢挾少にして西南に箒川東北に蛇尾川ありて土地平坦地昧又可なり村民の風俗概して素朴勤勉の風あり
古來沿革を尋ぬるに往時は各領主を異にし太田原藩領に或は旗下の釆地に分屬せられしか明治維新后廢藩置縣に當り荻ノ目村を除き他は栃木縣第三大區八小區に編入せられ后一戸長役塲の下にありしものにて町村制實施に當り荻の目村を合併して一村となるなり
本村には村社七社ありて其氏子三百九十戸人口三千七十餘人を有せり
花園

小種島湯泉神社

[こたねしまゆぜん神社]

栃木県大田原市・花園347 はなぞの

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:須佐之男神
永禄年間1558~70那須湯本湯泉大明神を勧請して創建。明治元年1868改築。164坪。小種島は明治九年1876花園に。
『下野神社沿革誌』の創建年と大きく離れるが,「小種嶋篠合森」とるので現在社にあてた。
例祭:10月17日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 小種島
下記の「花岡」は不明,小種嶋篠合森鎭座とある。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
親園村大字花岡鎭座 村社 溫泉神社 祭神 大己貴命 少彦名命 祭日九月十五日
建物本社間口三尺五寸奥行三尺板葺 拜殿間口二間半奥行四間萱葺 木鳥居一基 末社八社 氏子五十一戸 社掌小林伊集衛仝村仝大字住
本社は建久八年1197九月の創立にして一村の鎭守神たり 社域二百八十坪平坦の地にして字小種嶋篠合森に在り 境内には古杉亭と高く聳ひ幽邃にして神威の儼たるを表するもの〻如し

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・花園1461 三色手村

主祭神:大己貴命・少彦名命
福原家の家臣が天正十八年1590頃開拓した。その頃の創建になるだろう。那須湯本湯泉大明神を勧請。元文三年1738改築。304坪。
このあたりは江戸期には「三色手村[みいろでむら]」と称した。三色中村あるいは三色手境の記録がある。
明治九年1876,三色手,小種島,上沼3村が合併して「花園村」になる。
例祭:10月17日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 三色中 小林大和
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 三色手村鎮座 祭主小林氏ナリ

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・花園1400 上沼村

主祭神:大己貴命・少彦名命
福原家の家臣が寛保四年1744〜延享五年1748頃開拓した。寛延四年1751那須湯本湯泉大明神を勧請して大木の根元に祠を建立。宝暦年間1751~64に社殿を造営。昭和二十五年1950拝殿幣殿改築。492坪。
このあたりは江戸期には「上沼村」と称した。
明治九年1876,上沼,三色手,小種島3村が合併して「花園村」になる。
例祭:10月17日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 上沼 小林大和
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 上沼村鎮座 祭主小林氏ナリ
花園4

温泉神社

[おんせんorゆぜん神社]

栃木県大田原市・花園1766

国土地理院の神社マークがついている。社号を示すものが見つからなかった。宝暦七己丑天1757石燈籠があるので,それ以前の創建。鳥居は建て替えられていて旧鳥居柱が保存されているが,残念ながら文字は読めない。
親園

湯殿神社

[ゆどの神社]

栃木県大田原市・親園3033 ちかその

主祭神:大山祇命 配神:須佐之男尊・別雷命・伊弉諾尊・磐裂命・火産霊命・大己貴命・倉稲魂命・木花開耶姫命・豊城入彦命・菅原道真命 境内社:御山神社
建久六年1195那須與一が勧請。342坪。『下野神社沿革誌』記載の933坪より減っているが,末社10社が配神の数と合うので現在社とした。大田原氏家線沿い,親園駐在所の北,親園郵便局の南に石鳥居が見える。
明治十五年1882一の鳥居。明治四拾一年1908旗杭。大正四年1915石柱。大正九年1920十月十四日供進指定記念社号標。平成四年旧奥州道中・親園石塔。不明の石像一基。
二の鳥居までの参道に大正二年1913,昭和三十九年1964,昭和六十年1985,文久元年1861の石燈籠四対。
木製二の鳥居。拝殿前に昭和十二年1937,昭和二十四年1949石燈籠。大正八年1919狛犬。
拝殿内は暗すぎてよく見えないが,「湯殿神社」額。
拝殿左手に昭和五十一年1976十二月復元の読めない石碑と忠魂碑。
道路沿い鳥居右手に「ホロの碑」,これは文化九年1812高津義克の文を後に刻んだ蒲廬碑のことで覆屋内に保存されている。ホロは蜃気楼の土地言葉。5行目に「蒲廬」が刻まれている。詳しくは大田原市公式webを。ここに挙げられている筆文字は若干碑文と異なる。碑に下毛とあるのを下野,壬申歳の歳字を省略など。下野の文字は8世紀には使われていたので下毛は気取った書法。碑文の「北行絡繹」の「行」字を小字で補正しているので後世書き起こしたものかもしれない。或いは自筆を推敲したか。未解決。
軒には昭和二十八年1953板書の「蒲廬碑由来」,末尾に大田原町人見傳蔵先生調査による旨記載がある。
自然遊歩道第5コース案内板記載の諏訪神社は百村川を渡って東北の荻野目に鎭座。
例祭:10月17日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
親園村大字親園鎭座 村社 湯殿神社 祭神大山祗命 建物本社間口六尺奥行七尺 拜殿間口三間奥行二間 末社十社 氏子百十二戸 社掌同上
本社創建不詳 社域九百三十三坪を有し字御山に在り 石木二造の華表を有し境内には老樹蓊蔚にして宏壯を極め毎年八月一日四月八日を以て大小の祭典を行ふ
 
二の鳥居
   
拝殿内 湯殿神社額
本殿右手
手水石 社務所
昭和28年1953狛犬
拝殿左手 読めない
二の鳥居 道路から
奥州道中
 
ホロの碑看板 蒲廬碑
蒲廬碑裏面 蒲廬碑由来
親園不明

親園の神社

[?神社]

栃木県大田原市・親園2520 ちかその

大田原氏家線,擁福院すぐ北の用水の浮島に鎮座。西に大杉神社。
木製の覆屋内に朱塗りの小祠。右手の石碑は「聖徳太子」と読める。
浮島は玉石で土台が築かれているので人工島と推測。残念ながら社号は分からない。
島になっている 本殿
聖徳太子
親園加茂

加茂神社

[かも神社]

栃木県大田原市・親園2345

主祭神:別雷神 配神:須佐之男命 境内社:星宮神社・温泉神社
西那須野二ツ室成神山から慶安四年1651に遷宮または勧請。那須塩原市二ツ室の金刀比羅神社境内社に加茂神社がある。あるいは須塩原市一区町の雷電神社か。
配神の須佐之男命の「大杉神社」額も掛かっている。拝殿左手に星宮神社。272坪。
加茂神社のヒノキ樹齢250年。
明治二十九年1896,滝沢の明治七年1874創建の大杉神社を合祀。
例祭:3月13日 甘酒無制限接待 大杉神社例祭:8月28日 神輿渡御
宇田川

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・宇田川991

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:宇賀之御魂神
慶長年間1596~1615那須湯本湯泉大明神を川毛の地に勧請。天明年間1781~89改築。明治三十六年1903暴風で倒壊,翌年改築。
例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 宇田川 成就院
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
同村大字宇田川鎭座 村社 溫泉神社 祭神大巳貴命 建物本社間口二尺五寸奥行二尺 拜殿間口四間奥行三間四尺 氏戸五十戸 社掌同上
本社は往時一村の鎭守神なりしか寛政四年1792正月許可を得て一村社を止められしも明治三年九月復舊して村社に列せらる 社域二百八十四坪境内には末社四社及ひ華表等ありて幽邃なり 毎年十月廿一日を以て大祭を執行せり

日本武神社

[やまとたける神社]

栃木県大田原市・宇田川248

主祭神:日本武尊
建久六年1195福原城主那須四郎久隆が法印源空に鬼門守護の不動明王を祀らせたことに始まる。489坪。
例祭:2月28日
滝岡

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・滝岡210

主祭神:大己貴命・少彦名命
『下野神社沿革誌』と異なり鎌倉時代1192〜1333の創建と伝わる。正徳三年1713本殿改築,鳥居建立。大正五年1916本殿拝殿新築。
江戸期には岡和久村,滝ノ沢村の鎮守。明治になって青木村,若目田村を合せた滝岡の鎮守。1546坪。
例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 竜野沢 小林大和
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 瀧ノ沢村鎮座 祭主小林氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-6丁
同村大字瀧岡鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命/少彦名命 建物本社間口三尺二寸奥行三尺 拜殿間口三間奥行二間 末社十三社 氏子三十七戸
本社創立は建久六年九月にして那須與一宗隆の勸請なりと口碑に傳われり 社域八百八十五坪字宮の内の瀟洒の地に在り
滝岡

加茂神社/星之宮神社

[かも‏/ほしのみや神社]

栃木県大田原市・滝岡590

主祭神:別雷神 磐裂命・根裂命
詳しいことは分からない。鳥居額に「加茂神社/星之宮神社」,拝殿額に「加茂神社/星ノ宮神社」と2社併記。長泉寺の西,念仏川右岸の水田の中に鎭座。
若目田は「青木若目田」になり明治八年1875親園の滝岡村になる。若目田の現在社と推定。明治十二年1879北和田村に改称した蛇尾川流域の和田村と,明治七年1874親園村に入った箒川左岸の中居矢木沢村に現在社不明の星宮と湯泉,熊野がある。神主が小林大和で共通なので,親園にあったと推定する。矢木沢の西に実取と鷹ノ巣。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 星宮神社 若目田 小林大和
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
星宮社 若目田村鎮座 祭主小林氏ナリ
*『鹿沼聞書・下野神名帳』
那須郡 星宮神社 和田 小林大和
*『下野掌覧』
星宮社 和田村鎮座 祭主小林氏ナリ
*『鹿沼聞書・下野神名帳』
湯泉大明神 中居 養福院 →親園1345に養福院,親園1363-2に地理院鳥居マーク。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』
那須郡 熊野三社大権現 八木沢 小針豊前
*『下野掌覧』
熊野三社 八木沢村鎮座 祭主小林氏ナリ
滝澤

滝澤神社

[たきざわ神社]

栃木県大田原市・滝澤401

主祭神:大山祇神 配神:日本武尊・罔象女命
永禄五年1562藤原義基が夢告により滝壷から神像を発見してお堂に祀ったことに始る。延宝五年1677に境内に清滝寺を建立。元禄十二年1699壮麗な神殿を造営。
大正二年1913日枝神社,三霊神社を倭武神社境内に合併して「滝澤神社」と改称した。
拝殿に「瀧澤神社」額,本殿に「不動尊」「日本武神社」額。
享和四年1804石燈籠,文化八年1811石燈籠。
境内入口に多数の石像など。享和二年1802,天保十三年1842の文字が読める。
例祭:8月27日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 御霊明神 滝沢 洗能登
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 瀧澤村鎮座 祭主洗氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-6丁
同村大字瀧澤鎭座 村社 日枝神社 祭神大山咋命 建物本社二尺四方 拜殿間口三間奥行三間三尺 氏子二十一戸
木社創立不 社域五百八十七坪字瀧の上に在り
拝殿額 本殿額
日本武神社
不動の滝
大黒天
明治三十三年1900清浄水
文化二年1805庚申供養塔
明治四十五年1912十九夜供養塔
実取

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・実取782

主祭神:大己貴命・少彦名命 境内社:淡島神社(少彦名命)
久寿二年1155創建。三浦介源義澄(南金丸那須神社も義澄)または義純(大田原神社,中野内温泉神社)または義明(鎮国神社,加茂神社)または常胤(北野上温泉神社,千葉常胤と混同か)が那須野狩の時本陣を置いた地で,妖狐退治の成功を祈願するため那須湯本湯泉大明神を勧請。三浦介の名の方は神社の伝承でまちまち。これは検証するとおもしろいかも。もとは中国から飛来した伝説上の九尾白狐にまつわる伝承で,那須の有名社に伝わっているので,治安を乱す強力な野盗がいたのだろう。
矢板市の生駒神社(勝善神社)では勝善親王,大槻の石上神社では一條權守勝善が狐妖狐退治の主役。
明暦1655~58の那須野原大火で焼失。天保年間1830~44に再建。大正三年1914拝殿幣殿改築。昭和五十年1975幣殿拝殿を新築し,旧拝殿は淡島神社に転用。383坪。
鷹ノ巣村(高野須)は明治七年1874実取村へ。
例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 高野須 大森近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 高野須村鎮座 祭主大森氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-6丁
同村大字實取鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社三間四方瓦葺 拜殿間口三間奥行二間半 末社一社 氏子三十二戸總代三員 社掌阿美靜野崎村大字薄葉住
本社創立不詳 社域三百九十余坪を有し萬延二年1861八月拜殿を再築し本社は明治三十一年1898十二月氏子の尽力により輪奐たる宮殿を再建し木鳥居石の燈籠左右に並列し風色頗る佳なり 祭典は毎年九月九日を以て執行せり
荻野目

諏訪神社

[すわ神社]

栃木県大田原市・荻野目393

主祭神:建御名方命
那須七諏訪といったらしい。森田,片府田,佐良土,滝田,刈田まで分かったが一つ不明。那須與一の兄6人が頼朝によって配流された諏訪の大明神を郷里に勧請した。
安政二乙卯年1855石燈籠にくっきりと諏訪大明神の文字。大正十一年1922出羽三山登山記念石燈籠。
寛政三年1791庚申供養塔。文化十年1813二十三夜供養塔。
例祭:8月27日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 諏訪神社 萩野目 増淵民部
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
諏訪大明神 萩野目村鎮座 祭主増淵氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-7丁
同村大字荻野目鎭座 村社 諏訪神社 祭神健御名方建命 建物本社間奥口三尺奧行四尺五寸 拜殿間口三間奥行四間 末社二社 氏子十一戸
本社創立は久壽二年1155にして徃古より鎭守神たり 社域四十九坪字澤沿に在り
荻野目

宝玉神社

[ほうぎょく神社]

栃木県大田原市・荻野目48

上記諏訪神社のすぐ北に鎭座。
何も分からない。昭和十年1935手水石。昭和参年1928石鳥居,昭和三年1928石燈籠がある。
昭和三十年1955改築。昭和四十三年1968大祭禮幟旗奉納二対。平成十二年2000に濡縁改修取付がなされているので現在も奉斎されている。


▊野 崎 村 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-5丁
本村は薄葉、平澤,豊田、成田、澤、上下石上の舊七村を合せしものにて幅員東西三十四町南北一里余にして一の小村たり咽澤村は殆と中央に位し他囮に散在せり地勢西南は丘陵起伏して鹽谷郡と隣し東北は原野相亘り箒川中央を流れ灌漑の利あり 村民一般農耕を業とし風俗篤實にして勤勵の風あり
古來沿革に付ては往時各領主を異にし太田原藩領に或は旗下の釆地たりしか維新后に至り栃木縣に屬し第三大區八小區及ひ九小區に分屬し后又三戸大字役場の所轄に屬し后町村制實施に際し之を合せて一自治村となせしものなり
村社七社ありて其氏子戸數四百六十余戸人口三千三百九十余人を有す
薄葉

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・薄葉1229

主祭神:大己貴命・少彦名命・譽田別命 配神:菅原道真公
那須郡の温泉神社社伝と同じ。那須與一関連。当社社伝の諏訪は與一の兄の勧請で扇的とは関係ないと思うが遠い昔のことだ。永禄七年1564より後に薄葉外記行國が再建。736坪。
例祭:10月20日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 上薄葉 阿見多聞
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 上薄葉村鎮座 祭主阿見氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-7丁
野崎村大字薄葉鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 譽田別命 健御名方命 祭日九月九日 建物本社間口三間奥行仝茅葺 拜殿間口三間奥行二間半茅葺明治廿二年1889再建 末社一社 鳥居一基 石燈籠二基 氏子本戸數六十三戸現在戸數七十五戸 總代蛭田初太郎山本留吉渡邊鐵彌藤田金三郎 社掌阿美靜仝村仝大字住
社傳に日く元暦年間那須與一宗隆源義經の命を受け讃岐の八嶋に於て扇的を射る時八幡溫泉諏訪の三神を心中に祈願して末代の名譽を得るにより郡内所々に八幡溫泉諏訪の社を勸請せしなりと 本社も又其ー社にして那須家代々崇敬の神社たり 後永禄七年1564福原家臣薄葉外記行國當郷の(狩野郷名卸庄)小守となる 悉く本社と崇信し冥護を得て遂に大守に進みしを以て本社を再建し社領七石を附し阿美信定を神主に仰付られしより今や三百三十余年奉仕怠たらす毎年九月九日大祭を執行せり 社域四百七十九坪宇館野の平坦の地に在り 境内には老杉古橿高く聳ひ中にも杉大木(周圍四丈三尺)なりしか明治廿五年落雷のために枯れしはいと惜むへし
八雲

八雲神社

[やくも神社]

栃木県大田原市・薄葉1847-1

主祭神:素盞嗚命 境内社:愛宕神社・加茂神社
詳しいことは分からない。
覆屋内右端に八雲神社,中央に加茂神社,すると左端は愛宕神社か。
平成十九年2007石鳥居と,その脇に庚申塔など三基。
境内に多数の石塔が奉納されている。大黒天,二十三夜塔,足尾山大神,熊野山,月山・湯殿山・羽黒山供養塔など。
天明四年1784,天明五年1785石燈籠。
例祭:7月4日 神輿渡御
 
加茂神社 八雲神社
 
 
大黒天 二十三夜塔 左:足尾大神
天明五年1785
天明四年1784 鳥居右手
下石上

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・下石上1549-1

主祭神:大己貴命
創建年は分からない。406坪。
例祭:10月19日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-8丁
野崎村大字下石上鎭座 村社 溫泉神社 祭神 大己貴命 少彦名命 譽田別命 祭日九月十五日 建物本社間口三間奥行二間半茅葺 木鳥居一基 氏子六十五戸總代三員 社掌同上
本社創立年月詳ならす 再建は文化八年1811正月にして宏壯たり 社域四百二十坪淸洒の地にして境内には古杉老樹蓊蔚にて風致愛すへし
上石上

石上神社

[いしがみ神社]

栃木県大田原市・上石上531

主祭神:石凝姥命 境内社:愛宕神社・加茂神社
小野崎家の氏神だった。上石上村字山神堂に鎮座した。昭和五十六年1981現在地に遷宮。476坪の境内に石宮。
例祭:2月13日

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・上石上1555-2

主祭神:大己貴命・素盞嗚命
詳しいことは分からない。
大正八年1919八坂神社を合祀して同年社殿改築,拝殿新築。631坪。
例祭:7月4日 城鍬舞奉納
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 上石神村 白井但馬
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 上石神村鎮座 祭主高野氏ナリ

熊野神社

[くまの神社]

栃木県大田原市・上石上831

主祭神:伊耶那岐之命・伊耶那美之命
詳しいことは分からない。200坪。
例祭:4月24日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 熊野大権現 下石神 大武長門
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
熊野大神 下石上村鎮座 祭主大武氏ナリ
平澤

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・平澤157

主祭神:大己貴命・少彦名命
創建年不詳,文治五年1189か。大正十一年1922火災にあっているので下記の社伝は失われたか。457坪。
この社伝には扇的の際,船の上で刀を持って舞っていた武士を射殺す場面が出てくる。一読を。
例祭:10月17日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-9丁
野崎村大字平澤字鍛冶内鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社間口二間奥行三間半 末社三社 木鳥居一基 石燈籠一基文政元年1818福原常產奉納 同燈籠一基文政十三年1830奉納 氏子二十二戸總代渡邊瀬平森嶋徳太郎渡邊善次佐藤榮太郎 社掌同上
社傳に曰く抑下野家國那須郡上庄石上郷平澤村湯泉神社は祭神大己貴命少彦名命にして那須與一宗隆の勸請なり 是より先 後鳥羽天皇の御宇元暦二年1185二月廿日讃州八嶋の浦に於て源氏は風伯枝を琅すの松下に隊伍を聯ね平氏は怒濤巌を噛むの海中に軍艦數十艘を並へ對陣日既に晡と過るの折柄盛艤せし一舟を渚に漕き寄せ當時美人の聞へある玉虫官女をして應して其舟艦に建たる竿頭の軍扇を射するを荐りに請はしむ 茲に於て源氏大將義經共射手を畠山重忠に命す 重忠病を以て辞す 依て其器を問ふ 重忠答曰命中の達者は下野那須の領主那須太郎資隆仝十郎爲隆若くは其弟與一宗隆に加すと 義經即十郎に命す 爲隆固辞するに一の谷襲撃の時崩岩に觸れ弓手に疵生し其痛未全癒せさるの故を以てす 大將焦慮怒に耐へす 爲隆を軍中より追退け次て弟與ーに命 す與一年▢に十七歳兄の覆轍を鑑み亦固辞するを得す 即命を奉し只一騎遥に進んて滔々たる海中に乗入れ既に海水鞍の前輪を湛すも隔ると敷百歩鏑矢擧て打番ひ見渡せは扇面の日章夕陽に映し其紅輝旭に向ふ如し 故に之に中るを憚り船亦淙沈的定らす 爰を以て挿際を射切に加すと觀念し心中に正八幡大神別て我國の神明日光権現宇都宮明神那須溫泉明神願くは扇的の眞中を射させ給へと祈念して矢を發す 羽風海面に起り嗚鏑未た耳に達せさるに其矢既に扇要を切断し敵上遠く飛て潮に濫す 扇は亦飜番+風として小蝶の舞ふか如く渺々波上に堕て漂ふを見て源平兩軍賞譽の聲暫く嗚止さりけり 宗隆心勇み汀に近く駒を寄せる折柄伊勢三郎轡を嗚して馳來り將命と傳て曰美姫の側に在りて長刀を振り立舞ふ處の一武者を射殺せと因て手早に矢を番ひ身を向き反りなから征矢を發し海中に倒す 是此擧をなすは平將か巖嶋神社に祈り曾て高倉院か奉納在られし所の軍扇を請へて的として彼戎の武運をトせしものなれは源平盛衰の前兆斯に顕然たり 實に源氏の名譽なり 故に宗隆文治二年頼朝の命として家兄十人を閣き父の家督を繼かしめ次て那須の武者所に任し尚扇的の賞として武藏の太田信濃の角豆庄若挾の東宮庄丹波の五賀庄備中の荏原庄を賜はり功を日本全國に發揚せられて恩遇甚厚し 故に宗隆は常に鎌倉に在留せしか仝五年源頼朝自ら將として泰衡追討の時兵を沿道に徴す 爰に於て宗隆始めて古郷に歸るを得たり(以上那須記に明他)茲に於て射扇の祈誓を果す爲め產土宮と尊崇する那須湯本の溫泉神社を領内を分祀せんこととを令して各村落に勸請せしむ(今に陰暦五月六日より八日迄本郡一般に田植休むは該神社を分祀せし日に基因するものと云へ傳ふ)本社も分祀の一にして宗隆直轄の地なりしか後十五代那須太郎資永の時に至り一家の内亂に攄り嫡家亡ふ時文安三年1446丙寅年十二月なり 次て烏山城主那須資持枝流より出て嫡家と繼くにより其領地と成しか天正十八年那須修理太夫資睛豊臣關白の怒りに觸れ所領を没収せられ鳥山城退去の砌り一門福原安藝守資孝の領地となる 當時本村には那須家臣岡下總守在居せしか那須家亡ひしを以て所領とを没収せられ後福原家の臣となり後主家の姓を賜り承應二年頃は福原將賢と稱し本村内に於て高四十六石余又仝家臣に大窪又右術門なるありて高廿一石余を知行し倶に湯泉神社を崇敬し敬神の道厚かりしか天明の凶歳以降知行を上知し麋米取となり神官は其始群ならさるも福原家領地以後は佐▢▢集の代より世襲して神事を司り慶應二年佐久山城の養子大内藏なる者素京都に居りたる縁故を以て町尻宰相量輔卿の傳奏により本社に▢る神位を賜はられし由なりしか大内藏なる着養父と折合す 且領主の許可を得すして上京し夥多の社金を費したる廉により神位を携帯の儘逃亡せしを以て今は其証なし 又明治元年頷主福原内匠資生は各藩に卒先して勤王を唱ひ出陣し白川民政局を管轄し爲に朝廷より賞金若干を賜はられしも表高三千五百石込高七千五百九十二石余合高一万石以上なりしも表高一万石ならさるを以て藩知事に任せられす中太夫となり次て領地を上知せしむ故を以て普代相傳の家臣一百有名と一町十村の士民に離別し東京府貫屬士族となり上京するに▢る故に本社も年々祭祀斜として領主より賜ふ處の麋米數十俵を失ひ次て神官佐▢山城も▢▢し元境内も廣く殊に山林等數町歩ありしか今の社境に減縮せられ餘は有租地となり人民の所有に屬せられたり 依て今日に到りては氏子の負擔に歸し僅に舊典を存せるのみ

諏訪神社

[すわ神社]

栃木県大田原市・平澤351

主祭神:建御名方命
詳しいことは分からない。明治期の創建か。191坪。
例祭:7月27日
野崎

野崎神社

[のざき神社]

栃木県大田原市・野崎2丁目20-4

詳細不詳。社殿は石製で鉄の扉。中は見えない。昭和二十六年1951石鳥居。 境内に野崎自治公民館。
大田原の神社は経済的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。

▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀▢霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拝し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す

 

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