温泉神社

[おんせん神社]

大田原市・中野内1942

配神[高龗神]

旧地名:那須郡黒羽町大字中野内
祭神:大己貴命・少彦名命・大国魂命
配神:渟名城入姫命ぬなきのいりびめのみこと・高日子根命・大山祇命・別雷命・木花開耶姫命・倉稲魂命・素盞嗚命・高龗命・伊弉冊命・迦具槌命<軻遇突智命・火霊命<火産霊命・大日孁命<大日孁貴命
境内社:天満宮・厳島神社(狭依毘売命)
12配神の一が高龗命[たかおかみのみこと]
配神12は大正四年1915に近隣の社を合祀したことによる。
入口の看板に「那須郡惣社・那須与一勧請社」とある。巨大神社。旧社格郷社。
道路沿いにまず一の鳥居。最初の石段を登りきると,狛犬,二の鳥居。三の鳥居が朱色。四の鳥居をくぐると右手に樹齢500年の温泉神社のスギ巨木。これはすごい。
最後の石段を登りきると左右に「天保二辛卯九月吉祥日」1831御神燈。
昭和2年の狛犬。拝殿左手に神楽殿。
孝謙天皇の天平年間729~749に大己貴命,少彦名命,市磯長尾市いちしのながをち命を黒羽町大輪の高尾森に勧請。高尾は[たかおかみ]に関係するだろう。
大同二年807に高尾森に神地を賜る。
大治二年1127に高尾森の東方に須藤権守貞信が社殿を造営して遷宮,那須家が崇敬した。
江戸期に入った寛文八年1668八月に黒羽藩主大関信濃守増栄が檀山大宮の現在地に新築して遷宮,那須湯本温泉神社を本宮として高尾温泉明神と称することになる。
『下野神社沿革誌』記載の寳物は承和十年843や貞観十一年869など県内ではなかなかお目にかかれない年号が記されている。また久寿二年1155殺生石九尾狐退治伝説を刻んだ鏡も当社の宝物である。下記の『下野国誌』には1頁を割いて琵琶の図が描かれている。「同社什寶那須餘一資隆奉納琵琶之圖 長一尺五寸二分横幅八寸八分」,琵琶に書かれている文字は消えて読めないところもあり次のように写されている。「高尾温泉社寶我先君所遺受▢▢▢一奉納ス 祈武運名誉 資隆 元暦▢▢歳七月日」
那須与一勧請というキャッチフレーズはこの琵琶あたりからアイディアをもらったか。那須与一は嘉応元年1169那珂川の神田城の生れ。貞信より少し後の壇ノ浦扇的一矢の有名人。与一の時代には「高尾温泉社」と称した。
以上のことから那須与一より400年以上前にはすでに創建されていた古社である。
『下野国誌』に記載のある神主小泉甲斐とあるのは鮎の画家でもある小泉斐Ayaru,享和元年1801に甲斐守に任ぜられているので甲を省いて斐を雅号とした。益子町や矢板市に「絹本着色鮎図」が残る。
本殿:神明造銅版葺,幣殿:トタン葺,拝殿:宮造トタン葺
例祭:4月第二日曜日 9月10日に「風雨順和祭」が行われた。
*『下野国誌』嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行 第四巻
高尾温泉明神 那須郡両郷と云所にあり,神主小泉甲斐と云,社領五十石領主黒羽候より寄附なり,祭神はもと高龗タカオガミ谷於賀美クラオ ガ ミ命なるを,那須家在城の刻同郡の温泉神社を勸請して,城中の守護神と鎮め祀りしなり,黒羽城より鬼門にあたりて一里許なり,温泉神社ハ大名持神と少彦名神と二柱なること上の温泉神社の条に記したり,さて高龗を高尾神と書て假字カナたがへり,高龗ハタカオガミにて高尾ハタカヲなり,さるを當國の内,那須,河内の両郡にハ,高龗を祀れる所數多ありて,何れも皆高尾明神と書誤まれり,是ハもと,山城國の貴布祢キブネ明神をうつせしものなり
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903刊 巻八-50丁
両郷村大字中野内鎭座 郷社温泉神社 祭神大己貴命/少彦名命/名城入姫命/大國魂命/八十萬神/高日子根命 祭日陰暦三月十日/七月十日/八月十二日
建物本社間口二軒半奥行一丈栃葺 拜殿間口五間三尺奥行二間萱葺 神樂殿間口二間奥行二間杉皮葺 末社三社 木鳥居一基嘉永元年1848二月大關信濃守従五位下丹治増徳營造 石燈籠二基寛文九年1669九月十九日大關従五位下丹治増榮奉納 寳物 古鏡一面貞観十一年869淸和天皇の納賜なりと傳ふ裏面に下野國那須郡溫泉大神命永尾市修云々 古鏡一面久壽二年1155須藤權守貞信奉納 鋤牛一個承和十年843十二月大領外従五位勲七等大部益歸奉納 琴琵琶元暦元年1184二月廿九日那須太郎資隆奉納 鎧一領大關候奉納 大鉾一本寛政九年1797九月卜部朝臣良連奉納 矢筒幷に矢四本建久四年1193源頼朝奉納 勅宣正一位扁額一面寛政九年1797七月十日正三位侍従卜部朝臣良連眞筆 神號扁額二面大關従五位下丹治増陽仝増式奉納 氏子五十五戸總代廿四員 社司池澤喜悦郎仝村大字久野又二十八番地住 社有財產山林四反四畝十八歩
社傳に曰く本社創立詳ならすと雖も再築は大治二年1127八月にして須藤權守貞信の造營なり 承和十年843十二月晦日下野國那須大領外従五位勲七等大部益歸本社に奉る書に大國主命を祭り山澤原野を開き農を勸め田端町二千段を增し戸口數人三千餘工作播種歳豐なり云々 須藤權守貞信奉納せる鏡の裏面に鋳刻したる文に曰く野州那須原野に野狐有り人民を害す 那須の主貞信奏聞有て三浦介義純上總介廣常權守貞信勅命を蒙り久壽二年1155甲戌三月七日那須野を取圍數日狩すと雖も野狐更に手に入る事無く因て那須本社溫泉神の廣前に祈願有時に貞信夢に告有て那須の麓に於て射果す 是全く温泉神の加護力なり 依て宮中悉く造營し寳物等を奉ると云々 后寛政九年1797七月十日を以て敕宣正一位を授けらる 其文に曰く湯泉社右可正一位中務靈泉治病古祠經年惠及四海名遠九天其加尊爵庸致恭敬可依前件主者施工 二品中務卿織仁親王宣正四位下行中務少輔臣丹波朝臣頼理奉従四位上行中務少輔臣藤原朝臣仍孝行此の如く勅宣を授けられしは畏しと申すも中々愚なり 其他種々の事績社寶等ありたれとも明治十二年1879五月廿一日祝融の災に罹り灰燼に歸す 社域二千三十九坪高燥の地にして古杉老樹亭々として天に聳ひ蓊蔚として其幽邃淸雅は郡内一の勝たる名地なり
大宮とある
下野那須郡総社
巨杉
大きな社殿
下野那須郡総社 神楽殿と境内社
手水石
南金丸

那須神社

[なす神社]

大田原市・南金丸1628

配神:[高龗神]

主祭神:応神天皇
配神は高龗神[たかおかみのかみ]の他に,別雷命,大己貴命,少彦名命,稲倉魂命,須佐之男命,火産霊神,武甕槌命
境内社:高良神社・宗像神社・神明宮・愛宕神社・日本武神社・祖霊社
高龗神は大正五年に合祀された「八龍神社」の祭神であったろうか。
境内社愛宕神社の祭神が加具津知命(迦具土)
下野国造奈良別命が国家鎮護のため金瓊(金の玉)を埋め,天照皇大神・日本武尊・春日大神を祭ったのがはじまり。
征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を勧請して金丸八幡宮となずける。
那須与一が扇の的を射るとき心中に念じたのがここの八幡大神で,天下に有名になる。
明治六年に那須神社と改称。
例祭:9月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 惣社 八幡宮 金丸 大宮司
*『下野国誌』嘉永元年1848脱稿 嘉永三年1850刊行 四巻
金丸八幡宮 那須郡金丸村にあり。神主小泉石見と云,社領五十石黒羽候より寄附なり,傳へ云源義家朝臣,奥州征伐の刻,建立する所なりといへり
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部 惣社 八幡宮 金丸村鎮座 祭主小林氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903刊 巻八-63丁
那須郡金田村大字南金丸鎭座 郷社 那須神社 祭神 譽田別命 祭日陰暦二月十五日/八月十五日
建物本社間口三間奥行二間 拜殿間口五間半奥行二間 神樂殿間口三間奥行二間 社用塲間口三間奥行二間 神門間口三間五尺奥行二間 末社高良神社外數社有り 一鳥居木造 二華表⾭銅造 石燈籠四基 洗手水磐一個 社務所間口七間奥行二間半 寳物弓一張久壽二年1155三浦介義澄奉納 矢ノ根仝年上仝氏奉納 太刀一振文治三年1187那須與市奉納 太刀一振白川關入道義親奉納 鰐口一口文和(北朝)四年1355那須忠彷奉納 鰐口一口天正五年1577大關安碩奉納 鴿骨寛永十七年1640本社修理の時鴿箱より発見せしもの今に朽壊せす 八幡宮宇佐記十五巻 愚童訓二巻 四摩制伏箭四本 御像繪一幅延寶九年1681八月中大關増榮奉納 鎧大關因幡守増義奉納 靈竹一竿より二股に分れたるもの 氏子百八九十戸總代藤田勇馬磯助右衛門室井祜之亟松本幸之助 社掌津田政信本村大字仝住
本社記を按するに人皇十七代仁徳天皇御宇下野國造奈良別王國家鎭護として本地清浄の地を撰ひ金瓊を埋め宮を建て天照皇大神・日本武尊・春日大明神を祀りしか濫觴にして當時此の地を野澤と云へしを金丸と改稱せしと 後延暦年中782~806征夷大将軍坂上田村麿奥夷征討の時此地の森々として奇樹あるを視て望めは古塚に小祠あり 此に應神天皇を勸請して金丸八幡宮と稱し戰勝を祈る 後冷泉天皇の御宇天喜五年1057源頼義義家奥州征伐の時粟野驛に宿陣しけるに西の杜に白鳩の飛交ふを見近習をして視さしめしに八幡宮の祠ありと告く 義家大いに喜ひ身親ら戰勝を祈り勝利を得は宮殿を建立し此里を神領に寄附せんとを誓ひて奥州に下向し速に賊を平き歸陣のとき首藤權守資家に仰せて宮殿を建立し馬塲を奥州街路まて貫き以て兩側には松杉檜等を植並へ神領五十石を寄附せらる 后ち堀川院の御宇寛治二年1088出羽の賊淸原武衡家衡等亂をなす 源義家に命して追討せしむ 義家下校の時本社に詣して立願ありしか凱陣の時再ひ首藤資家に仰て神門及ひ地主大神の本社を修理せしむ 久壽二年1155三浦上總介義澄命を奉して那須野悪狐を退治せし時も本社に祈願し容易く射止ることを得たりとて其弓を奉納せり 元暦元年1184那須與市宗隆四國の八嶋にて扇的を射る時本社に祈誓して名誉を揚けしかは文治三年1187土佐杉を以て本社を再築し太刀一腰的扇を射し弓をも納め神領として本郡乙連澤村を寄附し那須家世々の鎭守神となし大華表を建立し総社八幡宮と金色の字を彫刻し扁額を捧け社領を寄附し重實の太刀をも奉納し月々幣帛を献し四時の神樂を奏し神意を慰め奉りける 後寛永十七年1640黒羽の城主大關信濃守増榮本社を改築し金丸村檜木澤村の地内に於て社領五十石を寄附し累代崇敬せしむ 明治六年1873那須神社と改稱し南金丸外十三村の郷社に列せられ仝十二年南金丸北金丸村の郷社となる 神職は建久年中1190~99小泉忠治那須宗隆の命により社務を司りしより小泉忠友に至るまて三十二代本社宮司の職に補し世々従五位下に叙られ世襲するも明治三年1870忠友職を罷め三田稱平祠官となり幾もなく職を辞す 津田政信祠掌となりしより今に奉仕す 社域六千五百九十四坪平坦の地にして境内には古杉老樹蓊蔚として枝を交へ馬塲の長さ百八十間あり社前に淸流ありて之に神橋を架し此の流れを御水洗とはなれり 慈鎭和尚の歌に東路の野澤と云へしは此の處なりと云ふ「東路のかすみけふはかりあやめの名をもかりてけるかな」社寶は前に顕せし三浦介か奉納せし弓を始め古太刀古書一々枚挙に遑あらす 好古の士は社務所に請ふて一見せは頗る美術工藝の参考に資するものあらんや
寛永十九年1642手水石
本殿
社殿裏手 金丸塚

 

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