加茂神社

[かも神社]

栃木県塩谷郡塩谷町道下1235 どうした

祭神:別雷神 配神:軻遇突智神
境内社:八坂神社
延喜二年902創建の古社。本殿前の石燈籠は弘化五年1848。
コメリの前にしゃれた消防署があり,その南となりの小道を入って突き当りを左折してすぐ,両側が竹林の山に向かう気持ちのいい道を進むと正面に薬師堂。このお堂も延喜年間の創建。右手に古墳があり石棺が露出している。
お堂右手奥の朱色の加茂神社鳥居をくぐって山を登れば右手上方に社殿が木間がくれに見えてくる。
覆屋内には本殿が二社祀られており,いずれも扉裏に着色絵が描かれている。右手の本殿には雷神が左右の扉に,さらに神璽の下部のみが見えて「…智命」と読めるのは「軻遇突智命」とすれば,こちらは別雷神の加茂神社と合祀した愛宕神社ということになる。すると弓を持った武人が描かれている左手の本殿が分からなくなる。「権現」だけ見える。軻遇突智命神璽が両方におさめられているとすれば,左手が愛宕神社で,右が加茂神社ということになる。本殿周辺に境内社の八坂神社は見つからなかったので,薬師堂にある祠のひとつが該当するか。
例祭:2月13日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 巻七・29丁
鹽谷郡玉生村大字道下鎭座 村社 加茂神社 祭神 別雷命 建物本社間口三尺奥行同 末社一社 氏子三十二戸
本社は延喜二年902六月十三日の創立にして社域百六十八坪字堂山の高燥の地に在り
本殿二基
右手 右の扉 左の扉にも雷電神
左手の本殿
くっきりと弘化五年1848
右手 切り立っている ここから登る
中央に小さく社殿 近づいてきた
鳥居を見下ろす 頂上に鎮座 消防署と鎮座の山
薬師堂石段右手に文化十三年1816の「石坂供養塔」と元文五年1740六手不空羂索観音。薬師堂前の石燈籠は享保二年1717。
薬師堂右手にお宮がふたつ,右側の祠には錫を持ったレリーフ像の石が祀られている。左の祠前に「三日月」さま。となりに「十九夜供養塔」。石段があり古墳の石室の上部に木製祠。石室内にも木製祠があったようだ。石段右手にいくつもの石碑が建っていて,大正九年1920「獅子修繕記念碑」,平成八年「獅子修繕記念碑」,安政六年1859「石坂寄進」碑。「月山・羽黒山・湯殿山」。安永元年1772「沙弥西入」
八月泰一日曜日夜に「道下の獅子舞」が奉納される。
入口 入口右手に案内板 参道の杉並木
入口方向 薬師堂前に石段 杉並木解説
石坂供養塔
薬師堂 石段登り口
右:元文五年1740 薬師堂
享保二年1717
右奥に朱鳥居 右手 石が祀られている
獅子修繕記念碑
安政六年1859石坂寄進碑 安永元年1772沙弥西入 2号古墳
石室 石室上部 付近の珍しい合体
親孝子神社

親孝子神社

[おやこうし神社]

栃木県塩谷郡塩谷町玉生432 たまにゅう

荒川右岸喜多区の田園地帯に鎮座。付近のお宅がご不在で,詳細は分からない。しかし200年以上前の古記録『鹿沼聞書・下野神名帳』に記載がある。住所が道下で記録されたが,現鎮座地は道下に隣接する玉生なので比定できるだろう。塩谷町の産業振興課の方にお尋ねしたところ,古い人は「げどうの親孝子神社」といったという。道下を逆から読んで道下の外れをさしたと思われる。別当医王寺は上記道下の薬師堂の南となりにある。また上記加茂神社の北の山中に親孝子大権現の石碑がある。
江戸時代までは「親孝子大権現」と称したが維新に際して親孝子神社と改称した。
九月初旬の八朔祭には風見太々神楽が奉納される。
鳥居額は平成20年奉納。鳥居はもっと古いが年代不明。平成22年親孝子神社建立記念碑が建てられており,社殿が新築されたことが分かる。
拝殿格子から見える年代物の本殿はかなり大きそうだ。
昭和十七年1942狛犬手前の石燈籠は大正十一年1922。
鳥居脇に「二十三夜塔」「庚申塔」石仏二体があるが,いずれも年号が読めない。
鳥居をくぐって右手に石宮二基。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡  親孝子大権現 道下 医王寺
昭和十七年1942狛犬
高原山が見える

 

 塩谷町神社目次 
 ページトップ