宮目神社

[みやのめ神社]

栃木県栃木市田村町宮辺313

主祭神:大山祇命・大物主神 配神:雷神・竈神・保食神
境内社:竃神(祭神竈神)・稲荷神社(祭神稲荷大神)‏/『栃木県神社誌』平成18年版では白山神社・浅間神社・神農様を境内社とし,竃と稲荷は配神で記録 雷神も主祭神から配神に変更
旧地名:下都賀郡國府村大字田村字宮辺
下野国庁跡資料館の北隣りに鎮座。
「宮目神社」と「宮野辺神社」表記が混在している。
奉納額に「宮野邊二柱神社」
鈴の綱の引き手には「宮目神社」
旗杭脇の環境庁が立てた「下野国庁跡」看板には「宮野辺神社」と記載。
神社境内に未発掘の政庁正殿が建っていたと推定されると書かれている「前殿」前の解説版には「なお,前殿の北側(宮目神社境内)には正殿が建っていたと推定されます」と「宮目神社」と記載。
栃木市教育委員会の立てた看板には「宮野辺神社の祭儀習俗」
拝殿内の「平成四年宮野辺神社改修寄付者」板書は「宮野辺」で記載。その下の「平成十七年宮目神社屋根修復工事寄付者」板書は「宮目」,あまり気にしていらっしゃらないご様子。
拝殿内に「栃木市田村町宮辺鎮座・宮目神社祈祷之神璽」が貼ってある。『栃木県神社誌』も「宮目神社」。したがって社号は「宮目神社」とした。
石祠は本殿左手に2社,右手に1社。さらに自然石が祀られている。いずれも文字はなく社名は特定できない。
昭和三年の石燈籠。

由緒沿革に創立寛政二庚戌1790とあるのは衰退した後,社殿を再建して復興した時期をさす。
創建は室の八島の大神神社に合わせて崇神天皇47年としており,豊城入彦命が当地に逗留した後大神神社に向かったので,惣社明神の親「大神社惣社明神母神」と伝えられ,古くは「美也別大明神」と称した。延暦年間に坂上田村麻呂が当社に戦勝祈願をしたことから「田村」の地名となった。

前橋市元総社町字宮之辺に宮鍋神社,府中市武蔵惣社大国魂神社の境内社に宮之咩神社があり(咩[め]),「宮」=国庁の「辺」りにミヤノヘ,ミヤノメ,ミヤナベ神社が鎭座した。いずれも惣社に関係する。

下野国庁跡が特定されたのは1979年(昭和54)以降である。『下野神社沿革誌』(明治三十五年1902)に記載されていない理由のひとつ。発掘以前の昭和39年2月11日発行『栃木県神社誌』宮目神社の項に「その後火災があり灰燼に帰することもあったが造格現今に至り,今なお土中より,古瓦,礎石等も出てくることがある」と記録されているのは,あるいは下野国庁正殿の礎石か。国庁の辺どころか国庁の跡地に鎮座するのが國府村大字田村字宮辺の当社である。

さて,『栃木県神社誌』昭和39年2月11日発行には配神と境内社に「竈神」と「かまど」の文字で植字されている。小生の調べた限りでは,竈神の名を祭神にしている社は栃木県には他に皆無である。『古事記』に「御年神…天知迦流美豆比賣を娶して生める子は、奧津日子神。次に奧津比賣命。亦の名は大戸比賣神。此は諸人の以ち拜く竃神ぞ」とあり,[カマノカミ]と読んでいる。
社号ではその奥津毘古命・奥津毘女命を祭神とする那須町大畑の「竈神社」と,那珂川町矢又の鷲子山上神社の境内社の計2社のみが分かっている。
また『文徳天皇実録』に大炊寮大八島竈神が記録され,宮目神社の北3kmにある大神神社に関わる室の八島とともに論じられるが,無関係か。
2012年9月3日に参拝したが,蚊の大群に悩まされる。1300年前の人々を悩ませた蚊の末裔かと思うとなかなか叩くことも出来ず,7匹に平成の血を分けてあげることとなった。
例祭:11月23日
環境庁看板
市教委看板
社殿右手 社殿右手
  右の柱に神璽 社殿左手
社殿左手 社殿左手に前殿 鳥居から見た入り口方向
祭儀習俗案内板の写真がピンボケなので書き起こします。
無形民俗文化財 宮野辺神社の祭儀習俗  この神社の祭儀習俗には注目すべき古風が残存しており,歴史学・民俗学的に貴重なものである。  その貴重な古風とは,
一、氏子組織としての「祭組」に,いわゆる〈宮座〉慣行をうかがわせるものがある。(草分けの家筋・株組織・頭屋制・大山家文書など。)
一、祭式次第の中に〈神前の直会〉形式をとどめている。
一、〈神饌〉の種類と、調理方法・食具の特徴(「粢」餅・「玄米」食・祭場での料理・簡素なお膳など)等である。
    祭儀は十一月二十三日に行なわれる。
 昭和五十九年三月三十日指定 栃木市教育委員会
星宮神社

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県栃木市田村町941

祭神:軻遇突智神 境内社:稲荷神社
旧地名:下都賀郡國府村大字田村字上館
下野国庁跡の北1キロ,44号線沿いに鎮座。
古墳の上に丸山正観音を祀って信仰していた。徳川家光のころに神明造りの社殿を建立。神仏分離で明治二年に祭神を軻遇突智命として星宮神社を名乗ることとなった。明治三十五年1902の暴風で社殿が倒壊ししばらく仮宮のままだったが,昭和二十一年1946十月に本殿と拝殿を再建した。
稀に見るイチョウの巨木が健在で,畳3畳分くらいの敷地に幹が10階建てのビルの高さまで伸びている感じの質量。土地の方は樹木を山に見立てて「ぎんなん山」と呼ぶ。
境内緑の多い写真は2012/9/3撮影,茶色系の境内写真は2014/1/26撮影です。
例祭:4月13日
拝殿
拝殿額 イチョウ根元
  近づくと巨大さが実感できる
古墳上に鎭座 田村公民館
愛宕神社

愛宕神社

[あたご神社]

栃木市・大塚町1122

配神[高龗神]

主祭神:軻遇突智神
配神:天照皇大神,応神天皇,高龗神[たかおかみのかみ](『栃木県神社誌』旧版で高雷竜と植字されている神さま),素戔嗚尊,磐裂神 境内社:稲荷神社
旧地名:下都賀郡國府村大字大塚
壬生駅と新栃木駅の間の野州大塚駅の北の田園地帯に鎮座。
昭和十五年1940建立の大正四年三月二十五日合社記念碑に「昔ヨリ大塚村内ニ在リシ神社ヲ統一シ・・・宿區八坂神社 中區愛宕神社,星宮神社,八龍神社 上區八幡神社 癸生區神明神社,浅間神社ヲ星ノ宮千百二十二番地星之宮神社ヘ合併ノ上村社愛宕神社トナシ」とあるうちの「八龍神社」の祭神が高龗神である。
拝殿右手に愛染稲荷。その右手の大きい社殿は八坂神社。明治廿七年の石塔。
由緒沿革によれば永禄八年1565創立。元禄三年1690三年社殿造営,昭和五十三年1978境内を整備し大々的に改修を行った。平成九年には拝殿・神楽殿・愛染稲荷の屋根を改修。1160坪と広大。
右手の八坂神社は独立した神社でも通用する。これは神楽殿を兼ねるのか?要再調査。本社と八坂に挟まれて愛染稲荷神社と神輿庫。
春秋の祭典には小松流・平砥流の五段囃子が奉納される。
本殿:流造板葺 拝殿:流造瓦葺 例祭:4月29日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-21丁
下都賀郡國府村大字大塚鎭座 村社 愛宕神社 祭神 軻遇突智命
建物本社間口二間奥行三間 氏子百八十戸
本社創建不詳 社域五百九十五坪を有し字愛宕にあり
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-21丁
下都賀郡國府村大字大塚鎭座 村社 神明神社 祭神 天照大御神 建物本社二間四方 氏子四十五戸
本社は字東神明に在りて社域五百二十二坪を有せり
昭和十五年1940建立
愛染稲荷縁起
日枝神社

日枝神社

[ひえ神社]

栃木県栃木市国府町164

祭神:大山咋命 配神:大己貴命 境内社:稲荷神社
旧地名:下都賀郡国府村 字山王
大化元年645に比叡山日吉大社より国司が勧請したと伝わる古社。印役神社とも呼ばれた。周辺は国衙の家屋場であった。下野国庁跡出土の木簡に天平元年729の文字が見える。律令制が下野に及んで国司が置かれるのは8世紀初頭とすると大化元年は遡りすぎかも知れないが,そうとうの古社ではあるだろう。
平成元年「日枝神社修復記念」碑。
平成12年の屋根付き社号標には「日枝神社(印役神社)」とある。
栃木市教育委員会が昭和四十三年1968頃建立した看板はつぎのとおり。
「史跡 日枝神社 現在印役地方の氏神をして祀られており、印役神社ともいいます。印役とは、もともと印と鑰(鍵)のことで、国司が管理する倉庫の鍵や倉庫の鍵に由来するを思われます。平安時代後期頃になると、印と鑰は実際には使用されなくなり、権威の象徴として神社に祀ったと思われさらに,日枝神を招き入れ、奉ったものと思われます。この神社の西方より、建物の礎石も出たと伝えられていますがその礎石は今は不明です。印役神社が今に伝えられているのは、非常に珍しいことです。」
役は正しくは「鎖鑰さやく」の鑰で「公文を置かむ庫の鎖鑰は長官自ら掌れ」とされた「かぎ」のこと。江戸期には「印鑑山王権現」と称したと『壬生領史略』に記録があるが,「印鑰山王権現」だろう。
印鑰の実用性がなくなって神社の祭器として祀られるのが11世紀末ごろとして,その後に日吉権現を勧請したのはどうやら平安後期以降のようだ。
境外地に木花開耶姫命の伝説が伝わる。東方500mの水田に姫が富士に向かう際に渡った一度橋と見返り浅間(次項に紹介)。さらに未確認ながら富士神社があるという。
境内西は高天ケ原(小野篁の屋敷跡があったことから篁が原とも表記,現在は民家が建つ)と呼ばれる。
西隣りの不二ラテックス敷地内に石鳥居,朱鳥居4本の稲荷神社。
例祭:4月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 山王大権現 田村 観明寺
鳥居額
伏見稲荷
日枝神社修復記念碑 拝殿額 拝殿内
本殿二社
印役神社も書かれている
萱場公民館 西隣りの稲荷
鎭座の杜手前に御釜神社
御釜神社
見返り

見返り浅間&六方稲荷神社

[みかえりせんげん‏/ろっぽういなり神社]

栃木県栃木市国府町538-13 こうまち

祭神:木花咲耶姫命
旧地名:下都賀郡国府村
大宮の浅間神社から雨の中を徒歩で北上,広大な田園地帯に小さな石宮。伝説は看板を。
道を隔てて稲荷神社の小祠が畔に。これは「六方稲荷」と呼ばれ,日向野氏の祖先が宝暦十年1760創立。『栃木県神社誌』にも記録されている。
西に数十メートル行くと大宮と国府の境に一度橋跡。そのまま西進すると日枝神社に至る。
看板にある室の八嶋はまだ場所が特定されていない。大神神社に模造品が造営されている。大神神社は北東徒歩約35分ほどに鎭座。(2019/6/15雨と6/18晴に撮影)
稲荷神社祭神:保食大神
稲荷神社例祭:旧2月初午日
案内板は平成10年建立 左向かいに稲荷
この先に一度橋跡 付近の田園 付近の田園
付近の石塔 一度橋
一度橋 見返り浅間方向
稲荷神社 昭和十三年1938建立 稲荷から見返り浅間
見返りから稲荷 左:稲荷 右:見返り 付近の石祠
天満宮

天満宮

[てんまんぐう]

栃木県栃木市国府町595-2

祭神:菅原道真公 配神:保食神 境内社:稲荷神社
旧地名:下都賀郡国府村大字国府中坪
天慶二年939将門の乱で焼失した下野国府庁舎の跡地に天慶五年942勝光寺と天満宮を造営したと伝わる。下野国庁跡が特定されたのは1979年(昭和54)以降で,現在は本ページ最初に収録した宮目神社境内が国庁跡地とされている。別当であった勝光寺は南西160mほどに現存する。大光寺は真東の思川右岸の地名に残っている。
大正十三年1924十一月吉日石宮には「大字国府中坪一同再建」の文字。となりの大正拾五年1926四月石宮にも「大字国府中坪一同」,大正九年1920庚申塔にも「大字国府中坪」とある。
境内右手に石宮が二基あるのが天神と稲荷かと思ったが,本殿は流造板葺と記録された。公民館風の建物の北側のトタン葺き内に鎭座するか,確認できなかった。2019/6/16未解決。左手の石碑は島田恭順君碑。
例祭:2月25日
石鳥居 バイクを避けて撮影 箱森と国府の方の奉納額
本殿は見えない
稲荷?と庚申塔 大正十三年1924
大字国府中坪一同再建 大字国府中坪一同
天満宮

天満宮

[てんまんぐう]

栃木県栃木市寄居町721

祭神:菅原道真命
旧地名:下都賀郡国府村大字寄居字平
元禄二年1689創建。明治三十五年1902暴風で倒壊,昭和十八年1943再建。
寄居新田は篠原平六が開拓したので,地名を平六ともいい,平六の天神と呼ばれる。北東国府町の六方稲荷の旧地名も平六で同じだが由来が異なる。
享保十三戊申1728,宝暦十三癸未1763,文化五辰1808,安政五戊午1858十九夜,宝暦十三1763普門品供養塔,
すぐ南のゴミ収集所にも稲荷神社石宮。昭和九年1934馬頭観世音,明治四十年1907馬力神。
すぐ北に国府町宿薬師堂跡碑。石宮四基と十九夜供養塔,台座に「女人講中」とあるが一基には「女講中」と刻まれている。
例祭:4月25日
 
本殿
享保十三1728 「寄居」が見える 宝暦十三1763普門品供養
付近の共有地に 馬力神と馬頭観世音
国府町宿薬師堂跡碑 石宮も四基 十九が五基・女講中の文字
桜木神社

櫻木神社

[さくらぎ神社]

栃木県栃木市柳原町162

祭神:倉稲魂命 配神:大木義右衛門源義尚命 境内社:八坂神社
旧地名:下都賀郡・國府村大字柳原字宿
慶長三年1598大木義右衛門源義尚翁によって創建される。元は壬生藩士であったが天正十八年1590柳原に帰農し開発に従事した。開墾なって稲荷大明神を創建。後世に里人大木義右衛門を合祀し櫻木神社と改称した。
鳥居足もとの社号標裏に文字が刻まれている。ちょうど年号の一桁目が修復で読めないが,文意から三十五年の台風だろう。
「于時明治三十▢年九月廿八日暴風ノタメ境内ノ樹木多ク倒折 石ノ鳥居モ大破壊セラル 依リテ氏子有志ヲ以テ▢年舊九月廿九日一ハ石造二ハ木造ノ鳥居ヲ建設▢其紀念トシテ茲ニ建碑ス 明治三十六年1903十一月十八日」
木製鳥居はいまはない。
拝殿は柳原町公民館と兼用。本殿のとなりに神輿が保存されている。右に配神。
御影石鳥居,明治八年1875狛犬。明治二十八年1895石燈籠。
元禄五壬申天1692青面金剛は三猿の上に像があった? 左からみっつめ「奉造立庚申供養塔・同行九人」も元禄期。寛政十二年1800庚申塔。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 4巻20丁
下都賀郡國府村大字柳原鎭座 村社 櫻木神社 祭神 稻倉魂命 素盞嗚命 足利義尚靈 建物本社間口九尺奥行一丈 末社一社 氏子二十戸
本社創立不詳 社域百三十三坪を有し字宿に在り
  于時…
公民館 本殿 昭和二十四年1949記念植樹杉苗
明治廿八年1895
境内左手
中央:元禄期 左は天保? 元禄五年1692
愛宕神社

愛宕神社

[あたご神社]

栃木市・田村町912

主祭神:?火産霊命or軻遇突智神
旧地名:下都賀郡國府村大字田村
星風会病院の駐車場の北に鎭座。愛宕神社縁起と早川家の家系図がガラス張りの案内板に書かれている。覆屋に銅葺本殿。右手の覆屋に虚空蔵菩薩が祀られている。星風会病院の南には田村町941の星宮神社。西700mに大光寺の神明神社。
 
 
 
 
神明

神明宮

[しんめいぐう]

栃木県栃木市大光寺町818

祭神:天照皇大神
旧地名:下都賀郡国府村大字大光寺
冨士食品工業の東裏手,思川まで200mの田園に鎭座。下野国庁があったころの昔に思川(小倉川)の氾濫に苦しめられ水難除けのために天照皇大神を祀ったことに始まる。
拝殿内に神明宮額二枚,一枚は明治三十九年1906奉納。『下野神社沿革誌』は「神社」で記録したが,ここは維新政府に「神社」を強制されたわけではなさそうなので「宮」のままでいいだろう。同様のことは天満宮にも起きる。
左手に古風な神輿。うしろに圓光寺板額。すぐ南に円光寺公民館がある。円光寺は江戸期の別当かも知れない。
台座に「大光寺中」「大光寺講中」とある石宮。左は昭和十二年1937建立。
拝殿左手下に「享保九年1724甲辰稔四月吉日」と読める鳥居柱が保存されている。
例祭:10月第二日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 神明宮 大光寺 村民
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 4巻21丁
下都賀郡國府村大字大光寺鎭座 村社 神明神社 祭神 天照大御神 建物本社間口一間奥行二間 拜殿間口三間奥行二間 氏子六十二戸
本社創立不詳 社域百八坪を有し字腰越に在り
神明宮額
神輿 石宮二基
享保九年1724鳥居柱 鳥居の先は思川
八坂神社

八坂神社

[やさか神社]

栃木県栃木市惣社町164-1

祭神:素盞嗚命
旧地名:下都賀郡國府村大字惣社
西光寺の北隣り。平成元年1989十月に南区自治会建立の記念碑に「公民館移転改築」「八坂神社移転新築」とあり,下部に平成元年五月大貫さん宅前にあった八坂神社を西光寺境内に移転新築した旨が刻まれている。左手に明治四十二年1909馬頭観世音。
右は公民館
記念碑 記念碑下部 馬頭観世音
神明神社

神明神社

[しんめい神社]

栃木県栃木市田村町114

旧地名:下都賀郡国府村 大字田村
祭神:天照皇大神
田村は明治二十二年1889国府村大字田村。
日向野庄と呼ばれたこのあたりには,日向野氏,天谷氏,篠原氏が定住した。篠原銀右衛門が建久二年1191に創建。下記の厳島神社と同様の縁起。
昭和21年1946新築。大光寺と円光寺の二集落が奉祭する。
例祭:旧9月9日
厳島神社

厳島神社

[いつくしま神社]

栃木県栃木市田村町116

旧地名:下都賀郡國府村大字田
祭神:市杵嶋姫尊
日向野庄と呼ばれたこのあたりには,日向野氏,天谷氏,篠原氏が定住した。日向野銀右衛門が建久二年1191に創建,弁天さまと呼ばれた。68坪の境内に石宮が祀られている。明治廿九年1896旧十一月十五日再建・下坪講中の文字。
例祭:11月20日
明治廿九年1896
  中央の杉の根元に鎭座
権現神社が見える 神明宮が見える
権現神社

権現神社

[ごんげん神社]

栃木県栃木市田村町156

旧地名:下都賀郡国府村大字田
祭神:天照大神
延暦元年782創建と伝わる古社。もとは国衙の中にあった円墳に大石を祀っていたが,正徳年間1711~16医師の篠原三洞が現在地に祠を建てて権神社と称した。71坪の境内に石宮が三基祀られている。石鳥居があったが倒壊(2019/7現在)。
例祭:三年ごと,4月8日
  石鳥居があった
後ろから 赤矢印に鎭座
星宮神社

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県栃木市寄居町320

旧地名:下都賀郡国府村大字寄居
祭神:磐裂神・根裂神 境内社:天満宮・愛宕神社(軻遇突智命)
永享五年1433創建。
昭和戊辰三年1928旗杭。昭和四年1929石鳥居。拝殿前にイチョウの古木。昭和十二年1937狛犬,石工熊倉中清?。
石宮四基,右の古そうな石祠はめずらしい構造,文字は見つからない。となりは天満宮,浅間神社,不明社。本殿裏手の覆屋内は推定愛宕神社。脇に御神木だった杉の切り株が保存されている。
本殿左手のケヤキ?の巨木の根元に大岩。観音菩薩の梵字の下に「鳥」のような文字。注連縄に隠れた部分にも文字が刻んであるが読めない。
付近の不動堂境内に寄居町公民館。文政五年1822十九夜,天明二年1782馬頭観音など無数の石像,僧都墓標。
鮮やかな薬師堂も付近に。平成十四年に瑠璃光薬師如来,日光菩薩,月光菩薩,釈迦如来を像を修復している。石像八基,石宮一基。享保九辰1724,元文二年1737,文政五年1822十九夜など。
例祭:旧10月19日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 4巻20丁
下都賀郡國府村大字寄居鎭座 村社 星宮神社 祭神 磐裂命 建物本社間口九尺四方 拜殿間口三間奥行二間 氏子七十三戸
本社勧請年月不詳 社域百三十四坪にして字星宮に在り
浅間神社

癸生浅間神社

[けぶせんげん神社]

栃木県栃木市大塚町3606

祭神:木花開耶姫命 境内社:八坂神社・大杉神社
旧地名:下都賀郡国府村大字大光寺
木花開耶姫命が瓊瓊杵命を欺く際にコノシロ,ニラ,ニンニクを焼いて葬儀に見せかけた。大同元年806焼却場に石を祀ったことに始まるとと伝わる。その後,石は行方不明になるが,承応二年1653富士講の正田正行が口碑を頼りに見つけ出し,石宮を祀った。詳しくは解説板写真を。
石鳥居幅の細い参道の先に立派な拝殿。拝殿内に二基の神輿に挟まれて本殿。しかし拝殿裏手に富士塚が築かれ,左右に九基の石宮を従えて,中央に浅間神社石宮が鎭座。
「當社開祖・足利町・正田正行真・八十八度大願成就」碑。拝殿前右手に享保九年1724らしき石燈籠。 思川右岸,東武宇都宮線の北270m程。
例祭:11月18日
由緒
鳥居方向
富士浅間神社額 左右に小神輿 拝殿右手
石宮 癸生浅間
浅間独特の尾根
仙水なんとか
いつの未か不明 石尊大権現
正田正行真の字 明治十七年1884
手水石 保九が読める
隣りの会社の神社 浅間入口 北から
八坂神社

八坂神社

[やさか神社]

栃木県栃木市大塚町2524

Mizkanの栃木工場向かいに冠木門が遠望できるので入ってみた。行基作の立木観音像を収めた「荒痛薬師堂」がある。また勝道上人お手植え桜の子供が大木になっている。詳しくは由来看板写真を。
薬師堂右手の神輿庫脇に「旧八坂神社」石標が建てられており,むかしここに八坂神社があった。石標年号はほとんど読めないが,大正六年1917かもしれない。内部には古風な神輿二基が納められている。
文政十二年1829十九夜,享和年間1801~04十九夜,嘉永七年1854大塚村上組女人講中十九夜など境内に多数の石像。嘉永六年1853石燈籠も。広い境内左手に上組公民館。昭和42-45年新築改築記念碑。
神輿庫右手 旧八坂神社碑 神輿二基
南入口から 冠木門
薬師堂 お堂内 消えた
由緒全文 由緒前半
勝道上人お手植え桜
十九夜など 八坂の記述は無し
大塚村・女人講中が読める 仙水なんとか 上組公民館
付近の家中951-1 むかし神社があった 境内跡地

 

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