八幡宮

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県栃木市大平町・西山田2414

旧地名:下都賀郡大平町大字西山田 富山村
祭神:譽田別命 配神:豊受比売・大己貴命・須佐之男命・大山祇命・軻遇突智命
『栃木県神社誌』平成18年版に寛永二年1625創立とあるが,すでに慶長十二年1607徳川家康寄進状に「奉寄 久喜山 八幡宮 御領 下野國橘郷内七拾石事」と書かれているので創建ははるかに遡るだろう。また『下野神社沿革誌』の記述とも齟齬があり謎が残る。
立花地区の鎭守。明治九年1876立花は山田村の一部となる。
例祭:8月1日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 久喜山八幡宮 立華 報恩院
*『下野掌覧』万延元年1860都賀郡之部
喜山八幡宮 立花村鎮座 祭主杦田氏ナリ <喜山ハ原文のママ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻-61丁
下都賀郡富山村大字西山田字宮脇鎭座 村社 八幡宮 祭神 譽田別命 建物本社間口一間半奥行二間 拝殿間口二間半奥行一間半 末社一社 氏子二十七戸惣代五員
本社は弘仁年中810~824の創立にして藤原冬嗣の勸請なり 後寛治年間1087~94奥州の武衡反するや源義家誅伐の勅を奉し奥州へ下向の時本社に戰勝祈願書を納められ奥州平定の後社領を寄附し社殿を再建せられ數百年の間盛榮たり 而るに天正年中1573~92北条氏康當國に亂入し皆川山城守と戰争に及ひし時社殿及ひ寳物古書等に至るまて悉く兵火のために焼燼し再ひ本社を再建せしに慶長十七年1612徳川幕府検地の時社領を没収せられ爾来修繕も整わす漸々衰頽して今日の現況に至り殆と中古の跡を失ふものと云ふ 社域一千五百八十九坪を有せり
八幡宮

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県栃木市大平町・西山田

旧地名:下都賀郡大平町大字西山田字中山 富山村
祭神:譽田別命
上記2414番地の八幡宮とは別に『下野神社沿革誌』に西山田にもう一社記録されている。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻-62丁
下都賀郡富山村大字西山田字中山鎭座 無格社 八幡宮 祭神 應神天皇 建物本社間口一間一尺奥行一間三尺 雨覆一棟 華表一基 氏子三戸惣代一員 社掌白石幸太仝村住大字仝
本社創建年月遼遠にして祥かならすと雖も往古白石家武運長久を祈るために祀りしものにて當時は社殿も宏壯壯麗なりしか土着の後は白石三家の氏神にて漸く衰頽して本社のみを残せりと云ふ 社域百九十五坪字中山壹等官林の山麓に在りて高きこと六十余間にして西一帯耕田の蒼々たる間に炊煙の棚引を眺め境内には松樹生繁り又眞榊の古木(二尺曲り高さ三丈余)鬱然として繁茂し古雅幽邃の趣に富むの境なり 
晃石

晃石神社

[てるいし神社]

栃木県栃木市大平町西山田3502

旧地名:下都賀郡大平町大和田 富山村
祭神:天津兒屋根命 配神:軻遇突智命・建御名方命・菅原道真公・大雷命・白山姫命・ほか10神
境内社:配神全15社
天平元年729創立と伝わる古社。「綾都比神」と称した。
『日本三代実録』巻卅五に「元慶三年879 三月九日己亥 授下野國正六位上綾都比神從五位下」の記録がある。
例祭:旧暦8月1日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 晃石大権現 山田 関塚和泉
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
正一位 日光石神社 山田村鎮座 祭主関塚氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻-56丁
下都賀郡富山村大字西山田鎭座 村社 晃石神社 祭神 天兒屋根命 祭日陰暦八月朔日 建物本社間口一間奥行一間二尺 拝殿間口三間奥行一間 末社三社 氏子百四十八戸惣代六員
本社傳に曰ふ 上古本社は綾都比神と稱し神奇石ありて毎夜光り見はれ綾に尊き神の御光り故に此稱ありと云ふ 花房王の歌に「あやつひのてるひの山の大神に山田そほとのつかへさらめや」又三代實録にも本社に従五位の下を授く云々と見へたり 而るに承平年中931~938兵燹に罹り社殿悉く灰燼に歸し後弘安年中1278~88佐野安房守本社を再建し後野火のために焼燼し再三の建立あり 今の宮殿は天保年中1830~44の再建にして壯麗ならすと雖も神威赫灼として毎年陰暦八月朔日大祭を執行し兩野常総武の各國より信徒▢至す 而れとも往時は婦女の參拜を許されさりしも明治維新後此禁を解き今や男女登賽するもの頗る多し 本社は晃石山の高嶽に(海面より一千三百八十四尺)鎭して社域一万四千九百三十四坪を有せり
【参考】『下野国誌』嘉永三年1850刊行の巻三,都賀町大橋,旧赤津村の八幡宮の項に「綾津日八幡宮 都賀郡大橋村にあり,神主川津藤太夫と云,祭神大綾津日神なり,相殿に八幡宮を祀れり,祭礼は毎歳十一月十五日なり」。続けて三代実録を引用して,綾津比神を解説している。
稲荷

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県栃木市大平町西山田2862

旧地名:下都賀郡大平町大字西山田 富山村
祭神:宇気姫命
65坪の境内地に間口一尺奥行二尺の石宮が祀られている。
宇気姫命は『古事記』に食物神として登場する豊宇気毘売神のことだろう。栃木県の稲荷神社祭神としては珍しい表記。栃木市には豊受姫命を祭神とする稲荷神社はほかにも鎮座する。
例祭:11月第三日曜日
御嶽

御嶽神社

[みたけ神社]

栃木県栃木市大平町西山田2911

旧地名:下都賀郡大平町大字西山田 富山村
祭神:国常立命
54坪の境内地に間口一尺奥行二尺の石宮が祀られている。
例祭:11月第三日曜日
道祖

道祖神社

[どうそ神社]

栃木県栃木市大平町西山田3121

旧地名:下都賀郡大平町大字西山田 富山村
祭神:猿田彦命
18坪の境内地に間口一尺奥行二尺の石宮が祀られている。
例祭:11月第三日曜日
日枝

日枝神社

[ひえ神社]

栃木県栃木市大平町下皆川1504

旧地名:下都賀郡大平町大字下皆川 富山村
祭神:大山咋命 配神:軻遇突智命
境内社:淡島神社・八幡社・稲荷神社・白山神社
天長二年825創建の古社。
例祭:4月10日に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 日吉七社 下皆川 長乗寺
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻-61丁
下都賀郡富山村大字下皆川鎭座 村社 日枝神社 祭神 大山祇命 建物本社間口一間四尺奥行二間 末社二社 氏子百廿三戸 社掌植原佐十瑞穂村大字藏井住
本社は天長二年825の創立にして慈覺大師の勸請なり 往時は日吉山王大權現と稱し別當には藥王山長樂寺奉仕せり
別當輪月坊の編せし尋洞記に曰く本社は 淳和天皇の御宇天長二年825蒙勅慈覺大師開闢の霊塲にして國家安全の爲めに日吉山王大權現を鎭座し給ふ所にして後勝道上人此に至り絶景幽邃の霊塲なるを見て月光山本宮を此所に安置し給ひり 徳川將軍家康本社の靈塲を聞しめし本社御供料として田園を給はれり 当時代官下島甚右衛門御供免の割符を下附せられ其后の地頭松平大隅守本社を再建し仝苗太郎ハ宮殿を修繕せられ後又地頭溝口出雲守崇敬して自ら揮毫せし神號 の扁額を納めらる 後ち皆川村の鎭守神たり 社域一千六百五十八坪高燥の地にして絶景幽邃神寂ひて舊社たるを表す
客人神社

客人神社

[きゃくじん神社]

栃木県栃木市大平町下皆川1581

境内社:大杉神社・浅間神社・天満宮・道祖神社(八衢比古やちまたひこ命・八衢比賣命)
祭神:建御名方命
旧地名:下都賀郡大平町大字下皆川 富山村
応永三十年1423磯山の諏訪神社(大平町真弓)より勧請。明治三十三年1900社殿造営,平成二年1990改築。
石鳥居・狛犬一対・石燈籠
[きゃくじん]の読みは『栃木県神社誌』による。厳島神社境内社のように[まろうど]と呼ぶ社もある。埼玉氷川神社の門客人神社は明治初年頃に荒箒社(あらはばき)から改称され[もんきゃくじん]と読み,[かどのまろうど]と俗称されているらしい。
例祭:4月20日に近い日曜日 11月20日に近い日曜日
星宮

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県栃木市大平町富田1193

旧地名:下都賀郡大平町大字富田 富山村
祭神:磐裂命・根裂命
昭和二十六年1951消失したが氏子の努力により再建。
昭和六十三年1988二の鳥居再建。
例祭:10月15日
浅間

浅間神社

[あさま神社]

栃木県栃木市大平町富田3245

旧地名:下都賀郡大平町大字富田 富山村
祭神:木花開耶姫命・白山姫命
境内社:稲荷神社
創立等不詳ながら慶長十七年1612の「寺社方書上帳」にはすでに記載がある。
元は友田山上に鎭座した。昭和25年1950現在地に遷宮,平成十二年ころ友田山開発事業に伴い境内も整備して再建した。
例祭:8月1日
八坂

八坂神社

[やさか神社]

栃木県栃木市大平町富田1646

旧地名:下都賀郡大平町大字富吉 富山村
祭神:素盞嗚命 配神:英霊神・月読命・軻遇突智命・大雷命・宇迦之御魂命・迦具土命
境内社:
永享年間1429~1441の創立。維新以前の江戸末期に牛頭天王から天王神社に改称している。明治元年1868に八坂神社と改称。
例祭:8月1日に近い日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 正一位 牛頭天王 富田 鈴木式部
*『下野掌覧』万延元年1860 都賀郡之部
天王神社 冨田村鎮座 祭主鈴木氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻-60丁
下都賀郡富山村大字富田鎭座 村社 八坂神社 祭神 素盞嗚命 建物本社間口三間奥行三間 拜殿間口二間半奥行二間班 氏子三百六十二戸惣代十員 兼社掌大和田茂教瑞穂村大字眞弓住
本社は永享年間1429~1441の創立にして富田左衛門朝房當地に城を築き牛頭天王を地内に勸請し常に領主の祭祀する所なりしか後富田左近宗行の代弘治三年1557中皆川俊宗と隙あり戰争となり戰ひ利あらすして遂に城陥る 夫より皆川の番城となり天正十八年1590皆川落城し後富田宮内の釆地となるも領主代々の崇敬の社にして祭祀怠らす 而るに慶長十七年1612検地の際當城悉く廃城に歸し民有地となる 社地も又租税地となり氏子より地租を納めて以て社地に供せり 依て氏子相議り寛永十七年1640三月二十二日を以て現今の地に移遷し後享保八年1723十一月再建す 當時宿内疫病の流行ありしか氏子神輿を奉納し宿内を巡行するに其悪疫忽ち消滅す 故に爾来恒例として毎歳巡行の盛式あり 社域百九十坪を有し字新町に鎭す 本社は明治元年1868舊號を改めて八坂神社と稱す 後明治六年1873村社に列せらる
200年前の栃木県神社リストである『鹿沼聞書・下野神名帳』には大平町にあったと推測できる次の社が記録されているが,現在社は不明である。
都賀郡 諏訪大明神 底谷 盛光院 >西水代の八坂神社に合祀か
都賀郡 白山大権現 西浦 盛光寺
都賀郡 正八幡大神宮 下宮 竜蔵院

以下の社は写真あり
龍神社・大平町西山田

*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 四巻-60丁
●富山村
本村は富田,西山田,下皆川の舊一宿二村を合せしものにて其幅員東西凡一里南北凡一里九町あり 冨田下皆川は人家殆と連接し西山田は西隅に在りて大平の高峯其後を劃するに因り平素聲息を通するは富田下皆川に在り 地勢西方一帶山脈圍繞し東方平地多く自然の區域をなし永野川村内を經流し富田下皆川灌漑の利を共にせり 村民能く農耕に従事し冨田は半は商業を營むものあり
古來沿革に付ては冨田下皆川は往時は共に濱松藩に属し維新後共に第一大區三小區に編成せられ后又一戸長役塲の所轄に歸し尋て町村制實施に當り今の一村となれるものなり 本村には村社四社及ひ有名の無格社一社あり其氏子六百五十余戸人口四千二百二十余人を有す

 

 栃木市の神社目次へ 
 ページトップ