船玉神社

[ふなだま神社]

栃木県さくら市上阿久津150

祭神:船玉(<魂)命
下ケ橋から125号線で鬼怒川を渡ったらすぐ左折。鬼怒川左岸の堤防下に鎭座。詳細は案内看板を。
手水石に「阿久津河岸・惣舟持中」の文字。河岸の岸の字は山厈とヘンツクリ構成。
「文政九年丙戌1826九月」石燈籠。「弘化二年乙巳1845三月立」石燈籠。
境内社の金毘羅神社前に「嘉永六年1853丑十二月吉日」石燈籠。
案内看板 船形の境内
惣舟持中 文政九年丙戌1826
弘化二年乙巳1845 本殿
見ごとな彫刻 昇流降流
本殿扉 左側面 右側面
金毘羅神社 金毘羅神社石燈籠
金毘羅神社本殿
旗杭
稲荷神社

與作稲荷神社

[よさくいなり神社]

栃木県さくら市上阿久津32-2

祭神:倉稲魂命
上記船玉神社から東進し125号線奥州街道を渡るとすぐに朱色の大屋根が見える。入口に大正十二年1923の背の高い社号標。舩木の長い堂々たる石鳥居につづいて木製朱鳥居8基。狛犬2対。拝殿手前の狛犬は大正十年1921奉納。拝殿には多数の掲額。左手の一枚に「與作神社由来」が筆書されている。上阿久津老人会一同による昭和五十年の奉納。「上阿久津與作神社新築寄附記ニ伝フ」として引用文が書かれている。まず「永承五年1050に豊宇賀神ヲ勧請シ一社ヲ建立シ」とある。つづいて凶作に見舞われた際も毎朝清水を捧げて安穏を祈願していた萬藏の田圃だけは不作をまぬがれ,以降,作を与えられた稲荷,与作稲荷として村民の崇敬を集めるようになったこと。その後,社域が暴水によって崩壊したため三本杉に遷宮したが,神徳日に著しく陸奥の国主から灯油料の寄進を受けるまでに繁栄する。嘉永三年1850に東圓寺境内に遷宮。現今の社頭である。明治十二年1879虎列利(コレラ)流行の際も社殿を洒掃して祈祷したおかげで村民は無事であった。聞き伝えた遠近の参拝者「日毎数千人」とある。明治十五年1882の悪疫蔓延の際にも「当村一人ノ患者モ見ザルコト偏ニ神霊昭々タルニ因ル」と神徳が記述され引用が終わる。
つづいて「当初本社は高尾神社別当東圓寺法印諄慧?等により祭祀せられしが日毎信徒の数夥しく社前賑へり 明治十二年1879古来の縁拠に照して與作稲荷神社諸則を定め大谷村神官阿久津伊勢松,喜連川住神官高塩清風らに祠掌を依頼して祭祀を掌る 一方後事を決めて賽銭の一部を神社建築並に営繕の資出金として蓄え置きぬ かくして明治十五年1882斧始め上棟迄の延人数三百四十七人二分五厘を?せり 明治十七年1884旧六月十二日拝殿及び神楽殿絵馬堂等の落成を見たり 神威愈々赫々として遠近に相伝わり衆庶の萬願を成就せり」とある。
*別当東円寺の高尾神社社は維新前までは「高於加美大明神」と称し,ここからすぐ北の上阿久津1905番地に鎮座する。
*大谷村神官阿久津伊勢松は同じく維新前までは「高於加美大明神」と称した高根沢町大谷の高龗神社の社掌である。『下野神社沿革誌』明治三十五年1902刊付録に人物紹介が載っている。今宮神社司掌他氏家南部の社の社掌を多数兼務。
*喜連川住神官高塩清風は同じく『下野神社沿革誌』に人物紹介が載っている高塩数麿の父君である。高塩家は代々喜連川神社の社司を務め,今宮神社他の社掌も兼務する。
簡略な由緒は案内板写真をご覧いただきたい。
延享四年1747四百万反供養塔。明治十二年1879石燈籠。明治十五年1882石燈籠。大正十二年1923鳥居建築記念碑。昭和十一年1936記念碑。境内左手に「塩釜地蔵尊」
大きな社殿 社号標
鳥居寄りの狛犬
拝殿手前の狛犬
由緒書
本殿右手
延享四年1747
本殿右裏手の境内社 鳥居跡?
塩釜地蔵尊

 

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