水神社

[すいじんしゃ]

栃木県さくら市押上528

祭神:水速女命 境内社:浅間・琴平・八坂・稲荷神社
旧地名:塩谷郡氏家町大字押上528
鬼怒川左岸から北に500m,新幹線と東北道に挟まれた62号線沿いの田園地帯に鎮座。
「水神社本殿」案内板に,
「水神社は寛文年間の社伝等から,一六〇〇年代後半に成立したと考えられます。しかし現在の本殿は,彫刻の墨書<当国塩谷郡大蔵崎 庄 喜連川 梅枝軒英道 敬白 彫物師 奉細工水神宮宝殿 干時 安永三午年霜月吉辰>」 「なお拝殿の格天井の中央には、牧野牧陵が描いた迫力のある龍図やその周囲を埋める色鮮やかな百人一首の絵」
寛文年間は1661-1673年,大蔵崎は喜連川城のあったところ,安永三年は1774年,牧野牧陵(文化二年1805-明治十四年1881)は喜連川藩最後の御用絵師。
残念ながら拝殿内を見ることはできなかった。
「御即位大禮記念碑」に「此の押上の里は古鬼怒川の東欠上に在りしが年々の洪水の害を蒙りしことを以て山城国貴舩の神を迎へ水神社と崇稱へ?の鎭守として之を祀る…上原に浄地を選みて明治四十年1907九月二十九日遷し?て奉り…昭和三年1928十月二十九日 鈴木松太郎撰文」
貴船の神とは通常は高龗神,闇龗神だが『下野神社沿革史』『栃木県神社誌』とも水速女命としている。『鹿沼聞書・下野神名帳』では八龍神と記録されており,江戸期からの祭神が水速女命なのだろう。
かつては鬼怒川沿いにあったが明治四十年に現在地に遷座し,このとき近隣の猿田彦神社,湯殿山神社・八坂神社・稲荷神社・愛宕神社を合祀している。
本殿裏手には神武神社,甲子神社など多数の祠が建てられている。稲荷神社の狐狛犬は残念ながら鼻が欠けてしまったが九尾のようだ。
鳥居をくぐった右手に「金毘羅権現と神輿の由来」,隣りの琴平神社の格子越しに撮影してみると彩色鮮やかな神輿が写っていた。
鳥居左手には庚申幸神碑(明和元年1764)と7体を三段に浮き彫りにした七夜待本尊供養塔(享保十七年1732)。
例祭:10月29日 275坪
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 八竜神 押上 信国寺
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)7巻24丁
鹽谷郡氏家町大字押上鎭座 村社水神社 祭神水速女命 祭日九月廿九日 建物本社間口七尺奥行六尺 雨覆間口九尺奥行二間 拝殿間口三間奥行二間杉皮葺 木鳥居一基 氏子五十戸 社掌船生一正氏家町大字馬塲六七番地住
本社勸請年月詳にせす往古より一村の鎭守神にして明治五年1872村社に列せらる

本殿解説
左手 右手
裏手の石祠 甲子神社 中央に甲子神社
狐狛犬
琴平神社
金毘羅権現と神輿の由来 鳥居建設記念
御即位大禮記念碑 基本資産増殖記念碑 鳥居の先に新幹線高架が見える
三島神社

三島神社

[みしま神社]

栃木県さくら市蒲須坂380

祭神:大山祇神 境内社:浅間神社・琴平神社・八坂神社・稲荷神社
4号線から蒲須坂交差点を西に入ってすぐ。創立不詳だが寛政七年1795石燈籠があるので江戸時代に創建された。昭和五十九年1984石鳥居。平成二年拝殿額は山つきの三嶋神社,拝殿内中央額は山なし。
昭和十一年1936狛犬。明治四十四年1911手水石。拝殿左手角の土台に「昭和46年7月」とあるのは拝殿改築年か。
本殿裏手に多数の石塔・石祠が一直線に並べられている。「寛政七年1795」石燈籠,「勝善神」6基,「文化七年1810二十三夜塔」,「文化六年1809弁才天」,明治の「馬頭尊」,「文政七年1824秋葉大権現」,「享保十三年1728庚申供養塔」,「天保十年1839湯殿山」など。
例祭:10月17日
三島神社の南方。蒲須坂駅前に石祠が残っている。保存のされ方が個人の崇敬社とは違うようだが,社号不明。
例祭:10月17日 279坪
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)7巻24丁
鹽谷郡氏家町大字蒲須坂鎭座 村社三島神社 祭神大山祇命 祭日九月十九日 建物本社間口四尺二寸奥行四尺五寸 拝殿間口二間奥行二間半 鳥居一基 氏子三十一戸 社掌船生一正氏家町大字馬塲六七番地住
本社創建年月詳ならす社域一千五百四坪にして明治五年1872村社に列せらる

蒲須坂に「天照皇大神宮」があったことが1800年頃の記録に残っているが特定できない。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
塩谷郡 天照大神宮 蒲須坂 村民
手水石
本殿裏手
鳥居右手前のお宅に
西隣りに蒲須坂公民館 蒲須坂駅前の不明社
天神社

天神社

[てん神社]

栃木県さくら市長久保479

祭神:思兼大神 境内社:浅間神社・八坂神社・湯殿神社・琴平神社・稲荷神社
上記水神社の西,押上小学校隣りに鎮座。『栃木県神社誌』平成18年版に「元治元年1864創立」とあるが,それよりはるかに古い1639年の石祠が残っている。旧鳥居も弘化三年1846なので「創立」の指す意味に別の事情があるのだろう。「当地に鎮座したのは明治四十二年1909」という記述も境内の石碑とは大きく異なる。異説が残っているのだろうか。
昭和三年1928社号標。昭和六十三年1988一の鳥居。大正九年1920石燈籠。
二の鳥居は「文政十二己丑年1829」
社殿右手奥に石祠五基。月山大神・出羽大神・湯殿山大神。
本殿裏手に「天和三年1683九月」の県内では古い方に入る石祠。
左手の神庫脇に「弘化三丙午年1846・石工池田??」の文字が読める旧石鳥居が保存されている。
大正九年1920の「天神社碑」に「長久保ニハ郷人奉斎の神社四社ありて一を天神社と称し他を浅間八坂湯殿といひ…」に始まる由緒が刻まれている。明治四十五年1912に浅間八坂神社を合祀し,大正八年1919湯殿神社を併合し,湯殿神社の境内に遷座したが,狭隘につき不都合とのお上のお達しで現在地の山林を購入し大正九年1920に拝殿を新築した旨が続けて記録されている。
祭日:10月25日 639坪
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)7巻24丁
・鹽谷郡氏家町大字長久保鎭座 村社 天満宮 祭神菅原道真公靈 祭日八月廿五日 建物本社間口三尺奥行二尺四寸 雨覆間口二間半奥行二間萱葺 氏子廿五戸 社掌船生一正氏家町大字馬塲六七番地住
本社創立年月日詳ならす社域一千五百八十坪の大境内に鎭す
・鹽谷郡氏家町大字長久保鎭座 村社 湯殿神社 祭神大山祇命 祭日九月十九日 建物本社間口三尺奥行二尺 木鳥居一基 氏子廿五戸 社掌船生一正
本社勸請年月詳かならす社域三百坪なり

額束に天神社
文政十二己丑年1829
長久保創立三百五十年祭碑など 天神社碑
本殿真裏 天和三年1683
弘化三年1846鳥居
天満宮

天満宮

[てんまんぐう]

栃木県さくら市富野岡138-1

祭神:菅原道真公
氏家大橋東,鬼怒川左岸に鎮座。2016年3月5日,梅が満開の天神さま。
寛政七年1795石燈籠。本殿左手に金比羅神社。
境内南端に「大師堂」となりに「薬師堂」
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)7巻23丁
鹽谷郡氏家町大字富野岡鎭座 村社 天満宮 祭神 菅原道真公霊 祭日九月廿五日 建物本社間口五尺三寸奥行三尺 雨覆間口二間半奥行二間 木鳥居一基 氏子十三戸 社掌船生一正氏家町大字馬塲六七番地住
本社創建年月詳ならす 社域二百十七坪にして明治五年1872村社に列せらる

いい配色寛政七年1795石燈籠
梅に天神さま
月山・湯殿山・羽黒山大神本殿裏
金比羅社
薬師堂
大師堂富野岡公民館

 

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