『鹿沼聞書・下野神名帳』成立時期
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下野国の神名帳として現存する最古の 乾斎老人筆記『鹿沼聞書・下野神名帳』は維新の神仏分離令以前の社号と神主,別当名が分かる貴重な記録である。著者名・成立年は記録されていない。
岡田順平氏に伝わり子の西村辰次郎氏が保管していた古記録を昭和二年に足利市互全丸山源八氏が手写し,それを昭和七年に村田正夫氏がさらに手写し,昭和八年に活版にしたらしい。村田氏も「脱漏誤字」少なからずとおっしゃっているが,さらに『栃木県神社誌』旧版1964の巻末に収録された際にも誤字が増えているかもしれない。村民が村正,芦野が芳野など悩まされる。
丸山氏は神主藤原久敬の名から宝暦1751~64年間の成立と推定したが,小生は聞書の記録に藤原久敬は見つけることができなかった。誤植で消え去ったのだろうか,不明である。
池沢檜園氏は「那須郡 湯泉大明神・健武山神社 芦野 藤原泰経奉祀」の藤原泰経が宝暦十年に神主であった記録と墓碑銘の天明八年から1760-1788の成立と推定されている。

雨宮義人氏は『栃木県神社誌』旧版の第二章「栃木県神社概説」で明和七年1770前後と推定なさっている。
嘉永三年1850庚戌六月刻成・下野真岡荒町鈴木屋久四郎蔵板・芳賀百姓越智直守弘識『下野國誌』を読んでいる過程で中小倉の高龗神社神主「手塚伊豆」の名前が目に留まった。あわてて調べてみると『鹿沼聞書・下野神名帳』に見える斎藤壱岐,縣因幡,長丹波,高橋山城の名が1850年刊の『下野国誌』にも記録されているではないか。
すると池沢氏推定の最後の年天明八年1788に30歳で神主になったと仮定して,1850年には92歳前後である。(温泉神社神主小泉斐が養父の後を継いだのが31歳であった)。
雨宮氏推定の1770年に30歳で神主になったと仮定して,1850年には110歳前後であり無理がある。
下野国誌の奥付は1850だが,複雑な図版も多数あり,取材と編集に相当年数かかっているだろうから,それが10年としても1840年以前の内容である可能性が高い。
同じく鹿沼聞書も記録したときには神主が現役でも,1000社を収録し終えたときには1788年をとうに過ぎていたのではないかと考えると,1800年前後の成立ではなかろうか。
1790年に30歳で神主になり聞書に記録され,同名が国誌に1840年に記録されると80歳。
1800年に30歳で神主になり,国誌に1840年に記録されると70歳。
すると1800年前後に聞書が書き終えたと考えて妥当なところではないか。
*さらに貴重な証拠を発見した。鹿沼の久我神社に残されている石碑に正保三年1646からの神職一覧が刻んである。ここに宝暦十年1760から寛政十年1798まで39年間社掌を務めた吉村大和守藤原宗為の名が読み取れる。聞書の「都賀郡正一位久我大明神(下久我、吉村大和)」の記録に一致する。池沢氏の1760から88年説ともほぼ一致する。
宝暦十年1760の成立とすると『下野国誌』記載の宮司名と年齢的に齟齬が出てくるので『鹿沼聞書・下野神名帳』は,1800年前後の成立と,まず考えた。

■鹿沼聞書の神主と下野国誌記載の神主が同一と推定できる例。

鹿沼聞書 河内郡「黒羽山大権現」今里 手塚伊豆(黒羽は出典のママ,羽黒山だろう)
国誌3-p39 河内郡「羽黒権現」手塚伊豆
国誌に「神主手塚伊豆と云,麓の小倉村に居住す」とあり聞書では下小倉稲荷大明神と上小倉小室大明神,中小倉高尾神社の神主も手塚伊豆と記録されている。

鹿沼聞書 都賀郡「鹿島大明神」入粟野 斎藤壱岐
国誌3-p35 「尾鑿大権現」斎藤壱岐

鹿沼聞書 梁田郡「八幡」八幡 県因幡
国誌4-p12 梁田郡八幡村「八幡郷八幡宮」縣因幡

鹿沼聞書 足利郡「八幡宮」樺崎 長丹波
国誌4-p12 足利郡樺崎村「樺崎八幡宮」長丹波

鹿沼聞書 安蘇郡「正一位浅田大明神」長門 高橋山城
国誌4-p12 安蘇郡馬門村「浅田明神」高橋山城

■つぎは鹿沼聞書の時代から下野国誌の時代までに親族で神主が交代したと推測できる例。このあたりも子孫をお訪ねすればさらに絞り込めるかもしれない。未検証。

鹿沼聞書 芳賀郡「正八幡大神宮」野沢神大夫
国誌4-p5 芳賀郡「長沼八幡宮」野澤和泉

鹿沼聞書 塩谷郡「黒谷木幡日光大明神」木幡 高塩亘
国誌4-p7 塩谷郡「木幡大明神」高塩織部

鹿沼聞書 芳賀郡「正一位八幡宮」中村 中里求馬
国誌4-p3 芳賀郡「中村八幡宮」中里志摩

鹿沼聞書 安蘇郡「正一位赤城大明神」植野 早乙女豊前
国誌4-p12 安蘇郡植野村「赤城明神」五月女連

鹿沼聞書 安蘇郡「星宮大明神」天明 神保伊予
国誌4-p10 安蘇郡天明駅「星宮明神」神保出羽

鹿沼聞書 安蘇郡「正一位鷲宮大明神」犬伏 戸ケ崎左門
国誌4-p10 安蘇郡犬伏駅「鷲明神」戸賀崎河内

■資料■

上の写真は昭和五十四年1979三月建立の「久我神社沿革碑」裏面の「神職一覧」
抜き出すと:
享保二十一年1736一月 神道裁許状 吉村出羽守宗宣
延享三年 1746一月  同 吉村出羽守藤原峯次
宝暦十年 1760一月  同 吉村大和守藤原宗爲
寛政十年 1798十二月 同 吉村出羽正藤原宗愛
天保十一年1840四月  同 吉村出羽正藤原宗義
明治六年 1873 久我神社祠掌 湯沢義原 
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吉村出羽守は世襲で重複するが,聞書記載の吉村大和は一人だけである。1760年1月から1798年12月の期間神主であったので,聞書はこの間に情報を集めている。注意しないといけないのは,集めているだけで,下野の神社のすべての情報を集め終えていたわけではないことである。
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■もう一冊の下野神名帳を読む機会があって『鹿沼聞書・下野神名帳』成立年はもう少し後ではないかと推定する。
『下野掌覧』万延元年1860庚申秋八月発行 著述兼書画雲齋菅原壹直
版木版の出版で,奥付があるため発行年がはっきり分かっている。『下野國誌』より10年後の出版である。「坤之巻」に360社が記録されている。
「祭主神主ノ部ノミ載テ寺院村持ノ部ハ載ズ」と別当がお寺の社は収録していない。
この本の高お神社を調べていると今市に鎮座する高男神社の神主名が目に留まった。他の収録神社の祭主は「祭主手塚氏ナリ」のように苗字のみが記録されているが,高男大明神2社に限って幸いなことに名のみが載っている。なんと『鹿沼聞書』もこの2社は名のみで収録されている。また99%は「祭主」で「社主」は6社のみ。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』
都賀郡,高男大明神,苅沼,仲右衛門
河内郡,高男大明神,苅沢,源五右衛門
*『下野掌覧』万延元年1860刊
都賀郡之部 高男大明神 苅沼村鎮座 祭主仲右エ門
河内郡之部 高男大明神 苅沢村鎮座 社主源右エ門
仲右衛門は同一。源五右衛門と源右エ門もあるいは同一人物ではないか。
高お神社のほかにつぎの4社の神主が名のみで記録された。同一人ではなかろうか。善左衛門が善右エ門と右左が異なり,源五右衛門と源右エ門で五のあるなしが異なる二名のほか,大と太の異なる板長大夫と板長太夫,仲之進は同一人に違いない。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』
都賀郡 女体三社権現 塩山 板長大夫
都賀郡 正一位 星宮大明神 楡木 仲之進
河内郡 星宮大明神 上川島 善左衛門
河内郡 高男大明神 苅沢 源五右衛門
*『下野掌覧』万延元年1860刊
都賀郡 女體三社神社 鹽山村鎮座 祭主板長太夫
都賀郡 正一位 星宮大明神 楡木村鎮座 祭主仲之進
河内郡 星宮大明神 上川嶌村鎮座 社主善右エ門
河内郡 高男大明神 苅沢村鎮座 社主源右エ門
すると『鹿沼聞書・下野神名帳』に30歳で記録されると,60年後の『下野掌覧』では90歳になっている。仲右衛門さんの没年が分かればはっきりするのだが,70歳くらいまで神主だったとすると,『鹿沼聞書』の成立は1820年前後になる。もちろん世襲による同一名の可能性もあるし,『下野掌覧』が『鹿沼聞書』の一部を引き写した可能性も否定できないので,もう少し調査が必要だが。
とりあえずの結論として『鹿沼聞書・下野神名帳』の成立年は「1810-20年」頃となる。
下野の神社古記録は:
1810-20年『鹿沼聞書・下野神名帳』
1850年刊『下野國誌』
1860年刊『下野掌覧』
1902-03年刊『下野神社沿革誌』

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