福島県の意加美神社
「おかみ」関係で判明しているのは5社。現地調査済み。
意加美神社 南会津郡下郷町大字小沼崎字家ノ平乙1465番
意加美神社 南会津郡南会津町関本字龍神下267番(不明)
於加美神社 南会津郡南会津町片貝字船久保甲55番
於加美神社 南会津郡南会津町0番木伏字上ノ山157階
高尾神社  大沼郡三島町大石田・上居平406

意加美神社

[おかみ神社]

下郷町・大字小沼崎字家ノ平乙1465番

使用文字[意加美]

会津西街道を会津に向かい,塔の岪hetsuriを越えて右手にそれる。大沼ダムの北,阿賀川ぞいの山の東に。
鳥居左手に石塔三体。「寛延二?1745 九月廿三日 廿三夜供養塔」「享保五歳1720」「明治二十四1891」と読める。
石段登り口右手の石燈籠には「文政九年」1826
石段上右手の石塔には「貞享二丑三月十八日」1685とかなり古い。
芳賀伊賀守高継を祖先とし,天正18年から開拓してきた沼尾の地は大川ダム建設に伴い集落全域が水没離散の憂き目に遭う。十八戸のうち十戸が家の平に移住を完了したのが昭和51年8月12戸であった。残る八戸は会津若松に分散移住となる。
この間の苦渋の決断と墳墓の地を科なく追われる悲憤は神社右手の「移住記念碑」に刻み込まれている。
「芳賀伊賀守碑」の右に「五輪塔」が置かれている。その右の「五輪塔由来碑」には,昭和56年に栃木県真岡市京泉町の大塚氏より寄贈された,先祖芳賀伊賀守高継の子孫の五輪塔である旨が刻まれている。栃木県芳賀郡に築城した清原高澄が芳賀氏を名乗る。芳賀氏は宇都宮氏の重臣にもなっている。栃木県とは関係が深い。
由来碑には「新沼尾部落家ノ平意加美神社境内地に移転安置」とあり,文字は「意加美神社」である。
鳥居額 拝殿額
六角龜腹
貞享二年1685
寛延元年1748廿三夜供養塔
五輪塔由来碑
五輪塔由来碑
明治二十四年1891 移住記念碑 農地造成完工記念碑

関本龍神下

関本字龍神下267番

帰りに「意加美神社」があるという関本をさがしたが,龍神下という地名は残っているが神社は発見できなかった。郵便局の方に地図まで出してもらって調べていただいたが見つからず。しかし,すぐそばに土地の人のいう「関本神社」があり,社殿が5社集まっているので,このうちのどれかが「意加美神社」の可能性がある。天明二年(1855)鎮座の「八龍神社」があやしい。
ご存じの方ぜひご教示ください。
さて,片貝・木伏から桧枝岐・尾瀬を抜け352号線を西に100km行くと,新潟県魚沼市に出る。魚沼の南,十日町中条瀬戸には「高龗神社」,そこから西の高柳には「高尾神社」がある。
瀬戸の方は雨冠つきの龍で,音読みにして「こうりゅう」である。蓬平は雨も口もない龍で商売繁昌の神様なので無関係だろう。

 

 神社目次へ 
 ページトップ