栃木県の高龗神社分布



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鬼怒川と黒川に挟まれた地域を二つの大河川の内側という意味で河内と言った。その真ん中を今市に端を発する田川が貫流する。
県央の鬼怒川と水戸に至る那珂川の間を五行川が南流する。
中禅寺湖の豊富な水は華厳の滝を流れ落ち大谷川となって今市を抜け,鬼怒川に注ぎ込む。
日光から今市を抜け,宇都宮の中心部をぬけて小山の南,茨城県域で鬼怒川に合流する全長84.6kmの田川は暴れ川といわれ,昭和22年に至っても大洪水を引き起こし11人の死者を出している。
鬼怒川温泉の北方,現在の五十里ダムのあたりは江戸から50里の山峡にある。天和三年1683の日光大地震で出現した古五十里湖は40年を経て享保八年1723に一挙に決壊し,五十里海嘯と呼ばれる河川による大津波を引き起こし,小山市のあたりまで鬼怒川流域に甚大な被害を及ぼした。
下の地図で分かるようにこれらの河川域は江戸の巨大な食糧をまかなう関東平野の一大米作地である。川が暴れるかわりに肥沃な大地を構成し,稲作に必要な水を無限に提供する。田川の用水堰は60を数え,宝暦五年1755二宮尊徳による取水工事で引かれた宝木用水は明治10年には江曽島付近まで延長され,現在は新川と呼ばれ,桜の名所として親しまれている。
上図の赤丸が高龗神社所在地。高龗神を祭神とする龍神社も緑色で収録した。雨水を司る高龗神は祈雨祈晴の対象として祀られる。栃木県を南北に貫流する一級河川流域に高龗神社が集中する理由は稲作にある。稲倉魂命の稲荷神社でもよかったが,洪水・旱魃に対処するには高龗神が必然であった。雨に祝祷の口みっつ,雷雲に似あう龍字の組み合わせである。旱魃・大雨のたびごとに流域に高龗神が伝播していって江戸を養う関東平野の稲作地帯に高龗神社が集中したのである。
京都貴船の明神大社祭神を勧請した際には『日本書紀』の表記が伝わったのだろう。高龗は250年ほど前の古記録によって,すでに[たかお]と呼び習わされていたことが分かる。古事記ふう表記で記録されている社名もあることから,[たかおかみ]の呼称もまた生きていたことが分かる。その後,維新の神仏分離でほぼすべてが高龗神社に社号が統一され,現在の呼び習わしは[たかおじんじゃ]で定着した。

もちろん八幡宮,星宮,八坂,稲荷,愛宕など栃木県内多数派の神社とともに古墳の分布と重なってくる。栃木県を大きく二分した那珂川上流の那須国にはいまのところ高龗神社は見つからない。下毛野国の地に高龗神社は集中する。温泉,温泉神社が集中する那須郡と河内・芳賀郡は異なる文化圏を形成しているのである。
県南西部の足利,佐野あたりの平野部にも高龗神社は見つからない。
那珂川と荒川の合流する地域の南部と五行川の東部の間もまた高龗神社のメッカである。宇都宮と水戸を結ぶ水戸街道沿いの南北の地域である。
街道から見れば江戸と日光を結ぶ国道4号線,東京街道と言われるようなって久しい日光道中本街道,杉並木で有名な日光街道・国道119号線周辺に高龗神社は集中する。小山喜沢から壬生を抜け鹿沼の例幣使街道につながる壬生通り,日光脇街道沿いには高龗神は伝播しなかったことが分かる。
『下野神社沿革誌』 を見ても神社の創立年はなかなか本当のところは分からない。高龗神社に限っては奈良時代710〜794の創立もあるだろうが,奉納された石燈籠,鳥居に江戸期以前の銘を見つけることはできなかったことから,東照宮に家康が改葬された元和三年1617ころから後の創立が多いのではないかと推定する。山王神道の連中も伝播に手を貸したかもしれない。日光では寛永十三年1636に社殿の本格的な大造営が開始される。宮大工,彫刻家も弟子を引き攣れ相当数が日光に向かう。下野国は道々彼らの食糧も賄わなくてはならなかった。 ひどく苦しまされたのではなかろうか。苦しまされれば神頼みしかない。彫刻家もサービスに龍くらい彫ってくれたかもしれないがロマンの範疇を出ない。

 

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