高龗神社

[たかお神社]

宇都宮市・宮山田386

使用文字:[靇]

主祭神:多加於迦美命

旧地名:河内郡上河内村宮山田386 上河内町宮山田386
主祭神:多加於迦美命[たかおかみのみこと]
祭神名は『栃木県神社誌』旧版1964年版では『古事記』ふうにきちんと記載されている。*『下野神社沿革誌』の祭神表記と同じである。
ところが2006年新版では,なんと「迦美」を削られて「多迦於神」になってしまった。「たかおかみの神」はついに「たかお神」にされてしまったのである。
これは宮山田の2240にあるもう一社も同じ宮司さんによって同様の扱いを受けている。ただし宮山田2240では旧版で「高龗神命」と神命がたぶっている。神=迦美なのではないかという救いが残っている。
羽黒山のすぐ西。小高い丘に鎮座。
高雨+龍の立て札が入口に。
天保十三1842の鳥居と石塔。
拝殿右手にも高雨+龍の立て札。
拝殿内に文字は一切なし。
下方に山あいの田が見下ろせる。
鳥居をくぐったところに広場があり,木製のベンチが中心を囲むように設置され,整備が行き届いている。
ここの参道は枕木かもしれない。
「享保五庚天1720・月念佛供養・八月十六日」石像。
ひらがなで「きしん」と彫られた「十??供?」像。
年代不詳「聖徳太子」「庚申塔」など5体が鳥居下左手に並ぶ。

『栃木県神社誌』旧版に「永正十一年1514夏大旱魃にて水田及び井水に至る迄悉く枯れ,五穀は凋渇死せんとす。此ノ時神祇副使伊予守 藤原基定 本村水田ノ一隅の丘陵なる清浄なる地に高龗神を奉招して祈雨を乞うこと三昼夜遂に時雨頻りに降り五穀も爲に蘇生し,神の御稜威の著しきを人皆感じ,同年十一月を以て社殿を創立」とあり,まさに「たかおかみの神」の神威が描かれている。『下野神社沿革誌』の記述と同じである。
現在の社殿は寛政元1789年十月に再建したもの。
本殿:流造木羽葺 拝殿:入母屋造トタン葺 例祭:11月15日(旧暦)
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
河内郡,高尾大明神,宮山田,小林左近
*『下野掌覧』万延元年1860刊
河内郡之部 高尾大明神 宮山田村鎮座 祭主小林氏ナリ
*『下野神社沿革史』5巻18丁(明治35年1902刊)
河内郡羽黑村大字宮山田字神の山鎭座 村社 高龗神社 祭神 多加淤加美 祭日陰曆十一月十五日 建物本社間口四尺奥行五尺栃葺 雨覆間口二間半奥行三間 石鳥居一基 社有財產 田壹反三畝十八歩 氏子七十戸 社掌小林淸一郎同村同大字六十八番地住
本社創建は永正十一年1514十一月にして神祇副使正七位小林伊豫守の勸請なり 因に云ふ永正十一年1514の夏大旱魃にて水田及ひ井水に至るまて悉く干涸して五榖は云ふまてもなく凋枯し蒼生も既に渇死せんとす 此時神祇副使伊豫守藤原基定本村水田一隅の丘陵なる淸浄の地に神籬居へて高龗神を奉招して祈雨を乞ふこと三晝夜遂に時雨頻りに降り五榖も爲に蘇生するに至る 神の御稜威の著しきを人皆感し同年十一月を以て社殿を創立して其恩頼を報賽せしか后本村の鎭守神と崇敬せり 后寛政元年1789本社再建し今の社殿此れなり 社域四百八坪官有神地及ひ五十五坪民有社地にて東は水田を隔てゝ羽黑山に對す 南は一体の田圃にして西に山岳聳ひ北は民屋連る 本社は東に向ひ馬塲に入れは拾餘間の石磴を登りて石の鳥居あり又五十餘間の石階を登れは本社に至る 境内には老杉古檜蓊欝として喬木陰森天日を漏らさす晝尚暗く神寂ひて雅致あり

江戸期には高尾大明神または高龗大明神だったが,維新に際して「高龗神社」と改称した。
本殿 天保と読める 天保十三年1842
左手
見事な根っこ
享保五年1720 聖徳太子 庚申塔

 

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