高龗神社

市貝町・石下248-1 いしおろし

[たかお神社]

使用文字[靇]

主祭神:[高龗神

旧地名:芳賀郡市貝村石下248
主祭神:高龗神,伊弉諾尊,倉稲魂命
123号線,七井の北東,生駒神社のすぐ南。ハナミズキ亭のすぐ北に位置する。
入口は石段だけで,奥の方に木製の鳥居が見える。くぐってさらに進む。
参道は土で野菊がびっしり生えている。もう一度石段を登ると大きな拝殿額に「雨+龍」の文字。
拝殿内中央にも「雨+龍」
さらにその左手に「熊野大権現・高龗大明神・稲荷大明神」と併記した額があり,本殿にはどうやら3社並んでいるようだ。
維新の神仏分離で高龗大明神から高龗神社に改号したが,神道指令で国家統制から自由になって大明神額を復活させたのだろう。*聞書の高尾は音を尾にあてて記録した。250年以上前から[タカオ]と呼ばれていたことが分かる。
文字の確認できる石塔の類はない。
境内社に素戔嗚命の八坂神社,大国主神の大杉神社。
参道を1.5mの黒い蛇が横断していく。

由緒沿革に面白いことが書き残されている。
後冷泉天皇の頃,奥州の安倍貞任と宗任が乱を起こす。常陸の国の清原頼重が奥州討伐に加勢し,芳賀の小宅郷内山野に陣を張り,翌朝出陣しようという夜の丑の刻「天鳴り星精天降りて,輝くこと夥しく見えし後,三石あり」どうやら隕石が落ちてきたようだ。康平五年1062八月十八日のことである。
そこで頼重は「五百筒磐石というも歴然の証なり,石精天下り給えばこの地を石下村と称えよ」と命ずる。急遽3つの石それぞれに仮の祠を造って怨敵降伏を祈願する。勧請したのが「高龗大明神・熊野大権現・稲荷大明神」であった。
『日本書紀』で十掴剣で斬り殺された軻遇突智のほとばしる血が染めたのが天安河,天八十河にあった五百筒磐石。闇龗や高龗,磐裂,根裂神,雷神が生まれてくる箇所の記述である。
空から落ちてきた石を五百筒磐石に見立て,高龗神に結びつけることのできた,とびきりの知識人が同行していたことになる。
1062年頃には『日本書紀』を読むことができた,あるいは関東の田舎でも神生みの神話が流布していたということか。
本殿:神明造板葺 幣殿:流造銅板葺 拝殿:流造銅板葺 例祭:10月第4日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡,高尾大明神,石下村,神宮寺
**『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)6巻38丁
芳賀郡市羽村大字石下字前鎭座 村社 高龗神社
祭神 高龗神 建物本社二間四方 拝殿間口三間奥行二間 華表一基 氏子三十一戸・総代員 社掌
本社創立は康平五年1062八月十八日にして嘉永七年1854八月九日の再建なり社域六百四十八坪大字の稍々中央にして古樹亭々と高く聳ひ優雅にして淸洒の地に在り

口なし雨龍
拝殿内も雨龍

 

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