高龗神社

[たかお神社]

日光市・瀬尾3115 せのお

使用文字[雨+龍]

主祭神:高龗神

『栃木県神社誌』の祭神表記は高龗命(たかおかみのみこと)
旧:今市市瀬尾
小百楢原の大島さんに連れられて氏子の手塚さん宅へ向かう。何度か探しにきた等泉寺の近くだ。そば店のうかの店の隣りではないか。お宅から高百公民館を右に見てカーブにそって坂の頂上に駐車。山道を登って行くと鳥居が見えてきた。
見渡す限りすべて緑のとても静かな高地。気持ちの良いところだ。
本殿を収める社殿は銅板葺,風通しのよい構造。床が石板で葺いてある頑丈なつくり。すっきりした神社である。
銅製らしい拝殿額は「高雨+龍大明神」
背後の杉林は昭和24年12月26日の今市大地震の後に整備したという。今市地震で被害に遭った鳥居は鉄帯で補修されている。
「宝暦八戊寅 十一月十五日建」1758の鳥居
「寛政二戌二月 神主八木沢」1790の不動明王
「享和二戌歳十一月吉日」1802の石祠
「奉獻 御廣前 村中 文政六未年 正月吉X 世話人 手塚助左エ門 北山庄右エ門」1823の手水石
「昭和二年正月廿三日」1927の石燈籠
『栃木県神社誌』の記述では,「2月の第2日曜には山の神講があり,各戸が年番でばんだい餅をつくる。
庚申祭は春秋2回,二軒が当番で行なっている。
八朔の風祭はお千度参りといい,鎮守社の周囲を六根清浄を唱えながら千回廻り,その後でお神酒とお供えをいただく。」
案内してくださった手塚さんのお話では,千回は廻らないが平成の現在でも毎年風祭(かぜまつり)を行っているとのこと。時計回りに廻るそうだ。
山の神講(ヤマノカミコと発音なさっている)では本来は山に登るのだが,高龗神社を借りて捧げ物をしている。その場所が拝殿左手の不動明王の石垣になっている。「ばんだい餅」はモチ米ではなくふつうの米でつくるモチのことだそうで,さっぱりしてたいそうおいしいとのこと。
(旧『栃木県神社誌』には「瀬尾315」と3桁で載っている。新版では4桁で「瀬尾3115」こちらが正しい)
ここが『栃木県神社誌』『全国神社名鑑』に掲載されている栃木県内の高龗神社,高雄神社,高尾神社,高男神社探訪調査の最後になりました。
手塚さんと大島さんに感謝。
本殿:流造木羽葺 例祭:1月23日
正式な参道は鳥居の左手に続く 250年前の鳥居 青銅の額
見事な本殿 色使いと造形に注目 石組みの床
ここから山を拝す おもしろい狛犬
空気が引き締まっている 186年前の手水石 手前昭和2年の燈籠
年代不明 森も手入れが行き届いている
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瀬川

高龗神社

[たかお神社]

日光市・瀬川301 せがわ

使用文字[龗・罒・靇]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
旧地名:今市市瀬川301
杉並木公園の東のはずれ,車の通る方でなく江戸時代に往来した旧日光街道杉並木に鎮座。
杉並木に沿って流れる清流のすぐ脇に背中に「元文四未天1739四月日・寒念佛供養所・上瀬川村同行x人」の文字が読める不動尊。
「嘉永七年甲寅1854八月吉日」石燈籠。
拝殿左手に境内社がずらり。「享保十六年亥1731季秋吉日」「宝暦六天1756」御神燈。
拝殿額は「雨+罒+龍」
拝殿東の屋根下の大正四年の額は「雨+龍」
昭和五年の額は「雨+罒+龍」
拝殿廊下に杉板の由来書がある。このあたりでは最古の神護景雲元年767創立とある。ここには正式な口3つ付きで高龗神社。
祭神「高龗神」にルビがふってあり[たかおかみのカミ]ではなく[たかおカミ]となっている。( )内には高淤加美神とあるので,ルビ振りのミス。
さて,由来書にある今市の同名の社15とは?
「小百・根室・薄井沢・大室・沢又・芹沼・大桑・川室・轟・水無・沓掛・嘉多蔵・瀬尾2・荊沢・針貝」+ここ瀬川で17社。「高雄」「高男」が含まれる。ここから2社を引いて15。(今市imaichi市は日光市に統合されました)
境内社に天照大神の皇大神宮,素戔嗚命の八坂神社。
本殿:流造木羽葺 例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大明神 瀬川
*『下野掌覧』万延元年1860刊
都賀郡之部 高尾神社 瀬川村鎮座 祭主手塚氏ナリ
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)3巻-12丁
上都賀郡今市町大字瀨川鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口一間奥行九尺 氏子五十戸
本社は神護景雲元年767の創立にして后再建の年月詳かならす 社域五百六十二坪字山の上の高燥の地に在り

江戸期の『鹿沼聞書』では「高尾大明神」,維新前の『下野掌覧』では「高尾神社」で,維新に際し「尾」字をやめ『日本書紀』表記をとって「高龗神社」と改称した。
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針貝

高龗神社

[たかお神社]

日光市・針貝1054 はりがい

使用文字[靇]

主祭神:大山祇命
旧地名:今市市針貝1054
荊沢から大谷川ぞいに東へ1.5km。田の脇に駐車して,神社入口らしき丸太の階段を登ってみる。まだか?と思うくらい登っていくと小さな社が鎮座。
「寛政二1790」御神燈。「安永三甲午天1774」石祠がある。しかし,ここは下の農家の方に聞いてみると「お天のさん」と呼んでいるとのこと。八坂神社かもしれない。
高龗神社はこの山の麓150m先にあった。整備の行き届いた立派な神社である。
拝殿額は雨+龍。
「享保十六亥天1731」御神燈。
「安政五戊午1858」の崩れかけた石塔。
「磯部太神宮」の石。
鳥居は大正九年。
境内社に稲荷神社(倉稲魂命),雷神社(別雷神),天満宮(菅原道真),水神社(水象女神)
本殿は明治17年11月7日に改築,針貝と町谷の共有地を境内地とし,針貝1075から遷宮した。拝殿を大正11年8月10日に改築している。
本殿:神明造木羽葺 幣殿:銅葺 拝殿:入母屋造亜鉛葺 例祭:11月19日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大明神 針谷 村民
針貝は古くは針谷とも書いた。針ケ谷もあるが記述の順番からこちら。
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-29丁
河内郡大澤村大字針貝字鎭守森鎭座 村社 高龗神社 祭神 大山祇命 建物本社間口六尺奥行五尺 末社五社 氏子二十九戸
本社創立年月詳ならす 社域八百四十坪を有す

享保十六亥天1731 大正九年1920鳥居
安政五年1858石燈籠 安政五年1858 左:磯部大神宮 右:明治十八年
針貝のお天のさん 嘉永二年1849石燈籠脇を登る
背後に安永三年1774石祠 寛政二年1790石燈籠 この山の頂上に鎮座
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荊沢

高龗神社

[たかお神社]

日光市・荊沢388 おとろざわ

使用文字[靇]

主祭神:大山祇命 *沿革誌では祭神を高龗神と記録している。
旧地名:今市市荊沢388
今市工業高校の北,大谷川の側の山の中にある。ここは見つけにくい。車幅分しかない道に迷い込んで偶然のように森の奥に鳥居を見つける。鬱蒼とした杉林の中,玉石で築かれた石垣の長い参道を行くと,明るい境内が広がる。下の方に田の水が光る。
拝殿額は達筆で雨龍。
明治維新の神仏分離以前は「高龗大明神」と称していた。
社殿が東南に向いているので,お参りすると自然に大谷川を越えて遥か向こうに男体山を拝する形になる。拝殿に葵の紋。
「元文四未天1739」の不動尊。
「寛延四未x1751」の御神燈。
「宝暦五乙亥1755十一月・三寶大荒神」石塔。
境内社に大山祇命の山神社,倉稲魂命の稲荷神社。
小鳥の声しか聞こえない。
下の農家の方に「たかおサン」と呼んでいると教えてもらう。
本殿:流覆屋造亜鉛葺 幣殿:亜鉛葺 拝殿:入母屋造亜鉛葺 例祭:11月18日
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-28丁
河内郡大澤村大字荊澤鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口四尺五寸奥行三尺七寸 末社三社 氏子二十五戸
本社創立年月詳ならす 社域三千五百九十坪を有す

この石段を見つけるまでがたいへん 静かな参道 右手に社務所
拝殿額 口なし雨+龍
享保十七年1732 口と鼻腔に着色
石塔・石像群
広大な森に
広大な境内 石垣
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水無

高龗神社

[たかお神社]

日光市・水無507 みずなし

使用文字[罒]

主祭神:大山祇命 *沿革誌では祭神を高龗神と記録している。
旧地名:今市市水無507
蕎麦のおいしい「水無湧水庵」の手前を斜めに上る。このまま行ったら戻れるのか不安になる未舗装の山道。
こんなところに,と思うが,杉木立の右手の奥に鳥居が。
帰りに気づいたが,日光杉並木から入るとすぐである。
近づくと立派な神社。鳥居脇に桜の巨木。鳥居から50m南に水無湧水が湧き出す。
昭和十年の石柱に「村社高龗神社」「雨+ 罒 +龍」
明治四十五年三月の石燈籠。
昭和四年の見事な手水石。狛犬も昭和四年十二月十五日建立。
拝殿の額は文字はほぼ完全に消えていて,龍の右半分だけが残っている。止めは「テ」
境内社に愛宕神社(軻遇突智命),八坂神社(素戔嗚命),稲荷神社(倉稲魂命)
本殿:流造銅葺 幣殿:切妻造亜鉛葺 拝殿:流造銅板葺 例祭:12月10日
湧水庵の東の山道を登ると朱色の鳥居があり,石祠が祀られている。古い石燈籠3基。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大明神 水無 村民
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)5巻-28丁
河内郡大澤村大字水無鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口四尺一寸奥行三尺七寸 末社一社 氏子二十三戸
本社は字西原に鎭し社域六百二坪に在り

昭和四年1929社号標
拝殿額は読めない
白の下地がはがれたようだ 昭和四年1929手水石 昭和四年1929
隣接の神社 寛政三年1791
享保八年1723 享和元年1801
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沓掛

高龗神社

[たかお神社]

日光市・沓掛573 くつかけ

使用文字[靇・雄]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
旧地名:今市市沓掛573
嘉多蔵の東北1.2km,篠井から行けば沓掛の桜を左に見て300m右手。
田んぼの奥に神社らしい森。
「天保十三壬寅年五月吉」1842までくっきり残っている鳥居の下に小川が流れ,田が広がる。
社号標が見つからず。拝殿内に「高雨+龍神社氏子中」の紙が見える。
朱塗りの本殿には真新しい金文字で「奉勸遷高雄大權現」
*聞書は高尾大明神。*沿革誌は神仏分離で改称した高龗神社なので雄と大権現はいかがなものか。
文化二乙丑天十一月十六日1805の石塔。
寛政十二年1800の二十三夜塔。
萬延元年三月吉日庚申塔。1860
文化二乙丑天四月吉日1805の庚申塔など6体が右手に整然とならぶ。
左手奥には境内社10社が一直線にならぶ。
きちんと整備された気持ちのいい社である。
高「雄」だけ調べ直して欲しい。氏子さんは と書いているのだから。
大永年間1521-28の創立。現在の本殿は明和九年頃1722の建築。最近では平成九年に社殿の改築,塗装を行っている。
本殿:流造銅葺 幣殿:銅葺 拝殿:銅葺 例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大明神 沓掛 覚性院
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-24丁
河内郡篠井村大字沓掛鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口四尺九寸奥行一間二尺 拜殿間口四間奥行一間半 末社三社 氏子十九戸
本社創建年月詳ならす 社域二千四十六坪を有す

二の鳥居 氏子は高龗神社 本殿額は高雄
整備されている 文化二年1805 寛政十二年1800
万延元年1860 文化二年1805
鳥居の向こうは田園
天保十三1842の一の鳥居柱
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嘉多蔵

高龗神社

[たかお神社]

日光市・嘉多蔵485 かたくら

使用文字[龗]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
旧地名:今市市嘉多蔵485
沢又の南東1.3km,篠井から行けば沓掛の桜を越えてすぐ左に入る。
この町は盆地になっていて,直径500mほどの円周に道路がある。円内が田畑。
町自体が山に囲まれて孤立している。分譲開発も失敗に終わり,円周の外には家一軒ない。
円周からさらに細い道が何本か山に向かう構造。
南に向かう未舗装の道に梅の古木が見える。その先の森の中に鎮座。遠目ではまず分からない。土地の方にお尋ねして判明した。
杉の森に囲まれ,別世界にいるようだ。小鳥の羽音のほか音無し。古色蒼然たる,という形容が実感できる。
そうとう古い鳥居の先にこじんまりとした社が。小ぶりの額文字は口3つ付き「高龗神社」
感動的ですらある。
本殿は鮮やかな朱塗り。堂々たる造り。
「于時大正四年十一月十三日建立」石燈篭。
「五xx甲?十一月xxx」石塔。五年で甲の年は「天保五年1834」
五年で申なら「明治五年」「弘化五年1848」「天保七年1836」「安永五年1776」「元文五年1740(庚申)」「元禄五年1692」なので栃木では弘化か天保あたりの石塔。
鳥居は「二年十月吉日」は読める。かろうじて戌を認めれば,
「文久二年1862」「享和二年1802」「寛政二年1790」「寛保二年1742」
ニンベンを認めれば「寛保二年1742」というところか。
右手の柱には「奉再建」
古い方の狛犬が不気味な傑作。
本殿:流造トタン葺 幣殿:トタン葺 拝殿:トタン葺 例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大権現 片倉 地蔵院
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-23丁
河内郡篠井村大字嘉多蔵字宮平鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口五尺三寸奥行四尺三寸 拜殿間口四間奥行一間半 末社三社 氏子二十一戸
本社創立年月詳ならす 社域七百二坪を有す
静謐な森
口3つ付きの正字
鮮やかな本殿
すばらしい造形
残念ながら読めない
中央の森に鎮座 神社側から嘉多蔵の町を
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沢又

高龗神社

[たかお神社]

日光市・沢又762 さわまた

使用文字[罒]

主祭神:大巳貴命,少彦名尊
旧地名:今市市沢又762
根室から道なりに3キロ。ここは見つけにくい。インサイト車幅ぎりぎりの細い道をのぼり,うねうねと農道を。森の合間の田畑が見下ろせる気持ちのいいところ。
澤又青年共和會建立の昭和十六年の石柱には「雨+罒+龍」で「村社高龗神社」
鳥居はとても風格がある。
読み取れた文字は「于時延宝四1676○○四月○十九日○○○○」340年以上経つ。『栃木県神社誌』新版では「延宝元年」としているが,小生には「四」に見える。干支の丙辰はほとんど見えないが,辰の5画と6画のハネが見えると思う。いずれにしろ,これは栃木県ではかなり古い貴重な鳥居だ。このあたりでは大室の高龗神社に延宝四年1676鳥居が残っている。
石燈籠に「享保八癸卯天1723四月吉祥日」
この12年後の享保二十年1735六月十五日には正一位高龗大明神を授かっている。
「宝暦十三癸未天1763」石燈籠
「文化元甲子1804六月吉日」石燈籠
癸未から推定して「文政六年1823十月十日」の,屋根に丸囲い金の字のある石塔。
本殿:流造木羽葺 幣殿:トタン葺 拝殿:トタン葺
例祭:11月23日
桜のようだ 正字が刻んである 宝暦十三年1763
享保八年1723
文化元年1804
大字澤又講中
延宝の年号が読める
水田を見下ろす
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根室

高龗神社

[たかお神社]

日光市・根室318 ねむろ

使用文字[龗か?

主祭神:大山祇命,少彦名命 *『下野神社沿革誌』では祭神を高龗神と記録している。
旧地名:今市市根室318
日光街道・山口の信号を右。谷間を走る気持ちのいい道路だ。ほどなく左手に見えてくる。
拝殿の中の額には「正一位高龗大明神」。暗すぎて口3つが確認できないが,なにか痕跡が。
維新の神仏分離で大明神を神社に改称した。神道指令で国家統制から自由になり,大明神を復活させたのだろう。
「慶應二年1866九月吉日・御神燈」
「文久二年1862奉x御神燈」
「奉建立鳥居氏子十七人x内安全子x繁昌如意満?足所?」と小さな文字(下・3段目右写真)が刻んである延享四年1747五月の立派な鳥居。
「明治十四年九月十九日・村内安全・河内郡根室村」の手水石。
裏手のお宅の90になるおばあさんにお話を聞くことができた。
「たかお神社と呼んどる。ほら,道の向こうに杉が残ってるとこは,こっちの続きだった。ここらは村の共有だ。北海道の根室はこのあたりの者が拓いたとこだ」
感謝。
本殿:神明造 例祭:11月19日
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-29丁
河内郡大澤村大字根室鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口三尺六寸奥行四尺 末社四社 氏子二十戸
本社創立年月詳ならす 社域五百二十九坪を有す

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正一位高龗大明神 本殿
延享四年1747
慶応二年1866
大室

高龗神社

[たかお神社]

日光市・大室1619

使用文字[龗・靇]

主祭神:大山祇命 配神:少彦名命,草野姫命
旧地名:今市市大室1619
薄井沢から直線で北へ1.7km,神社への案内看板があるのですぐに見つかる。
参拝客の集まる大きな神社。
「昭和三年十一月十日氏子中」の石柱には正式な口3つ付きで「郷社高龗神社」
鳥居には「延宝四年1676六月九日」,これは県内では元禄のものもなかなか見つからないので貴重品。沢又に同年の鳥居あり。
拝殿の額も正式な口3つ付きで「郷社高龗神社」
この二つ以外はすべて「雨+龍」に省略されてしまった。しかも看板が多いので口なしがとても目立つ。
立派な神社だが,礼器の口なしに統一してしまおうという意識がありあり。
「弘化四年1847大室村中・水盤石」
燈篭に「天保四年1833」「嘉永三1850」など。
奥の院への上り口にある鳥居には「享保十四天1729己酉八月吉日」
由緒には大山祇命・少名彦命・草野姫命を祀り,社名について水の神様「たかおかみの神」に由来している
とある。社名には「たかお」の読みが。ここの文字も口なし。御神水の解説看板には「高雨+龍神は古来,祈雨・止雨の神として・・・高お神より授かり降った雨は大山祇命の御神徳により地中深くに蓄えられ,御神気のこもった水として境内に湧き出」という名文がある。3か所に口3つ付けるだけでさらに霊験あらたかになるのだが。
入り口右手に岐阜県春日村産のさざれ石が祀ってある。
その昔は産土神社と称し,高龗大権現を奉称したのは文化三年丙寅1806正月三十日からという。維新の神仏分離で大権現から神社に改称した。
本殿:流造木羽葺 拝殿:入母屋造銅版葺
例祭:11月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大権現 大室 村民
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-28丁
河内郡大澤村大字大室字大山鎭座 鄕社 高龗神社 祭神 大山祇命・少彦名命 祭日 建物本社間口七尺奥行六尺 拜殿間口五間半奥行二間 末社五社 石華表一基 木鳥居一基 氏子一千四百三十七戸 社司關根友三郎同村同大字住
本社創建遼遠にして詳ならすと雖も文化三年1806正月三十日神位宗源宣旨を以て正一位を授けらる 神職は往古より關根家にて奉仕し衆庶崇敬の社にして明治六年1873六月三日を以て宇都宮縣第二大區九小區大室村外十三ヶ村の鄕社に定められ同十年七月廿一日栃木縣第二大區五小區大室村外三十六ヶ村の鄕社に改定せらる 社域二千百廿四坪字大山の中腹に位し境内には杉檜繁茂し鬱葱として日光を遮り晝尚暗し 又本社より登ること一町の所に奥社あり 古雅にして自ら神寂たる趣を存す

口3つ付き正字 口3つ付き正字 口なし
口なし雨+龍 口なし 口なし
奥乃宮への石段
享保十四年1729鳥居
奥乃宮の鳥居 奥乃宮
入口の延宝四年1676鳥居 見下ろす
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薄井沢

高龗神社

[たかお神社]

日光市・薄井沢535 うすいざわ

使用文字[龗・靇]

主祭神:大山祇命 *沿革誌では祭神は高龗神で記録している。
旧地名:今市市薄井沢388
日光街道・御殿工場入口信号を右。1.5km先を右。
鳥居には「高雨+龍神社」。大正十年十一月十四日氏子某氏寄進の社号標も「村社高雨+龍神社」。ただし,拝殿の昭和9年の奉納額は正式に口3つ付き。さらに年中行事の案内板も正式。
古い石仏がきちんと残されており,造形的にもおもしろいものがある。
「宝暦九年1759六月十二日」「宝暦四1754x月七日・姉○○妃」「文化九年1812・○六夜供養十一月吉日」(養は左右書き)「嘉永五年1852子六月吉日・村講中」(壬子の壬は省かれている)「安政三辰年1856七月一日」(丙辰の丙は省かれている)「萬延元年1860申十一月十五日村中」(庚申の庚は省かれている)の文字が読み取れる。
翼のあるお不動さんのかわいらしい彫刻がある。右手には剣よりは笏に見える棒,左手にはまるめた羂索,踏みつけているよりは乗っているかのような生物は子熊のおもむき。天地40センチほど。不空羂索菩薩。
鳥居の左手に「電燈點火記念・昭和四年十一月三日・薄井澤電燈利用組合」の碑。
「たかおと言ってるよ,もっと大きいのはあっちだよ」と大室を教えていただく。
由緒沿革によれば,安永八年1779の10月創立。宝光院という神宮寺があったが廃寺となり神社境内地とした。
境内社に八坂神社(素戔嗚命),新渡神社(日本武尊),月読神社(月夜見命),稲荷神社(倉稲魂命),水神社(水速女命=罔象女神)
本殿:流造亜鉛葺 幣殿:亜鉛葺 拝殿:流造亜鉛葺 例祭:12月2日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大明神 薄井 村民
*『下野掌覧』万延元年1860刊
都賀郡之部 高尾山大明神 薄井村鎮座 祭主水無氏ナリ
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-29丁
河内郡大澤村大字薄井澤鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口四尺二寸奥行四尺二寸 末社三社 石燈籠一基 氏子二十八戸
本社創勸請月詳ならす 社域六百九十一坪高燥の地に在り

『下野掌覧』では「山」をつけて「高尾山大明神」で,それより60年以上前の『鹿沼聞書』では高尾大明神。いずれが正しいか判断できないが,維新に際して高尾大明神から「高龗神社」に改称した。
高龗神社額 拝殿正面 口みっつ付正字で
口みっつ付正字 こちらは雨+龍
鮮やかな本殿
水神宮
万延元年1860 嘉永二年1849
安政三年1856 昭和四年1929
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猪倉

高龗神社

[たかお神社]

日光市・猪倉2643 いのくら

使用文字[靇]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神
旧地名:今市市猪倉2643
ロマンチック村から北へ鞍掛山トンネルを抜けて最初の信号を文挟方面に左折。
ここからが難しい。左折してすぐの農家で尋ねたが,分からず。
運よく郵便屋さんがバイクで走ってきたので思い出してもらう。「うーん,名前は分からないが神社ありますよ。かなり大きいですよ」といって大まかに教えてくれた。事前調査よりも北側で,こんもりとした森の中。参道右手には音立てて水が流れている。
立派な神社。額文字は雨+龍。
昭和56年11月筆記の縁起には

「天慶3年940御祭神高龗神を奉祭し享保14年1729に正一位を吉田家より受領したと伝えられる。・・・当社は他の高龗神社とは全く異にする御祭神を祀っている。即ち高龗神は正しく菩薩像であり代々泉福寺が祀主であったのである。この由来を案ずるにそもそも平安時代の本地垂迹説による神佛調和の考え方が次第に発展して鎌倉時代には菩薩像を祭神とする神社が建立されたと国史に示されている。従って当社は全くこれに該当するわけである。神社奉祭の起源は天慶年代であってとしても現在の御祭神は鎌倉時代に祀られたことは明白である。・・・元文元年1736には現在の御本殿が造営され・・・」

維新の神仏分離で神仏習合は許されず,高尾大権現から高龗神社に改称させられたが,国家統制を離れて,昭和の末にはっきりさせておこうというわけだ。明快である。『鹿沼聞書』記載の泉福寺は現在も社のすぐ北にある。
『下野神社沿革史』*の創立年は天長となっているが天慶の誤記のようだ。
神社の西側から車で入ったが,鳥居をくぐって北側に抜けられる。「猪倉のヤマザクラ」がそこに鎮座している。となりに文化五歳1808男軆山の文字が見える石燈籠。ゲートボール場があり,おじiさん,おばaさんがお茶を飲んでいたので呼び方をたずねると,子どものころから「たかお」神社と言っているということだ。花の寺「泉福寺」がそこだから5月3日にまたおいで,おまつりやるからな。しゃくなげもきれいだ,と誘われる。
本殿:流造銅葺 幣殿:銅葺 拝殿:流造銅葺
例祭:11月3日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
河内郡 正一位高尾大権現 猪倉 泉福寺
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)5巻-29丁
河内郡大澤村大字猪倉鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神 建物本社間口五尺奥行一間 拜殿間口四間奥行二間 華表一基 氏子百五戸
本社創建は天長三年826十一月にして后享保十四年1729十二月神位宗源正一位を授けらる社域九百九坪を有す
軒下に由緒書 本殿
参道の左右は畑 参道脇の小川
猪倉の山桜 200年前の燈籠
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大桑

高尾神社

日光市・大桑町1166 おおくわ

[たかお神社]

使用文字[尾]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
旧地名:今市市大桑1166
川室から700m先を左に入る。芹沼・轟と「高男」が2社並んだが,ここは尻尾。
拝殿の木彫額は「高尾神社」
鳥居推定年「安永九子年1780九月吉日」
明治の石燈籠が埋もれかかっている。
ここは拝殿右脇の不動尊が最大の見物。
台座(敷石切石垣)に刻まれた文字は「不動尊並石垣奉納 大桑村下組氏子 安政六己未1859十一月 石工梅吉」
身長は150センチ程か。顔が大きい。口をきっちりと結び,細くない目がつり上がっていて強い意志を表現している。背後の長髪の造形が見事。衣は柔らかく表現され,両足は力強く台石を踏みつけている。お決まりの悪鬼は彫られていない。
150年前の江戸末期に日光東照宮の手前で,ひとりの仏師が彫刻家になろうとしていた。
「寳暦四甲戌年1754」石燈籠。
「磯部大神宮御寶燈 明和五戊午年1768」
同じ林に貫の外れた石製鳥居のある不明社がある。
本殿:入母屋造木羽葺 拝殿:入母屋造銅板葺
例祭:12月第2日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大明神 大桑 村民

車の後ろに鳥居
安永九子年1780 高尾神社
台座に安政六年1859不動尊 石工梅吉
一の鳥居の左手にある社 社号不明
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鬼怒川

高尾神社

[たかお神社]

日光市・鬼怒川温泉滝615

使用文字[尾]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ],姫龗神[ひめおかみのかみ]=初登場。
旧地名:藤原町大字瀧字中居615
会津西街道121号線を北上し,右手に鬼怒川観光ホテルを見てすぐ先,道路沿いにしゃれた神社が見える。 バス停に「神社前」とある。
目の前の「ゆたか食堂」で,いわなの塩焼きを食べながらお話をお聞きする。 昭和40年前後にはまだ121号線がなく,神社周辺は山の端で,樹齢数百年の杉の巨木に囲まれていたそうだ。開発によりすべて消滅。
社も建て替えられた新しいもの。鳥居は平成15年10月建立の新品。 拝殿も本殿も青銅葺白壁の立派なつくり。 鳥居額も拝殿学も「高尾神社」,高ははしご高。
左手の赤い屋根の摂社は素戔嗚命の「八坂神社」裏手に古そうな石塔が13並ぶ。
左端が「日月・庚申供養塔・元文五庚申天1740」と読める。その右が安政七年1854
燈籠ではかろうじて寛延1748-51の文字が読み取れる。260年以上の歴史があることになる。
祭神はすぐ西のそば屋さんのおばあさんによると,女神らしいとのこと。なるほど『栃木県神社誌』を見ると御祭神は「姫龗神」と「高龗神」であった。栃木県に姫龗は当社のみ。
ほかに境内社として倉稲魂命の稲荷神社,武甕槌命の鹿島神社。
しっぽの「高尾神社」としては栃木県最北端に位置する。
本殿:流造木羽葺 例祭:11月3日
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)7巻-33丁
鹽谷郡藤原村大字瀧鎭座 村社 高尾神社 祭神 高龗神 建物本社間口三尺八寸奥行二尺三寸 拜殿間口一間半奥行同 氏子三十二戸
本社創立不詳社域九百四坪字中居に在り

神社庁の住所は「日光市滝」になっているが,誤り。旧日光市を探し回ってしまった。もとは「藤原町瀧中居」。市町村合併の嵐で愚か者の為政者により町の名がぐちゃぐちゃにされたのだが,藤原町に徳の高い阿久津恵永子委員らがいらして,地域住民の声をまとめ,「日光市」のうしろに旧地名である「鬼怒川温泉」をつけることに成功し,正式地名は「日光市鬼怒川温泉滝」となったのであった。このあたりの経緯は「第20回日光地区合併協議会」(平成16年11月8日)の会議録
http://www.city.nikko.lg.jp/gappei/pdf/kyougikai/roku-20.pdf
に残されている。鬼怒川に高尾神社を発見することができたのは,この議事録のおかげである。むだな紙の浪費がほとんどの議事録にも,価値の高いものがあることに改めて気づいたことである。さらに,この会議録が自宅のPCで読めるのだ。ネットの威力も再認識することになった)。
八坂神社
社殿裏手 社殿裏手 社殿裏手
社殿裏手 社殿裏手
バス停神社前
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小百

高雄神社

[たかお神社]

日光市・小百532 こびゃく

使用文字[雄]

主祭神:大山祇命
旧地名:今市市小百532
小百小学校の隣り。
鳥居額が赤字で「高雄大権現」,他に社名を表す文字なし。
雄字の「高雄神社」はめずらしい社号で,栃木県内では8社のみで,旧今市に5社あつまっている。
維新の神仏分離で大権現から神社とした。神道指令で国家統制から自由になり,大権現額に掛け替えたのだろう。沿革誌の高龗社号は積極的に龗字に統一しようとしたか。
「寄進雨鎮守普請記念碑・明治三十一年第五月二十七日」
雨鎮守である。
境内社に倉稲魂神の稲荷神社。
「明和元申天十一月吉日・奉納御寶前」1764の石燈篭。
「寛政七卯年1795」の手水石。
「文化十五寅1818五月十」
「天保十四1843十一月吉日」の石宮。
「弘化四丁未1847二月日」の石塔。
「石裂山・弘化四丁未1847二月吉祥日」
本殿:流造木羽葺 幣殿:タン葺 例祭:11月1日
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-27丁
河内郡豊岡村大字小百字御宮越鎭座 村社 高龗神社 祭神 大山祇命 建物本社間口四尺奥行四尺 末社一社 氏子八十四戸
本社創立年月詳ならす 社域四百六十三坪あり

『角川地名大辞典』には「御宮越の高雄神社」とある。日光市小百532の高雄神社である。『栃木県神社誌』記載の祭神も合っている。高龗から高雄への社名表記変更の例はないが)
高雄大権現
文化十五年1818 弘化四年1847
天保十四年1843 明和元年1764 寄進雨鎮守普請記念碑
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小百

高雄神社

[たかお神社]

日光市・小百1204(楢原)

使用文字[なし]

小百小学校隣りの高雄神社から北西に1.1km,砥川ぞい。
「渓流の館」をめざして,手前400m左手の山中に鎮座。
神社名を示す文字はないが,ここには「一字一石塔」がある。
般若心経のような経文を紙に書けば写経。これを小石ひとつに一文字ずつ書いたものを「一字一石経」といい,地中に埋経する。その上に由来を刻んで「一字一石塔」を建てる。

文字を読み取ると「元禄七年甲戌年1694七月十五日」は県内ではかなり古い。【禄】の字は【示+ヨ+水】と縦に三文字に分解刻字。
「卍奉書冩大乗妙典一部一石一字」「為師檀 報恩也」
「下野都賀郡日光山領奈良原村安全所」「釈氏曹洞沙門荘山墀厳拝書写」,奈良原は現在の楢原。
日光(今市)市教育委員会の立てた2001年の看板に「元禄元年」とあるのは「元禄七年」の誤り。西暦は合っているので看板業者の誤植。
右側面に「施主當村 総領氏大嶋次兵衛重次」「嫡同名甚之焏」
左側面に「施主 大しま 嫡 所左ヱ門同庄右ヱ門同一郎兵衛同忠右ヱ門 伊兵衛重吉嫡庄左ヱ門同与左ヱ門同忠左ヱ門」推定。「しま」は悩んだのだが,どうやら漢字ではなく仮名。
背面に「当処男女不残軽の輩上 依此功徳二世安樂所 関本 石や 弥五右ヱ門」
「石也」もどうやら仮名,すると「の」に見えるのも仮名か?

右の着色された像は明治X三年六月廿一日
左はたぶん安政。
他に「安永三甲午年」「安永三甲午四月吉祥日」1774の石塔。
大島さんに棟札の資料をみせていだだいたが,最古の棟札は「延宝二年1674」の貴重品。
棟札には「高雄大権現」とある。オス字の「高雄」が確認できる資料としてとても貴重なもの。壬生町上稲葉の旧鳥居柱の「高雄大明神御寶前上稲葉村 元禄七甲戌天1694」よりも20年前。

後日,社名の確認のために,近くの大島さん宅をおたずねして,一字一石塔を発掘調査したときのお話をお聞きすることができた。一輪車にのせきれないほど多量の小石が出てきたとのこと。見せていただいた小石に書かれている文字は,300年以上地中にあったことが信じられないほど鮮明である。村の安全と繁栄を祈って文字を書き,地中に埋めた先祖の尊い心が今に息づいている。
「渓流の館」からさらに600m進んで左手の山に「高雄二渡神社」がある。大日如来と不動明王をお祀りしているという。
奥さまが大島さんに連絡をとってくださって,仕事先からお電話で2社のことを教えてくださいました。大島さんの奥さまには神社まで案内していただき,感謝。
砥川ぞいの山に恵まれた緑豊かな環境だけでなく,人情もすばらしいところです。
新しい燈籠がないと見つからない 安永3年
安永3年 うしろは山
竹が生えている 一字一石塔の石垣 一字一石塔
一字一石塔の右の石像 一字一石塔の左側面
古そうだが年号なし 付近の石像
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小百

高雄二渡神社

[たかおにわたり神社]

日光市・小百1451(筒置)

使用文字[雄]

「渓流の館」の先約600m左手の山中に鎮座。
神社名を示す文字はない。「一字一石塔」のある高雄神社をお祀りする一族の氏神様。
今市・轟の方は「高男荷渡神社」と「男」だが,こちらは「雄」。男=雄と考えていいだろう。
栃木県内では「高お・にわたり神社」は2社しかまだ発見できない。とてもめずらしい貴重な社。こちらの鳥居も古そう。杉山の幹に同化していて大島さんに案内してもらわなかったら,とても発見できなかった。
鳥居左手は沢になっている。
登り口の右手に大正十四年の馬力神。となりに安永四1775の合掌石塔。
拝殿左右に狛犬と,対の石燈籠。燈籠には「安永十辛丑天1781 奉納御宮前」の文字が読み取れる。
拝殿左手斜面に5つの境内社。右手に1社。右手斜面の離れたところに石塔と石燈籠が残されている。
大島さんに見せていただいた資料によると,古いもので「元禄十七年1704」の棟札が残っている。
「天明五年1785」までの棟札には「鎮守御宝殿」とあり,「天保十三年1842」に始めて「高雄二渡大権現」が記録され,同年に「高雄大権現」と「二渡大権現」の旗が染められている。昭和には「高雄二渡大神鎮座」の棟札。
楢原の「高雄神社」の氏子が奉祭するので「高雄大権現」が祀られるのは素直に納得できるが,ではそれ以前の「御宝殿」とは何だったのだろう。御宝殿といえば諏訪大社の建築であり,福島いわきの錦町熊野神社の地名である。錦町の場合は宝刀がもとで御宝刀殿で建築をさす。
楢原の高雄神社の方が時代的に先ならば,筒置の方は別殿の意味で「高雄神社の御宝殿」になるかもしれない。もし筒置が先なら「鎮守」である「御宝殿」を思いつくのは諏訪か磐城の出身者かもしれないが,それなら八坂神社や熊野神社を社名とするのではないか,謎は深まるばかりだ。
『栃木県神社誌』には掲載されていない。
山の斜面に鎮座 右は1775年
1781年の石燈籠
左手の境内社 小ぶりの本殿
右手 右手の斜面 鳥居を見下ろす
狛犬の背面
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瀬尾

高雄神社

日光市・瀬尾1056 せのお

[たかお神社]

使用文字[雄]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神 境内社:大山祇神社
旧地名:今市市瀬尾1056
大谷川グリーンパークの北1kmの田園地帯に鎮座。
近くをなんとキジが散歩していた。
陸軍大将男爵奈良武次謹書の拝殿額は「高雄神社」
明治24年9月の石燈籠にも「高雄神社」
「元和元(推定乙の字)年1615・奉寄進石燈籠」。「乙卯」の乙も,そう読めなくもないので元和でいいだろう。江戸初期のもので相当古い。今まで見た高お神社の中で最古の貴重品。
鳥居も古い。推定「延宝四年1676」。「延」が読めない。2文字目が「宝」の年号は他には704大宝まで遡ってしまうので,延宝でいいだろう。左の柱には「奉寄進鳥居同行xx三人造之」
本殿:神明造木羽葺 拝殿:平屋造トタン葺
例祭:11月26日
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)3巻-11丁
上都賀郡今市町大字瀨尾鎭座 村社 高雄神社 祭神 高龗神 建物本社間口一間二尺奥行五尺七寸 雨覆一棟 華表一基 氏子百三戸 社掌平野平造同村同大字住
本社創立年月遼遠にして詳かならす 再建は文化十三年1816四月なり 神主は往古より平野家にて代々奉仕勤續たり 本社は一村の鎭守神にして明治五年1872十二月村社に列せらる 社域二百六十四坪を有し字扇の久保瀟洒の地に在り 境内には古杉老檜亭々と高く神威と共に聳ひ幽邃にして頗る雅致あり

着色と屋根が美しい
着色装飾された本殿
延宝四年1676鳥居 元和元年1615石燈籠
寛延元年1748
明治二十四年1891
男軆山 五重の塔
キジが歩いていた
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川室

高雄神社

[たかお神社]

日光市・川室630 かわむろ

使用文字[雄]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
旧地名:今市市川室630
轟から1km先,左手の山の中にある。
『栃木県神社誌』では雄の高雄神社で掲載されている。
「高雄神社」社号標の右に鳥居があり,右手に水田を見て参道を行き,石段を上る。
あるいは社号標の左手の山道を登る。
驚いたことに5mくらい上ると山腹を小川が流れ落ちている。しかも東西2本も。社号標と右手の奉納鳥居額も「高雄神社」。
山の上の立派な神社である。杉に囲まれていながら,妙に明るい。
境内の鳥居は「寳暦七丁丑天1757三月吉日」
「元文元X1736八月X」「元文二丁巳1737」「嘉永七寅年1854六月」の貴重な石燈籠。
「寛政七乙卯年1795六月吉X」湯殿山男體山石塔。Xはたぶん吉祥日。
「文化八未年1811七月吉祥日」石燈籠。
田んぼ側から上る石段の途中に大正の不動尊。
石に刻まれた大正の文字もすでに読み取れない。
境内社に大山祇命*の山神社,菅原道真公の天満神社。
本殿:流造トタン葺 拝殿:トタン葺 例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大権現 川室
*『下野神社沿革史』5巻-26丁(明治35年1902刊)
河内郡 豊岡村 大字川室新田鎭座 村社 高龗神社 祭神 大山祇命 祭日陰曆十一月十五日 氏子四十六戸総代三員 社掌齋藤牛松同村大字同十六番地住 建物本社間口一間奥行一間栃葺 末社八社 石華表一基
社傳に曰く本社は元祿十五年1702星新左衛門(本村開墾草分と稱)か本村鎭守神として字上原に勸請せしものなり 其時日光神領なり 検地吏山口圖書手代大出傳右衛門下島甚右衛門高澤某縄入の際本社祭免として田畠宅地合反別二反二畝十歩の除地を附せられ維新前は別當文殊院にて奉祀す 社地高丘にして高さ七丈石階二十六階磴り小川あり 神橋を渡り又三十二階陞りて本社に達す 社域五百三十七坪にして中央に本社荘厳末社囲繞し石の華表石燈籠十基左右に並列し東西擴原の中に𥿻(ツクリ㫖で植字kinu)川長蛇の如く廻り西北田甫を隔て黑髪高原の峻峰靄然として天に連り風色絶景實に活畫圖の如し 境内には松杉蓊蔚として茂生し頗る幽邃涼昧掬すへし

*川室新田は昭和12年から川室に。沿革誌では雄ではなく龗で記録されている。祭神も境内社山神社の祭神,大山祇命の方を記録。『栃木県神社誌』の由緒沿革は『下野神社沿革誌』の記述を参照引用したことを明記した上で社号と祭神を修正しているので,沿革誌の単なる記述ミスの可能性あり。
一の鳥居・高雄神社
高雄神社
木製祠が並ぶ
嘉永七年1854 左:男軆山 宝暦七年1757
寛政七年1795 文化八年1811 嘉永七年1854
元文元年1736 元文二年1737 静謐な境内
山頂だがかなり広い
『下野神社沿革誌』記載の石階
高雄神社社号標 北側の水田
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芹沼

高男神社

[たかお神社]

日光市・芹沼1400 せりぬま

使用文字[男]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神
旧地名:今市市芹沼1400
日光街道七本桜を右折して461を行き,しまむらの先左手。
道路沿い入口の平成10年の鳥居額は黒地に金文字で「高男神社」
「男」を使っている「たかお神社」は県内ではあと轟の「高男荷渡神社」のみ。
旗杭に「奉納高男神社」
細い参道をしばらく行くと二の鳥居の柱に「宝永六巳丑天1709十二月吉祥日」「奉造立御宝前」。300年以上の長い歳月,神社の印として立ち続けている。
杉林の中に紅殻屋根に白壁の小じんまりした拝殿が。
天保九戌年1838十二月の石燈籠。昭和21年の狛犬。
拝殿左手に「干時安永四乙未天1775七月七日」の「男體山禅頂供養」石塔。
右手に三対と一基の石燈籠が並ぶ。
貞享四丁1687が最古。栃木県では1600年代は貴重品。
安永四未季1775九月石燈籠には「高男大明神」の文字。
寛政三季亥1791十一月の石燈籠にも「高男大明神」の文字。230年以上前から「男」を使っていることが分かる。*聞書の記録とも一致する。大明神から神社への変更は維新の神仏分離による。(もう一基には「高男神社」とあり,かなり古そうですが年代が不明なので再度確認に参ります)。
本殿の彫刻が見物。
さらに本殿裏の2本の杉がすごい。1本は根元は1つだが,U字形に巨幹が2本になってそびえ立つ。
もう1本も圧倒される巨木。
由緒沿革によれば,慶長二年丁酉1597に山城国貴布禰明神を勧請。元禄年間に現在地に遷座,天保十四年1843に社殿を再建している。
境内社:倉稲魂神の稲荷神社,天照皇大神の神明神社
本殿:流造木羽葺 例祭:10月第三日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高男大明神 苅沼 仲右衛門
河内郡 高男大明神 苅沢 源五右衛門
*『下野掌覧』万延元年1860刊
都賀郡之部 高男大明神 苅沼村鎮座 祭主仲右エ門
河内郡之部 高男大明神 苅沢村鎮座 社主源右エ門

『鹿沼聞書』と『下野掌覧』にはそれぞれ「男」字の「高男大明神」が2社記録されている。
「芹沼[せりぬま]」は『元禄郷帳』注に古くは「芹澤[せりざわ]村」と称すとあるので苅沢[かりざわ]芹沼[せりぬま]の誤記とすれば河内郡が合っているので「苅沢村鎮座」がここ芹沼の高男神社にあたると考えておく。(『鹿沼聞書』は貴重な資料だが,収録されている『栃木県神社誌』昭和39年版は東京で組んだので芳賀の市貝が市見!などと植字してあるのはいい方で,推読しないといけません。「苅刈荊芦芹」が明確に区別して組んであるわけではありません。)
もう一社「都賀郡」に分類された苅沼[かりぬま]芹沼[せりぬま]かもしれない。
河内郡豊岡村轟[とどろく]の高男荷渡神社は都賀郡に記録されているが実際には河内郡である。轟と芹沼が隣接し都賀郡にも隣接する河内郡内なので『鹿沼聞書』の混同の可能性もある。この場合も苅と芹を誤記と考えないと通らないという問題があり,特定が難しい。
「苅沢」に文字が似ている「荊沢[おとろざわ]」は河内郡大沢村に属し「高龗神社」がある。「高男」であった記録は見つからない。
県内に「男」を使った「高男神社」は計3社のみである。
また,ここ高男大明神の『下野掌覧』の社主宮司名は『鹿沼聞書・下野神名帳』の成立時期を推定するのに重要な記録になる。
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)5巻-25丁
河内郡豊岡村大字芹沼鎭座 村社 高男神社 祭神 高龗神 建物本社間口五尺奥行五尺五寸 拜殿雨覆各間口四間奥行三間半 石鳥居一基嘉永六年1853二月氏子奉納 末社五社 石燈籠一基沼尾太左衞門奉納 石燈一基一基渡邊左衛門奉納一基手塚四郎平外一名奉納一基氏子中外二名奉納一基渡邊六左衛門外二名奉納 氏子五十一戸・総代三員 社掌阿久津周貞同村大字町谷一番住
本社創建遼遠にして詳ならすと雖も社殿宏壯輪奐として蕭然たり 社域六百一坪平地にして本社南に向ひ馬塲一千四百七尺あり 境内には松杉檜の立木蔚々蒼々として神寂び古雅に富むるの境なり

(ウエスタン村の近く栗原にあった高男神社社務所は,宮司さんの御逝去にともない閉鎖されました。ていねいに応対してくださった奥さまに感謝。祭神は高龗神と大山祇神であるいうことで,「男」と「龗」が始めてつながりました。「栃木県神社庁」HPの神社一覧で地名に「栗原」とあるのは社務所のあったところ。神社はここ芹沼にあります)
華やかな本殿
宝永六年1709 天保九年1838
天保九年1838
安永四年1775
寛政三年1791高男大明神 高男大明神 高男神社・年代不詳
貞享四年1687
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高男荷渡神社

[たかお・にわたり神社]

日光市・轟1239 とどろく

使用文字[男]

主祭神:高龗神,軻遇突智神

主祭神:高龗神[たおかみのかみ],軻遇槌神[かぐつちのかみ]
境内社:倉稲魂神の稲荷神社,大山祇神の山神社
旧地名:今市[いまいち]市轟 河内郡豊岡村大字轟字北川
芹沼から461を行き轟交差点を左折して600m左手。
「たかお・にわたり」神社,一説に[たかおにわたし]神社。あるいは沿革誌の記述のように[たかお神社][にわたり神社]と2社か。聞書は高尾大明神と記録。
入口の明治九年十一月五日の旗杭に「征露凱旋記念奉納・高男荷渡神社御廣前」
鳥居柱には「享保廿一丙辰天1736四月吉日」の文字がくっきりと残っている(『栃木県神社誌』新旧版とも享保20とあるのは誤りで,写真のように干支からみても21である)。
「寛延二己巳天1749九月」の石燈籠。
拝殿左手には「庚申供養塔 申十月日轟村中 寛政十二年1800」を始めとする庚申塔が5基ずらり。
その左は「妙義山 石裂山供養」
さらに「湯殿山 男體山供養 享和二壬戌年1802正月日」石塔。
この隣りの長方形にくりぬかれた石塔が不明。かろうじて「愛宕山」の文字。石像が安置されていたのだろうか。
お隣りのお宅の方のお話では,昭和10年代に火事で全焼して建て直されたとのこと。
『下野神社沿革史』記載のヒノキは残念ながら見つからない。
それでも200年以上前の鳥居が現存している。
東洋の島国の神社という特殊空間を大事にしたい。
「男」を使っている「たかお神社」は県内では他に芹沼に「高男神社」があるのみ。
本殿:流造木羽葺 拝殿:流造銅板葺 例祭:10月最終日曜日
(小百筒置のniwatariは「高雄二渡神社」。「荷渡神社」は栃木県・岩舟町など数社,福島矢祭に1社,山形県に4社。「庭渡神社」は山形県に1社,福島県に13社。他にも表記の異なるniwatariはかなりの数あり)
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 高尾大明神 轟 村民
(河内郡,高男大明神,苅沢,源五右衛門)
(都賀郡,高男大明神,苅沼,仲右衛門)
『鹿沼聞書』には高男が2社記録されている。珍しい地名の轟は都賀郡に分類されているが都賀郡に轟の地名はなかった。河内郡轟である。社号は高尾だが,『鹿沼聞書』では,[たかお]の音をひとつの例外を除いてすべて「高尾」の尾字で記録しているので「男」の可能性が高い。「轟」を根拠として「都賀郡」は「河内郡」と混同した記述と考えておく。
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻-26丁
河内郡豐岡村大字轟鎭座 村社 高男神社荷渡神社 祭神 高龗加美・大山祇命 祭日陰曆九月拾九日 氏子二十八戸総代三員 社掌狐塚小三郎同村同大字十二番地住
社傳に曰く當社は本村開闢の時字古宮の丘陵に勸請せしか中世今の社地に遷座せしむと 因に云ふ本村往古は字古宮の邊に民家五十戸はかり在しを後移転せしものなりと 今其屋敷跡の舊形を存す 本社は巽方に向へり 明治二十三年1890六月の再築にして荘厳美麗の宮殿なり 繞らすに石垣(高さ四尺文政八年1825築立なり)を以てす 社域四百五十五坪にして平地なれども淸潔にて前に北川の淸流あり 東西には里道を控へ北は擴原を経て遙に高原山の高峰を望む 境内には老松古杉檜の空に聳ひ森々として日中尚暗く中にも神木と稱する老檜は頗る大木にして地方稀なる境内なり
享保廿一天1736 高男/荷渡と2行に 寛延二年1749
右:寛政十二年1800 愛宕山と湯殿山・男體山
享和二年1802

 

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