高龗神社
[たかお神社]
上三川町・西木代320 にしきのしろ
使用文字[靇]
主祭神:高龗神
主祭神:高龗神[たかおかみのかみ] 配神:天照皇大神,日本武尊
東汗から北に1.5km行って左折500m。
拝殿の額は残念ながら雨+龍。ハシゴ高。
上三川町教育委員会が立てた昭和58年の「高龗神社古墳」と「天棚」の解説看板はどちらも「雨+龍」。そして「たかお」とルビがふってある。
頂上部が高龗神社,西側中腹が霊符神社としてある。
天明八年1788二月の石燈籠あり。他に古い文字はなし。
古そうな社だが神社名を刻んだ石が一切なく,口があったかどうかはもうわからない。
実は神社本庁の読み方は「たかおおおかみ神社」となっていて期待したのだが,近所の方も「たかおかみ」も「たかおおかみ」も「たかおおおかみ」も聞いたことがない,「たかお神社」ですよ,とのこと。
これで「たかおかみ」と呼ぶ神社は栃木県にはないことになる。
*210年前の鹿沼聞書では[タカオカミ]が生きていて古事記ふうに「高於加美神社」と記録されている。大明神ではなく神社が使われていた珍しい例である。150年前の『下野掌覧』では「大神宮高龗神社」。
由緒沿革によれば,万寿年間1024-28に山城國貴船大明神を勧請して木代総領司守の氏神としたことに始まる。
境内社に羽黒神社,大杉神社,市杵島大神を祭神とする社,霊荷尊大星神を祭神とする社(ともに神社名不明)
本殿:流造木羽葺 拝殿:入母屋造瓦葺 例祭:11月23日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
河内郡 日輪大神宮高於加美神社 西木代 清水甲斐
*『下野掌覧』万延元年1860刊
河内郡之部 大神宮高龗神社 西木代鎮座 祭主清水氏ナリ
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)5巻6丁
河内郡本鄕村大字西木代鎭座 村社 高龗神社
祭神 高龗神 建物本社間口五尺奥行六尺 拜殿間口三間奥行一間四尺 末社六社 氏子二十四戸・総代員 社掌
本社創建年月詳にせす社域八百十四坪あり
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口なし雨龍 |
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天棚の解説板 |
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口なし雨龍 古墳の解説板 |
天明八年 |
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東
高龗神社
[たかお神社]
上三川町東汗1034 ひがしふざかし
使用文字[龗]
主祭神:高龗神
主祭神:高龗神[たかおかみのかみ] 配神:大雷神
西汗から1.5km,富岡橋西交差点を右折,満願寺看板をすぐ左に入る。「汗」一字で「ふざかし」と読む。
アカガシの巨木にまず圧倒される。推定樹齢270年,胸高周囲3.32m。正式な字で「高龗神社のアカガシ」の石柱。ルビが「お」とふってあり「たかお神社」と読ませている。
鳥居額文字も大正八年の「村社高龗神社」社柱文字もくっきりと口みっつ。
ふたつめの鳥居額文字も正式。
右手にこんどは推定280年の「満願寺のイチョウ」これもすごい。さらに右奥には推定540年の「満願寺のカヤ」がそびえる。
拝殿には文字がなかったが「高龗神社々務所」の見事な筆文字もくっきりと口3つ。
ここまで正式な字がそろうと気持ちがいい。
龍の最後の三画,右から左に書く部分が「テ」あるいは「〒」形になっている。栃木県ではよく見かける。
持統天皇のころ690年代に丈部郷の氏神ならびに五穀豊饒の神として丹生川上神社より勧請。
境内社に大杉神社,天満宮,市杵島大神を祭神とする社(神社名不明)
本殿:流造木羽葺 幣殿:トタン葺 拝殿:入母屋造トタン葺 例祭:11月16日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
河内郡 正一位高尾大明神 東汗 竜徳院
*『下野神社沿革史』5巻6丁(明治35年1902刊)
河内郡本鄕村大字東汗鎭座 村社 高龗神社
祭神 高龗神 建物本社間口一間奥行一間二尺 拝殿間口四間奥行二間 氏子七十四戸
本社創立年月詳ならす 社域一千五百八坪字祭田にあり
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口三つ付きの正字 |
社柱も正字 |
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左の拡大 正字 |
正字の龗がくっきりと |
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すべて正字 |
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アカガシ |
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中央が神社 |
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イチョウ |
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カヤ |
カヤ |
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西汗
高龗神社
[たかお神社]
上三川町・西汗722 にしふざかし
使用文字[龗]
主祭神:高龗神
主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
配神:大雷神,日本武尊
環状線121から砂田街道320。左に宇都宮市総合運動公園を見て1km,赤堀交差点を左折。600m道路沿い左側。「汗」一字で「ふざかし」と読む。
明治四十一年九月の石柱「村社高龗神社」正式(写真左)。ハシゴ高。一の鳥居をくぐって遠くにふたつめの鳥居。文政5年1822九月のこの二の鳥居の額は「正一位○○大明神」真ん中が欠けてしまって読めないが,神仏分離で大明神から高龗神社に社号変更して登録したことが分かる。
鹿沼聞書*では「タカオカミ大明神」と呼んでいたことが記録されている。
境内の平成六年の灯籠,御大典記念事業概要石碑(写真中右)ともに,くっきりと口3つ付きの龗字。拝殿の額が「雨+罒+龍」ハシゴ高。ここまで揃うとやはり気持ちがいい。
享保十x(1726-1736)の胎児形の子どもがふたり向かいあっているおもしろい石碑がある。その上に文字があったと思うがまったく見えない。左脇に「xxxxxx行七十x」
やさしげな石仏に「享保三年1718磯新田村x祈・奉唱x十五夜念佛」の文字。そろそろ300年。
「三十三夜供養」表面が欠けている石像,年代が読めない南無阿弥陀佛石碑などが整然と保存されている。
社柱以外は龍の最後の三画,右から左に書く部分が「テ」あるいは「〒」形になっている。平成の文字もそれにならっている。平成の高は口。
持統天皇のころ690年代に丈部郷の氏神ならびに五穀豊饒の神として丹生川上神社より勧請。
境内社に羽黒神社(倉稲魂命),八坂神社(建速素戔嗚命),境外社に愛宕神社(猿田彦大神)
本殿:流造木羽葺 幣殿:銅葺 拝殿:入母屋造銅葺 例祭:11月16日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
河内郡 高於加美大明神 西汗 円重院
*『下野神社沿革史』5巻5丁(明治35年1902刊)
河内郡本鄕村大字西汗字室神鎭座 村社 高龗神社 祭神 高龗神
建物本社間口四尺二寸奥行四尺二寸 拜殿間口二間奥行二間 幣殿杉皮葺 華表一基 末社四社 氏子五十戸・総代員 社掌野澤實教同村同大字住
本社創立年月詳ならす 社域五百九十九坪あり往時は野澤家別當職にて明治維新の際復飾し神職となり奉仕す 境内には老杉古檜空に聳ひ風致愛すへし
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拝殿額 |
左を拡大 口変形の正字 |
社柱 |
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正字 |
一の鳥居 |
二の鳥居 |
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二の鳥居 |
正一位xx大明神 |
きちんと整備されている |
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石燈籠の台座の文字 |
石燈籠の台座の文字 |
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こちらも正字 |
もはや読めない |
左の石塔の下部 |
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八坂神社か? |
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整然と並ぶ石祠 |
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白壁が美しい |
磯岡
高龗神社
[たかお神社]
上三川町・磯岡345 いそおか
使用文字[靇]
主祭神:高龗神
主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
配神:大雷神
JoyfulHondaから新4号を渡ってすぐ左。道路沿いに琴平神社があり,その境内に磯岡公民館と高龗神社社務所がある。しかしここに社殿はなく北側裏へ民家を抜けて300mくらいのところに高龗神社が鎮座する。
鳥居,本殿とも額は雨+龍。その他に古い文字は見当たらない。
土地の方の話では大谷石の鳥居があったが建て替えた,社務所が離れているのは社殿整備の補助の関係があったとのこと。公民館との兼ね合いだろう。
磯岡村はもとはもっと北にあったが,現在地に移ってきた。琴平神社もそちらの岡から移してきた。百歳を越えた物知りのばあさんの話として,岡にあったころは賽銭が牛の背に掛けた左右の袋いっぱいになるほど栄えていたということである。
このあたりで「たかおかみ」と呼んでいる神社はないかとおたずねしたが,上三川に4つあるがぜんぶ「たかお」だよとのことでした。
由緒沿革によれば,天明年間の大水害,100年後の寛政年間の大旱魃に村人恐れ戦き,難を払うために高龗神を勧請したという。
境内社に左から雷神社,大杉神社,八坂神社,稲荷神社,愛宕神社,羽黒神社。琴平神社は表通りに。
本殿:流造木羽葺 拝殿:入母屋造銅葺 例祭:11月14日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
河内郡 高尾大明神 磯新田 自称院
(磯新田は明治六年に磯岡に改称)
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻6丁
河内郡本鄕村大字磯岡鎭座 村社 高龗神社
祭神 高龗神 建物本社間口五尺奥行一間二尺 雨覆一棟 末社二社
本社創立詳ならす 社域百四十九坪ありて氏子数十六戸なり
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口なし雨龍 |
口なし雨龍 |
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境内社が整然と並ぶ |
立木の向こうが琴平神社 |
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表通りの社務所も口なし雨龍 |
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左享保三年 右は明治か明和 |
五社
五社神社
[ごしゃ神社]
上三川町・大山519
配神:[高龗神]
主祭神:天照皇大神 配神:豊受姫命,天太玉命,高龗神,火産霊神
境内社:八坂神社,猿田彦神社,蔦馬神社,大杉神社,疱瘡神社
明治小学校の西隣り。真新しい朱塗りの両部鳥居は平成10年10月。 昭和十五年十二月二十九日の社柱に「五社神社」
すぐ右手に由緒看板があり,「相殿 高龗神」の口なし雨龍文字。ルビは「たかおかみのかみ」と正式な読み方。
由緒看板には,「古くは淤賀山明神と称された」とある。「美」が「山」になっているが「淤賀美明神」である。また伊勢の内宮から勧請したのは天平十九年747でなく,もっとずっと後の正和二年1313で,大山の地名の由来もおかしい。
『下野神社沿革史』には詳細な縁起が書かれている。口伝は訛りやすく古の実際を記録して後世に伝えるため「寛永庚午(七年1630)春,社監三枝部連信麿」が書き残した13行の漢文が引用されている。おおまかには,
「天平十九年747六月に大旱魃に苦しめられていたとき,少年に神が憑依し,我こそは淤賀美神である,我を祀れば泰安となすことで応えよう,というので亀卜によって清地を定め,神祠を立てて祀ったところ霊験があった,これが当社の起元である」。淤賀美神すなわち高龗[たかおかみ]は祈雨祈晴の神で稲作に欠かせない神徳を持つ。「祀った効果があったので官民一致して祠の規模を拡大し,社名を淤賀美明神とし,地名を淤賀美山とした。正和二年1313に多功家朝が天照大神,火産霊大神,豊受大神,天明玉(天太玉命)四神を合祀し,淤賀美神と合わせて五土の神徳が完備した」とある。約400年前の記録である。したがって由来看板の解説は400年前の神主三枝部連信麿の危惧にもかかわらず変質してしまったわけである。
主祭神が天照大神に替えられたのは,おそらく維新の神仏分離の際と推測する。
『下野神社沿革誌』には五所神社で記録されているが,現在は五社神社。
左手に「主馬大神」「馬頭観世音」と祠。 昭和十八年二月の石塔。
拝殿左手に石塔3基,境内社石祠5社がずらりと並ぶ。
読み取れるのは「嘉永三 庚申塔」1850,「昭和八年二月初午」1933の石祠,「安永二癸巳二月朔日」1773の六手観音。
本殿:流造木羽葺 幣殿:銅葺 拝殿:入母屋造銅葺 例祭:11月15日
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)5巻-41丁
河内郡雀宮村大字大山鎭座 村社 五所神社 祭神 天照皇大神・豐受姬命・高龗神・天太玉命・火產靈神 建物本社間口二間半奥行三間 拜殿間口三間奥行二間 神楽殿間口二間半奥行三間 末社五社 華表一基 氏子五十四戸・総代四員 社掌山崎淸十郎同村同大字住
縁起に曰く夫五土神者,能生寓物焉,故以下古有大功者配之乎,共工氏,有子句龍爲后土能平水土,故祀以爲社云,果然,國中神祇者,莫貴於五土神也,伏惟,當明神者,御創立者,實在于天平十九年747六月矣,聖武天皇廿四年,天下大旱百姓大窘乎,一夜神憑於里童曰,我坐于常道,神母山大神之御子,淤賀美神也,須敬祀于我御前,必應爲泰安云々,輙命神龜卜淸地而,立神祠厚饗奠之,果有霊験焉,蓋當社之起元也,於是官民一和,大宏規模盛献祀料而,社名淤賀美明神,地稱淤賀美山,又,憑神勅而,探神族於神母山麓,令預神事,是葭田連,海部連,惠澤連,山前忌寸,石和連,守稲置,河俣連,稻場首之八門,共,三枝部國造同祖,天彦根命之後也,淳和御宇,天長五年828四月,奉授正六位上,九年十月,進従五位下云,後深草御宇,寛治二年1088十月宇都宮宗貞築城當郷,以當社為鎭護神爲,花園御宇正和二年1313多功家朝,奉神託而,合祀天照大神,火産霊大神,豐受大神,天明玉云,爰完備五土之神徳,稜威赫々乎,雖然口傳易訛,於今不言,恐絶可无傳古實歟,敢録而欲爲縁起訖,寛永庚午1630春,社監三枝部連信麿欽稿之,となり
當社は天平十九年747の創祀にして,社號は古は淤賀美山明神なりしを,後世,大山の字に轉したれば,古義を失したるなり,正和年中1312-17,四神を合祀せしより,今の號とはなりたるものゝ如し祀田は,多功家より寄付ありたれど,慶長ニ年,同族没落の後は,ただ,稻荷田と構す,一畔に,その名残を存ずるのみなり,社務は,中世までは,三枝部連の門葉,共に神事に預つゝありしが,後世は,神主に大沼氏を,別當に泉藏寺を,定任したれば,これよりは,彼の三枝部連等は,神族と稱して,社を,監督保護の,位置にありしなり,神域は村の中央を占め土地高燥頗る遠望に富み古檜老杉林立して,最も幽邃閑雅なり
石田
石田神社
上三川町・石田747
[いした神社]
主祭神[高龗神]
主祭神:高龗大神[たかおかみのおおかみ] 天之水分大神[あめのみくまりのおおかみ]
配神:磐裂命,根裂命,譽田別命
東谷神社から南へ1.8km,田川の氾濫で水害の多発するところであったため高龗神を勧請する。
『下野神社沿革誌』*に元は「高龗大明神」とある。維新の神仏分離で大明神を外し地名を社号とした。
昭和十七年三月六日の社柱は「村社石田神社」, 柱が石製で他が木製の堂々たる両部鳥居。
年代不明の石燈籠が二基。 左手に手水舎。
拝殿左手に石祠が一社。
さらに横長のトタン葺覆屋の中に木製の境内社が4社祀られている。祭神名の文字なし。
拝殿真裏の御神木が見物。根元に巨大なこぶが盛り上がっている。 その裏にあるのは薬師堂かも知れない。不明。
永暦元年9月29日創立1160。現在も11月16日に上郷一区太々神楽保存会によって神楽が奉納される。明治末頃に中止したところ,小学校分校が火災に遭ったため再開したという。
本殿:流造亜鉛葺 幣殿:流造亜鉛葺 拝殿:流造亜鉛葺 例祭:11月15日
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)5巻43丁
河内郡雀宮村大字石田鎭座 村社 石田神社
祭神 高龗神 建物本社間口一間四尺奥行二間 拜殿間口三間三尺奥行二間 末社四社 氏子七十三戸
本社往古は高龗大明神と稱せしか明治維新に際し石田神社と改稱し村社に列せらる 社域九百二十六坪を有す