栃木県の高龗神社にかかわる古記録

『鹿沼聞書・下野神名帳』『下野国誌』『下野掌覧』『下野神社沿革誌』


『鹿沼聞書・下野神名帳』は『栃木県神社誌』旧版の附録で読むことができる。210年前の寛政あたり1800年頃に記録された現存する栃木県最古の神名帳である。
社名がタカオカミに関わる神社は76社収録。
------------------------------------------------
「高於加美大明神」12社
「高於加美」3社
「高於加美神社」2社
「高於加美宮」1社
「高尾大明神」36社
「高尾神社」12社
「高尾大権現」4社
「高尾神」2社
「高男大明神」2社
「高龗神社」1社
「高龗大明神」1社
さらに整理すると
「高於加美」18
「高尾」54
「高男」2
「高龗」2


圧倒的に「高尾」が多い。このころはまだ「タカオカミ」と呼んでいる社も18 社。
「タカオカミ」の社号は芳賀郡10,河内郡4,都賀郡2,塩屋郡2社である。『日本書紀』の「高龗」表記は那須郡に1社のみだが「高靈」は誤記と思うので「高龗」はわずかに計2社。他は高尾で記録された54社。 神仏習合の時代なので大明神51,大権現4社が記録されている。
------------------------------------------------
『鹿沼聞書・下野神名帳』から50年後に刊行された『下野国誌』をディジタル画像で見ることができる。河野守弘(1793-1863)著 嘉永三年1850刊『下野国誌』四之巻 神祇鎮座所収(早稲田大学・古典籍総合データべース)

■高尾温泉明神(黒羽町大字中野内)
那須郡両郷と云ふ所にあり。神主小泉甲斐と云,社領五十石,領主黒羽候より寄附なり,祭神ハもと*高龗谷於賀美ノ命なるを,那須家在城の刻,同郡の温泉神社を勧請して,城中の守護神と鎮め祀りしなり。黒羽城より鬼門にあたりて一里許なり。
温泉神社ハ,大名持ノ神と,少彦名ノ神と二柱なること,上の温泉神社の条に記したり。さて高龗を高尾神と書て,**假字たがえり。高龗ハ***タカオガミにて,高尾ハ***タカヲなり。さるを當國の内,那須,河内の両郡には,高龗を祀れる所數多ありて,何れも皆高尾明神と書誤まれり,是ハもと山城國の貴布祢明神をうつせしものなり。

*高龗にはタカオガミのルビ,谷於賀美にはクラオガミのルビ,もちろん闇龗のことである。いずれも[オガミ]と濁音を採用している。
**假字にカナのルビ
***カタカナに二本線の傍線つき


現在の大田原市中野内1942(黒羽町大字中野内)の温泉神社の記述で,この社は「那須郡惣社・那須与一勧請社」である。
この栃木県初のガイドブックの著者は,尻尾の社号について「何れも皆高尾明神と書誤まれり」と一刀両断である。
下野国誌の著者が『鹿沼聞書』を読んでの言か,フィールドワークの成果によるのかはいまとなっては不明である。
高龗1社は記述の順番からは最後に記述されている。最後になって龗文字に気がついたのかもしれない。したがって聞書記載の「高尾」は伝聞の[たかお]の音の記録違いとも考えられる。
なお国誌に「那須,河内の両郡には」と書かれているのは温泉明神に引きずられたのだろう,祭神高龗の社は那須郡にはほとんどない。「栃木県の高龗関係神社」をご覧いただきたい。社号でも曲畑は那須郡とはいっても芳賀,市貝の隣りである。「栃木県の高龗神社分布」地図を合わせてご覧ください。
-------------------------------------------------
『下野国誌』とほぼ同時期の万延元年1860に発行された木版『下野掌覧』(庚申秋八月発行・著述兼書画雲齋菅原壹直)も『鹿沼聞書・下野神名帳』と同様に維新前の社号と祭主を記録している。「祭主神主ノ部ノミ載テ寺院村持ノ部ハ載ズ」と断わっているので収録数は聞書より少なく360社,高お神社は22社掲載されている。
「高尾大明神」10
「高尾山大明神」1
「高尾神社」3
「高龗大明神」5
「高龗宮」1
「大神宮高龗神社」1
「高男大明神」1

「高尾」が過半数の14社,「高龗」が7社で,聞書のわずか60年後だが,5社多い。安政の大獄が1858年で,水戸学の尊王攘夷の影響なのか,鹿沼の山王大権現が君子神社に改称したのが1862年で,維新より早く大権現を捨てている。高お神社も維新以前に高龗と『日本書紀』のオカミ字を使い始めたと考えられる。
聞書で「於加美=オカミ」と記録された社は『下野掌覧』では例外なく「龗」字で記録された。神社自体にその動きがあったというより,別当寺院の社を記録していないことから,著者の菅原壹直の判断である。さらに,この時代には「龗」を『日本書紀』の注通り「おかみ」と読んでいたことが分かる貴重な記録になっている。
左が『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃,右が『下野掌覧』万延元年1860年,カッコ内が住所である。
高於加美大明神  > 高龗大明神(西刑部)
高於加美大明神 > 高龗大明神(長岡)
日輪大神宮高於加美神社  > 大神宮高龗神社(西木代)
正一位高於加美大明神 > 高龗大明神(生田目)
正一位高於加美大明神  > 高龗大明神(田野辺)
高於加美宮黒於加美宮 > 高龗宮(続谷)
正一位高於加美大明神  > 高龗大明神(大谷)

-----------------------------------------------
さて,国誌からさらに52年後の明治三十五・六年1902-03に刊行された『下野神社沿革誌』では,明治初期の神仏分離令の風嵐をくぐり抜けた社号が見て取れる。栃木県は水戸藩国学の影響が大きい地でもある。下野国では334寺が廃寺にされている。
聞書76社中,沿革誌にも掲載されている社は63社。驚くべきことに国家統制による社号変更後は「高龗神社」はなんと90%の56社,「高尾神社」はわずかに4社,「高男神社」2,「高雄神社」1社で,明神,権現は消滅してすべて神社の呼称となった。中央に申請する際に由緒を調べ直し,『日本書紀』記載の「高龗」に改め,登録したためだろう。
例外的にタカオカミが消滅してタカオに短縮された社が3社ある。先に「高龗大明神」だった曲畑では変更後「高尾神社」に,同じく刈生田が「高於加美大明神」から「高雄神社」へ,上阿久津が「高於加美大明神」から「高尾神社」へ変更されている。
合祀されてしまった社もあるだろう。
祭神も大山祇命,軻遇突智命,日本武命の少数の例外を除き「高龗神」「タカオカミの神」で掲載されている。
------------------------------------------------
沿革誌からさらに42年後の昭和二十年1945にはGHQによる神道指令によって神社の国家統制が禁止される。
それから徐々に,明治維新に際して隠しておいた大明神の扁額を掛け足したり取り換えたりして高龗・高尾が同じ社で混在していく。古いものはありがたいのである。
かくしてkyonsight永年の疑問であった高龗・高尾の混在の理由は『鹿沼聞書』と『下野掌覧』の記述によって解決したことになる。
------------------------------------------------
(『鹿沼聞書』の成立過程がまったく分からない。実際に参拝して高尾の字を採用したかどうかがまったく不明である。聞書といっていることから,元本があったか。また活字版には誤字または誤植がある。たとえば下川俣は高霊神社と組まれている。岡山神社庁HPで東豊野神社の祭神は高オカミ神だが高靈神社勧請のところで龗を霊に誤記,高根沢町指定文化財で同じ誤記があるが,道路地図の誤記の他に例を見ない。闇龗が黒,刑部が部,芹沼が苅沼,鉢形が形,高於が於高など悩まされる。しかし黒於加美の記述は続谷の疑問を解消してくれた。成立年についてはkyonsightは1800年前後と推定した。その根拠は「鹿沼聞書・下野神名帳成立時期」をご覧いただきたい)
(『下野国誌』の版木225枚が真岡市の国誌堂に保存されていた。活字版は1968年に下野新聞社から刊行され,手入れをして再版が1989年に新組みで発行されている。原版との違いは格助詞の「は」をカタカナから平仮名にしていること,「数多」を多数にし,「當國」を当国にしているだけ。傍線・ルビも再現している。他は原版でも鎮,祢など旧字体ではない書体である。
神主小泉甲斐とあるのは鮎の画家でもある小泉斐Ayaru,享和元年1801に甲斐守に任ぜられているので甲を省いて斐を雅号とした。益子町や矢板市に「絹本着色鮎図」が残る。)

 

 詳細目次へ 
 ページトップ