五社神社

[ごしゃ神社]

上三川町・大山519

配神:[高龗神]

主祭神:天照皇大神 配神:豊受姫命,天太玉命,高龗神,火産霊神
境内社:八坂神社,猿田彦神社,蔦馬神社,大杉神社,疱瘡神社
明治小学校の西隣り。真新しい朱塗りの両部鳥居は平成10年10月。昭和十五年1940十二月二十九日の社号標に「五社神社」
すぐ右手に由緒看板があり,「相殿 高龗神」の口なし雨龍文字。ルビは「たかおかみのかみ」と正式な読み方。
由緒看板には,「古くは淤賀山明神と称された」とある。「美」が「山」になっているが「淤賀美明神」である。また伊勢の内宮から勧請したのは天平十九年747でなく,もっとずっと後の正和二年1313で,大山の地名の由来もおかしい。
『下野神社沿革史』には詳細な縁起が書かれている。口伝は訛りやすく古の実際を記録して後世に伝えるため「寛永庚午(七年1630)春,社監三枝部連信麿」が書き残した13行の漢文が引用されている。おおまかには,
「天平十九年747六月に大旱魃に苦しめられていたとき,少年に神が憑依し,我こそは淤賀美神である,我を祀れば泰安となすことで応えよう,というので亀卜によって清地を定め,神祠を立てて祀ったところ霊験があった,これが当社の起元である」。淤賀美神すなわち高龗[たかおかみ]は祈雨祈晴の神で稲作に欠かせない神徳を持つ。「祀った効果があったので官民一致して祠の規模を拡大し,社名を淤賀美明神とし,地名を淤賀美山とした。正和二年1313に多功家朝が天照大神,火産霊大神,豊受大神,天明玉(天太玉命)四神を合祀し,淤賀美神と合わせて五土の神徳が完備した」とある。約400年前の記録である。したがって由来看板の解説は400年前の神主三枝部連信麿の危惧にもかかわらず変質してしまったわけである。
主祭神が天照大神に替えられたのは,おそらく維新の神仏分離の際と推測する。
『下野神社沿革誌』には五所神社で記録されているが,現在は五社神社。
左手に「主馬大神」「馬頭観世音」と祠。 昭和十八年二月の石塔。
拝殿左手に石塔3基,境内社石祠5社がずらりと並ぶ。
読み取れるのは「嘉永三 庚申塔」1850,「昭和八年二月初午」1933の石祠,「安永二癸巳二月朔日」1773の六手観音。
本殿:流造木羽葺 幣殿:銅葺 拝殿:入母屋造銅葺 例祭:11月15日
*『下野神社沿革史』(明治35年1902刊)5巻-41丁
河内郡雀宮村大字大山鎭座 村社 五所神社 祭神 天照皇大神・豐受姬命・高龗神・天太玉命・火產靈神
建物本社間口二間半奥行三間 拜殿間口三間奥行二間 神楽殿間口二間半奥行三間 末社五社 華表一基 氏子五十四戸・総代四員 社掌山崎淸十郎同村同大字住
縁起に曰く…聖武天皇廿四年,天下大旱百姓大窘乎,一夜神憑於里童曰,我坐于常道,神母山大神之御子,
淤賀美神也,須敬祀于我御前,必應爲泰安云々,輙命神龜卜淸地而,立神祠厚饗奠之,果有霊験焉,蓋當社之起元也,於是官民一和,大宏規模盛献祀料而,社名淤賀美明神,地稱淤賀美山,又,憑神勅而,探神族於神母山麓,令預神事,是葭田連,海部連,惠澤連,山前忌寸,石和連,守稲置,河俣連,稻場首之八門,共,三枝部國造同祖,天彦根命之後也,…寛治二年1088十月宇都宮宗貞築城當郷,以當社為鎭護神爲,花園御宇正和二年1313多功家朝,奉神託而,合祀天照大神,火産霊大神,豐受大神,天明玉云,爰完備五土之神徳,稜威赫々乎,雖然口傳易訛,於今不言,恐絶可无傳古實歟,敢録而欲爲縁起訖,寛永庚午1630春,社監三枝部連信麿欽稿之,となり
當社は天平十九年747の創祀にして,社號は古は淤賀美山明神なりしを,後世,大山の字に轉したれば,古義を失したるなり,正和年中1312-17,四神を合祀せしより,今の號とはなりたるものゝ如し…神域は村の中央を占め土地高燥頗る遠望に富み古檜老杉林立して,最も幽邃閑雅なり

 

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