熊野神社

[くまの神社]

益子町・大平57

境内社祭神[闇龗神]

芳賀郡益子町大字大平57
主祭神:伊弉册命 配神:天之狭土命,國之狭土命
境内社が稲荷,四社,湯殿,八坂,大杉,浅間,愛宕とあり,そのうちの四社神社の祭神が「闇龗神」[くらおかみのかみ]である。四社神社他の3神は豊磐間戸命,櫛磐間戸命,猿田彦命。
益子の北部,茂木との境に標高271.7mの芳賀富士がある。北の入口から駐車場まで車で登ることができる。舗装はされておらず,轍の中央が盛り上がって草が茂っているのでインサイトのお腹を掃除することができた。
西の安養寺入口からも入れるが,神社までは距離を歩くことになる。
花崗岩製神明鳥居まで丸太の階段と石の階段。社殿までまた丸太の階段と石の階段。下から見上げるとはるか彼方に見える。途中に手水石が土に埋もれている。
拝殿左手に石祠が5基。右手に3つ。裏に1つ(明治三十八年九月廿九日・大手氏子中)。
建久五年9月1194平氏の滅亡後に一族の筑後の守貞能が出家して安善寺を建てた。安養寺とは別である。寺の守護神として芳賀富士中腹に勧請したといわれる。その後,地頭の河原小藤治光直が延応元年1239に再建する。野火にやられ文化六年1809に再建,明治七年豪雨にやられ,明治17年に再建される。 花崗岩神明鳥居,社柱等はこの時のものである。
四社神社がどれか判別しない。
『下野神社沿革誌』に「大平字鶏足山鎭座」と記録され,別名芳賀富士の記載がある。ここから南東に7キロ離れた茂木と茨城の境に「鶏足山」があるが同名の別の山で,そちらは『下野神社沿革誌』では「小貫字鶏足山」として区別して「鶏足山神社」を記録している。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・21丁
芳賀郡七井村大字大平字鷄足山鎭座 村社 熊野神社 祭神 伊弉冊命 天狭土命 國狭土命 祭日五月一日 陰暦九月二十九日 建物本社間口四尺奥行三尺五寸小羽葺 雨覆三間四方 幣殿二間四方 拜殿間口三間奥行二間萱葺 末社四社 華表一基 水盤舎一棟 氏子三十五戸惣代河原宇平次河原三千喜岩下吉蔵瀧澤直市郎高木重太郎 社掌風山廣雄
本社は後鳥羽天皇の御宇建久五年1194九月の創立にして平氏の族築後守貞能の勸請なり 平氏一谷八島の軍利非す氏族悉く滅亡誰能く亡魂の爲に佛事を營まんと 貞能剃髪染衣の身に変し大岩と改名し當地に來りて一草庵を結ひ建久五年1194寺殿堂門を造營し安禪(*ママ)寺と號す 此時寺鎭の神として院の東北隅の高丘の中腹に祀りしか嚆矢にして後一邑の鎭守と崇敬す(安善寺記に詳なり)延應元年1239二月地頭河原小藤治光直再建後延びの爲めに社傳悉く灰燼に帰す 文化六年1809十一月再建 天保三年1832二月領主太田原飛騨守より高一石四斗七升余 文久元年1861二月仝氏より高七斗七升四合本村地内に於て祭田除地として寄附せらる 明治七年1874四月雨覆再建 仝十七年十一月拜殿幣殿水盤舎等再築 悉く壯麗を極む これ皆氏子惣代等の力を效せし結果と云はさらんや 社域一千三百九十二坪字鶏足山の半腹に在りて全郡第一の勝地と證すへき 舊記の一節を左に抄祿す…略…亦稱芳賀富士…因に云ふ建久年間1190-99の當時佛教盛んにして殊に平氏の族の出家なれは衆庶之を尊信して遂に寺鎭なる熊野大神をも一邑の鎭守となせしものなりと云へり…參照安善寺記 正徳六年1716二月十五日…以下略
なお200年ほど前に以下が記録されたが該当社が分からない。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡 熊野大権現 北益子村 養林寺
かなり登る
鳥居をくぐってまだ上へ 手水石だろう

 

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