神明宮

[しんめいぐう]

鹿沼市・野沢町612

配神:[高龗神]

旧地名:上都賀郡南押原村大字野澤
主祭神:大日孁貴命 配神:高龗神[たかおかみのかみ],譽田別命,磐裂神
293号線を楡木の追い分けで右手に入り,さらに307号線へ右折して東武日光線の踏み切りを越え,東北道を渡って医王寺の手前を左に入り,東北道トンネル手前の左手。鎮座する山は東北道建設で東の山裾を削られている。
天正17年1589に栃木市神明宿に鎮座の神明宮より分祠したという。境内には「正徳四」の石燈籠が残っている。甲午の1714年で栃木県内ではかなり古い。左右二対を合わせて読むと「正徳四甲午天x都加郡野沢村 奉建立石灯X二世安楽所 鈴木長左右門」一基は「二世安楽一眨」一眨は「この燈籠を一目見ると」の意か?あるいは「取」に似た1文字で別の読みがあるのか?浅学にして不明。江戸期には都賀郡であった。賀を加と刻んでいる。
となりの石燈籠は「文久二年壬戌九月吉日」1862拝殿向かって右手には「奉納・龍神宮」,左手には「奉納・八幡宮」つまり合祀した神社に奉納されている。ここで疑問がひとつ。合祀は明治42年なので,石燈籠の方が古い。しかし,どちらも形が同じで奉納年月も同じ。刻字の違いは文久二年壬戌と文久二壬戌年と「年」の位置が異なるのと「二世安楽」の次の字が異なるだけである。つまり龍神宮と八幡宮は同じ場所にあったのか?あるいは文久にはすでにここ野沢にあったのか?
鳥居脇の「神社合祀碑 明治四十五年四月吉日」に「明治四十二年五月二十六日付願 無格社星宮神社及境内社稲荷神社 無格社龍神社及境内社稲荷神社雷電神社 無格社八幡宮及境内社太神宮稲荷神社 仝所無格社神明宮へ合併并ニ跡地譲與及跡地立木伐採ノ件許可ス 明治四十二年十二月廿五日」とある。
「仝所」とは南押原村の大字野沢と解すべきだろう。野沢村は明治24年当時の戸数39,人口289であったことが分かっている。この戸数で龍神社,八幡宮,星宮神社と神明宮の4社を祀っていたことになる。納得できる数である。
すると龍神社と八幡宮の両方に維新間近の文久二年同時に同形式の燈籠が寄贈され,合祀後この地に運ばれてきたと考えていいのだろう。
拝殿右手に「神明宮新築記念碑 昭和三十六年四月十三日」があるが,平成に不届き者の放火で消失,氏子の熱意で20年に再建している。このとき明治42に合祀した龍神社,八幡宮,星宮神社3社は拝殿左手に並べられている中の,右端の新しい石祠に奉斎している。左端の大谷石製石祠は推読「明治四十年八月」
「白雲山 文化六己巳天九月吉日」1809
「男體山 安政六年巳天四月吉日 當村惣講中」1859
狛犬は昭和六年五月二日。
明治四十五年五月の鳥居の次の左手の石燈籠は「萬延元庚申年 十二月吉辰」1860
右手に馬力神2基。「明治七甲戌年三月吉日野沢村中」1874と読める。
合祀された境内社の他に事代主神の近津神社,大山祇神の大杉神社があったが不明である。このせいかネット地図には「大杉神社神明宮」とあるが正しくは「神明宮」である。
鳥居手前左手に庚申塔がずらりと並んでいる。
「青面金剛元文五庚申」1740「十九夜 嘉永元戊申」1848「萬延元庚申九月」1860などが読み取れる。
「安政七庚申念佛講三月吉日」1860の六角塔は六面に立像が彫られている珍しいもの。
神明宮鎮座の山は通称龍神山である。合祀後の呼び名かも知れない。龍神宮とも呼ばれていた龍神社とともに遷座してきた高龗神[たかおかみのかみ]は南900mに思川を見下ろし,すぐ脇を流れる東北自動車道を司ることになった。
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本殿:神明造トタン葺 拝殿:流造瓦葺 例祭:10月20日
正徳四年,1714は古い 文久二年
昭和三十六年
合祀碑
左端,元文五年1740,古い
南を見下ろす 南から見た龍神山 北東から見た龍神山

 

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