kyonsight
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 通りすぎる季節の中で泉が最も輝きを増すのは春である。雪溶けの中から暖かい空気を撫で,若やぎ溢れ,光を映し,青空を吸い込み,聞こえないささやきをかわす春の泉。わたしたちが詩的想像力で想起する泉は,透徹した小量の湧出だ。絶えることなく,奥深い豊かさを秘めた純粋な水の運動。泉が水になりつつある言霊であるなら,何を語ろうというのだろう。永遠に何事かを訴え続ける泉は,淋しい女の微笑に似ている。
 そして泉は平らな深さを持った水を溜める。湧出の形態と,その結果生れる透明で宝石のような静かな水の形態をわたしたちは泉と呼ぶ。蝶の吐息ですらも水面を乱してしまう泉の水鏡。この神秘的水鏡をめぐって,いったいいくつの物語が語られたことだろう。
 空を飛ぶ小烏も,頭を垂れる花々も,生命を飲みに近寄る青い獣も,太陽すらも全て,泉の鏡の中ではその温度を失ってしまう,まるで別の世界がそこにあって,別の物語が進行しているようだ。
裏返された世界をぽっかりとのぞかせる,美しい地球の小窓。
星を映す時,泉は宇宙と同じ距離の深さを持つ。この時,泉は億光年の孤独を宿す。
 かつて祖先たちの生命の源であった泉は,今,わたしたちの水の記億の底に眠っている。人間が液体に繋がれて生を保ち続けてきたことを考えると,泉はわたしたちに最も親しいものだ。永遠の古代からほそぼそと性液と羊水に繋がれて今に在るわたしたちは,時に一滴の水の記憶に誘発されて,数世紀前の,あるいは数万年前の祖先の見たに違いない風景を瞬間的に再現する。この美しい幻想。
泉もまた同じメカニズムをもつ。循環する水の相。ある瞬間に湧き出た泉は,数世紀前に同じ泉を通過した水とやさしく共鳴してふるえることがある。
とはいえ水の記憶はわたしたちの奥底にあまりに深く眠っている。不幸にして自然な目覚めが期待できないなら,幻の泉に舌を濡らしてしばし,短い旅を続けてみたい。
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