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 もし当り前の人間がわれわれの考察の対象なら,その人の言葉,行動,作品などによって,その人の思考がどんなものか,あるいは人生や,行為の動機などもわれわれの思考の範囲で,ある程度までは思い浮べることができるだろう。しかし,考察の対象である人間が,われわれの思考能力をはるかに超えるか,または,われわれとは全く別種の脳髄の持主であったなら,いかにして彼を知ることができるのか?
この,ほとんど絶望的な命題からポール・ヴァレリーは『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』に取り組んだのだった。
 レオナルドはわれわれが普通に驚嘆する万能の天才以上に,異様な脳と目の持主だった。彼のいわゆる『レオナルドの手記』は謎と驚異に満ちている。波の分析,鳥の飛翔の観察などはスローモーションビデオでもあったのではないかと思わせるほどだ。十五世紀イタリアの一個の脳髄の中に,芸術家,科学者,技術者,飛行を夢みる人の全ての思考が集中していた。彼の弟子フランチェスコ・メルチがレオナルドの手記を一五一九年レオナルド他界の後にもし公開していたなら,二十世紀の世界は全く違っていたに相違ない。
 現在われわれは岩波文庫二冊でレオナルドのノートを読むことができる。この中の科学論の水のところに ともいっている。この記述から遠いところに と書き記している。
 ダ・ヴィンチは水を動きとして捉えた。水は山頂から海までを流れ落ちて再び山頂に環る一大循環の相のもとに捉えられた。水をこの乾ける大地の生命液と考え,動物の血のように想像した。大地の底を網の目のように走っている水脈による水の循環は,地球を一個の生命体と考えるにふさわしいイメージだ。この地下水脈の一部が破れて地表に現われたところが泉だ。泉からあふれ出ると,水は自分より下の方向に流れ落ちる。決して上には昇らない。山中ではたくさんの泉から流れ落ちる水が,低いところ,谷に集まって岩を濡らし,石を削りながら河川に注ぎ込む。春先なら雪溶け水もそこに加わるわけだ。そして最後には海に注ぎ込む。泉から以降の水の動きは,水蒸気,雨,雪,谷河,河川と,全て地表で行なわれる。これとは別に地中深いところでは山頂から海底まで縦横に水脈がはりめぐらされて,動いているのだ。
太古から休むことなく動き続ける水を想うと不思議な気持ちになる。たった一つの小さな泉も,昔から続いている水の運動の,現在の瞬間的な姿であると思うと,いとおしさをまじえて宇宙的な感銘を覚える。
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