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 世紀末の一八八七年三月,ザルツブルクに生れた魂の詩人ゲオルク・トラークルが一九一四年十一月の夕暮れに,コカインの飲み過ぎで亡くなるまでの短い生涯の中で,泉にふれた詩が九つある。簡単に紹介しておこう。
 トラークルは極めて少ない言葉で詩を書いた。大学五年のときに,授業に出席する必要のなかった私は,アルバイトを終えると文学部の図書館で彼の詩集を読むのを常とした。もとよりドイツ語の知識は皆無に等しく,一語一語辞書を引かなければならなかった。当時は時間もあったし根気もあった。辞書を引きつつ数十編を読むうちに同じ単語が頻繁に使われているのに気付いた。そのうち,「青い」という形容詞が用いられている言葉を拾ってみよう。「神の青い息づかい」「ほの青く夜の翼がはばたき始め」「冴えた青の中に白い柔和な雲」「青い影」「青い川」「この夕暮れは青と褐色」「青い天気」「青い獣」「青い実」「青い鳩」
 こんな具合に青が使われている。色の使用に特色のあった彼は,このほか金色,赤,褐色,黒,白を多用している。
では「泉」と「青」の結びつきを見てみよう。  トラークルが青いという時,彼は向こう側の世界を見ている。神秘的な向こう側の青い空気の中の淋しい世界。非現実的な不思議に透明な,それでいて暗さを秘めた青の空気が感じられる。黒い森という言葉も二度使われている。緑,白,赤も配置されている。それにもかかわらず詩篇から感じられるのは蒼白の空気である。トラークルの詩のありかは青ざめた向こう側の世界にあるのだ。その中ですべてが進行する。トラークルの詩の行なわれる場所は青い空気の中だ,といってよい。そして彼は, という。それでは青い泉は「魂の一瞬」なのだろうか。これはあるいは読む側の恣意に過ぎるかもしれない。 トラークルにとって,泉は文法形式上は規定を受けていない。A ist B. つまり主述の形式で書いていないのだ。「ささやく泉」「せせらぐ泉」というありふれた形容詞とともに登場してもいる。トラークルは泉を動くものとして想像する。ト一フークルの泉はQuellつまり動詞quellen「湧く,ほとばしる」の名詞形で使われ,Brunnenは一つしか使われていない。泉は向こう側の世界の生命あるものの一つなのだ。  この詩句が見えるのは道端で幼児にやさしく乳を含ませている女が描写されるところにある。彼女の泉は幼児の小さい生命に吸われてゆく。この時の音は詩人に として聴こえる。生命の祭典もしかし詩人を落着かせない。これらの詩句は という詩句に導かれているのだ。
 トラークルは現在の明るさの中に住まうことができなかった。彼の住むのはこの世ならぬ世界,薄明の世界だった。彼は「秋」という言葉も多用した。季節でいうならトラークルの泉は秋の泉だった。輝きよりは透明さが増す,秋の空気の奥の泉。
 明るい子供の日々がうしろから忍び足で追いかけてくる。灰色の風が滅びの吐息をはこんでくる。このような,あやうい,傾いた詩の世界の中で,泉はよりいっそう透明に息づくように思える。
 季節は秋,時は夕暮れ,トラークルは常に,村と森の中を夢みるように散歩する。やさしい獣の死,女らの死,少年らの死を引摺りながら,青い眼差しで水晶の幼時を見ていたのだろう。
 トラークルについてはハイデガーが『詩と言葉』で,彼の詩のありかを美しく解明している。訳詩では原詩に忠実ではないが,筑摩叢書に『トラークル詩集』がある。
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