美しいスピード
百のうた,千のうた,
その途上にあるうた

kyonsight
自由な距離,追い越せない速度。
混線する空に羽ばたいた小鳥に向かって,明日の色は何色なの?
と問いかけて,少女のくちびるに春。
時は三月,紅もゆる直前の,水平の物語りは百のうたの途上にある。
時に逆らおうとして海がうねる。
百年のうた,千年のうた。
人はやさしさをちりばめながら悲しい時を生きる。 喜びを与えて生きる。 音,光,形,ことば。
やがて時の中でそれらの活動は無効となる。
砂浜の永久運動は地球のやさしさか。
時に逆らおうとしてうねる海が刻む時, 海に沈もうとする太陽が垣間見せる明るい明日,
というものは宇宙のやさしさか。
虹色のニューロンが七回衝突して笑顔がはじける。 はじけた笑顔がまた笑顔をさそう。
かくして人は喜びの輪を描きながら語る。
ああ,あなたの笑顔はうつくしい。もう,ことばは無効だ,ということばもまた有効だ
目を閉じれば夜,目を開ければ朝。
目を開ければ夜,目を閉じれば朝。
終わらない組曲。
閉じない小鳥の目の劇場。
決意の命令文と禁止の命令文が白い星を映す舗石にいくつも刻まれている。
歩くたびに禁句が紙のような白さの文字でささやく。
呼びかけてはならない名前のように。
見失った純粋な小石のかけらを拾え。 純粋という単語を笑わず。 光の埃のように散りぢりに消えていく石の粒子を拾え。
水分を含みながらはじけていくニューロンを掌に包んで32度の角度に放り投げる。 水滴が一つ,秒速千キロで脳の中心部を地球の中心めがけて落下。 垂直の音を聞け。
地上と平行に歩く,または果てしない落下。
忘れるために歩く自由な距離。
昨日との境界すらもない自由。
こころ,と呼ばれるものが60ヘルツの心臓になるまで歩く。
脳幹よ,肉体を笑え。
水平の物語りは1章の書き出しで止まったまま。 だが,別の物語りはいつも知らない間にはじまっている。
むりやりページをめくらなくてよいのだ, ああ,海のうたを忘れていた。
ポケットに貝殻,放浪に左心房。 少年時のことばがよみがえる。まだ左心室が小部屋だったころ。
風に洗われた海辺の墓地,石に刻まれた「夢」は永遠に続く。 母の胸で目は透明 どんよりと時が没落する
火を燃やす。 ついには還ってくるほかない孤島に。
砂の上の春の足音。 掌の中で貝殻がこぼれる。
垂直のこころを抱いて夜の公園を歩く。 32度北の上空から小鳥の寝言が聞こえる。
やすみなさい,まだ朝は遠い。
大空に投げられた小石。 波紋をつくるまでのじゃんけんぽん。 ポンで負けた少年の目に水しぶき。 やってこないかもしれない真夏を恋う。
傾いた都会の空に迷うリョコウバト*よ,時に逆らって南を目ざせ。 まだ千のうたは遠い。  *1914絶滅
水色の地上に赤い花が咲く。 針葉樹,たとえば樹経7メートルの杉が目指す, 地球の中心と自分の中心を結ぶ直線上の空。 2センチの花の芽すらもその空を目指す。
いまにも泣きそうな春が痛いか。
無数の通信の走る電柱が等距離に植えられている。 圧縮された森の空気がよみがえる。
木がみずからの葉に抱えている空気が静まり返っている。 地球の自転によるひとゆれ,さえもなく。
回線の向こうにいるの誰か?
目の高さ50メートル先の寒ツバキとの間の光が緊張して 300ヘルツの音をはじく。
砂の海の水平線ということば遊びで目を覚ます。
エジプトの朝の一瞬にのみ赤く輝くというシリウスよ,いまは白に溶けるか。
決められた時に向かってまた歩く。 一歩一歩確実に減少していく時間というものが 真実以上に白い光となって胸を刺し貫いて走る。 そっとふり向いてその光の先に明けの星ひとつ。
泉よ,お前は星を映す地球の目か。 夜なのに忘れたようにやって来て小鳥がその目をつつく。
魚なき鳥の目に涙。 つま先で水たまりをつつく。
水分の多い空が白く乾いた地上を恋う。 たった一滴の不思議な雨がつむじに落下。 小鳥の小水の美しき誤解。または小鳥の右の目の涙。
時の急速な傾斜。美しい速度。
「走れ,時に追い越されないように走れ」 という命令文が時を超えてまた聞こえる。
無限に開いたままと思われた石仏の目も,また少し細くなった。
手の上に咲く赤い花に閼伽井(あかい)の水。
春はまぼろし,花一匁。
重力に逆らって咲く花の重さが地球の重力をまた少し増加させる。
石仏はまた少し沈んだか。
三月の銀河に限りがあるのを知り,地上に戻した目には春。
まだシリウスは燃えているか。
直線をさらに削って描く究極の写実。 美しいスピードで無数の線が目に刻まれている。
美しい額の曲線率の3乗ほどのニューロンが飛び交う美しいスピード。 美しい額の曲線率の3乗ほどの,
数えきれないニューロンの衝突による発光が目の傷に同調する。
昨日の痛みも覚えていない小鳥が朝の空気を切り裂いて飛ぶ。
自由な空の距離。美しい速度。
網膜上に残った美しいスピードが 昔刻まれた別のスピードに同調して振動する。
無数の粒子のまぶしいすきまに確かに刻まれたあやうい結晶。 結晶体の危険な振幅。 星をも破壊するクリティカルスピードに達する前に
そこに見える透明な文字を読め。
百のうたすらも途上にある。千のうたははるか。それでも, 夜明けの電線を走る伝言に応え,私もまたいうことができる。
百のうた,千のうたにもまして,
ひとつしかないことばを。
海のうた,風のうた,空のうたをやめ
鳥のことばに翻訳せず
ひとつしかないことばを聞かせよう
  愛している。

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