口粟野神社
[くちあわの神社]
栃木県鹿沼市口粟野1737

旧地名:上都賀郡・粟野村大字口粟野富士之腰
祭神:武甕槌命 配神:大己貴命,田心姫命,木花咲夜姫命,味耜高彦根命
境内社 八幡神社(譽田別命),天満宮(菅原道真公)
由緒沿革:鹿島大神宮と日光神宮の両鎮にして氏子等も両派たりしが,去る明治五年1872壬申八月鹿島大神宮を日光神宮へ合併口粟野神社と改む。今の神殿は旧日光新宮の神殿なり。延長年間923~931の創立なりと云う。(略)
地元の80になるおじいさんのお話によると,70年ほど以前には,鳥居前には麻の畑が広がっていた。日暮れとともに暗黒になり誰も近寄ろうとしない。腕白な年上に,肝試しに神社に行かされたという。鳥居の注連縄にコンニャクがぶらさげられているのを知らず,額に異様な感触を覚えて,参道を逃げ帰って土の上を転げ回ったそうだ。
麻も蒟蒻もこのあたりの特産物である。拝殿の麻柄葺は特産の麻を使ったのであった。
そのころはまた,鳥居とカヤの大木との間に川が流れていたという。樹齢1100年といわれるカヤを「カイノキサマ」とおっしゃってっておられた。社殿の奥山には大人4人が手をつないでも囲えきれない杉の切り株が残っており,現在の御神木よりはるかに古い巨杉もごろごろしていたという。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
都賀郡 新宮大権現 粟野 光明寺
*『下野神社沿革誌』巻三44丁 明治三十五年1902
上都賀郡粟野村大字口粟野富士之腰鎭座 村社 口粟野神社 祭神 武甕槌命・大己貴命・田心姫神・味耜高彦根命 祭日一月一日/四月三日/九月廿八日/ 建物本社間口一間一尺奥行五寸七尺栃葺 雨覆間口二間四尺奥行三間二尺杉皮葺 拝殿間口六間半奥行二間麻柄葺 末社二社 石鳥居一基 石燈籠廿七基 氏子三百餘戸・総代十員 社掌大山小六同村同大字二七三番地住
本社は日光神宮と稱し大己貴命,田心姫命,味耜高彦根命を祀り延長年中の創立にして今の宮殿は天正十一年1583落合徳雲齋の再立する所なり明治五年1872中鹿島神社を本社に合祀して口粟野神社と改む抑鹿島神社は字明神山に鎭座し粟野城主平野将監清範崇敬の社にして武甕槌命を祀り文明十八年1486十二月を以て大山廣重に神事を司さとらせ粟野郷の鎭守神と尊称し且元禄十一年1698中代官市川孫左衛門より田甫山林にて七反一畝餘歩の除地を附せられ集庶尊信の社なりしも兩社氏子の便宜を計り熟議の上官廰に申請し允許を得て一村の総鎭守とはなれり明治五年1872社格改定に村社に列せらる 社域四百八十坪平地にして石磴二十七階登れば古杉老樹蓊欝として前に蒼々たる田甫を望み粟納川の清流滾々たる聲を聞き清風耳に爽かならしむるの境地なり
*鹿沼聞書記載の光明寺は南西すぐのところに現存する。すると由緒沿革の「旧日光新宮」も正しいことになる。『下野神社沿革誌』では「日光神宮」で記録されている。



左手に粟野第一小学校

旗竿


石燈籠は大正十三年1924



拝殿右上の由緒書


御神木

杉山が広がる





残念ながら天しか読めない



口粟野のカヤ
鳥居から歩いて2分ほど。昭和43年に栃木県教育委員会より「粟野のカヤ」として天然記念物に指定されている。覆屋の銅版に「奉納榧木稲荷大明神 昭和六年」「天ごくのぼん乃河原に水たえて向ふきく沢あらだきの水・アビラウンケンソワカ 三反」と刻まれている。どなたかお知恵を。

高さは20mを越える


見事な古木

巨大な根元

稲荷神社

覆屋の右柱に銅版



1100年の風格



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