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福和田の磐裂根裂神社・下稲葉の磐裂神社
磐裂根裂神社
[いわさくねさく神社]
栃木県壬生町福和田519

主祭神:磐裂命・根裂命 境内社:龍神社(表筒男命)・稲荷神社
壬生中学校の東,黒川左岸の森に鎭座。地図に惣の宮で載っているがまちがい。土地の方にもおたずねしたが,惣の宮地区にある「磐裂根裂神社」である。ついでに安塚3094五味梨神社で載っているのは五味梨地区にある神明神社が正しい。
黒川岸から入ると左手にイチョウの巨木があり,参道の奥に鳥居が見える。明治三庚午年1870石燈籠,嘉永元戊申年1848石燈籠。石段を五段上ると社殿。額は掛かっていない。
平成十七年の奉納板書に「日露戦争一00年,第二次大戦六〇年の記念に氏子一同心を一つにして,当磐裂根裂神社の改修(屋根葺替,他)を奉納。左記の総代役員一同,永久の平和を誓い,その旨を奉る」とある。すばらしい。
本殿は平成十一年に改修している。
また「磐裂根裂神社増築」の寄付者名簿板書。つづいて「遷宮祝」寄付者名簿、昭和参拾年、と書かれている。遷宮が不明。
本殿右手に石祠が前列6基、後列3基並んでいる。左手1社のみ結界が張られているのが大正四年「八龍神社」。つづいて明治四十四年「天満宮」「稲荷神社」「神明宮」「琴平神社」,大正四年「雷神宮」。後列は不明。
南の田に面して庚申供養塔が並んでいる。ここの立て札に「磐裂根裂神社」の文字。供養塔は「寛文十年1670」「享保九年1724」「寛政十三年1801」「萬延元年1860」「大正九年1920」「馬頭観世音」などが読み取れる。
東の方角に牛塚古墳と車塚古墳がある。







嘉永元年1848燈籠

本殿右手

左端:八龍神社

後ろに3基

八龍神社

庚申塔横から

庚申塔群


磐裂根裂神社の文字

黒川を背にして

左:黒川堤


牛塚古墳


車塚古墳

磐裂根裂神社
[いわさくねさく神社]
栃木県壬生町福和田1379

主祭神:磐裂神・根裂神 境内社:大杉神社・稲荷神社
黒川の東300m,田園地帯の森に鎭座。221号線沿い「鯉沼伝統文化伝承館」の向かいの細道を入って500mで鳥居が見える。黒川を挟んで上稲葉に高尾神社が鎭座。
地図には磐裂神社で載っているが正しくは磐裂根裂神社。
右手に太々神楽殿。裏手に小型ながら趣のある旧御輿が立て掛けられている。現在のものは御輿倉に納められている。
昭和十二年旗杭。昭和五年石燈籠。明治三十二年1899手水石。
地蔵大菩薩

磐裂根裂神社鳥居額



磐裂根裂神社拝殿額





手水舎

御輿倉

神楽殿


旧御輿

西から

左手に黒川

鯉沼伝統文化伝承館と地蔵堂

地蔵大菩薩

地蔵堂入口の石塔

磐裂神社
[いわさく神社]
栃木県壬生町下稲葉929

主祭神:磐裂命 配神:天照大御神・天之御中主命・神御産霊命・高御産霊命 境内社:浅間神社・稲荷神社,厳島氏神社,三社神社
北関東自動車道の南500m,壬生中学校から352号線を挟んで西,田園地帯の森に鎭座。
明治三十一年1898「磐裂神社遷宮記」板書が拝殿内に掲げられており,文禄三年1594二月十三日勧請と書かれている。明治三十五年1902九月の烈風迅雨により境内の古木の大半を失うも,神威の保護により本殿は破壊をまぬがれる。元禄十年1697十二月改築の社殿を明治三十六年1903に再建し遷宮。昭和五十四年と平成四年の屋根葺替寄付者名簿板書。
その左側に「献額」があるが読めない。その左に「楠の由来」板書。明治二十六年1893に氏子13名が四日市と津間は山河を徒歩で行くという難行で伊勢神宮に参拝した記念に,神宮に請い楠の種子を拝領して境内に植えた事跡を子孫に伝えるために,昭和50年に13名の参宮者名とともに書き残した。すばらしい。
社殿左手に「伊勢参宮記念樹」が立っているが120年とは思えない巨樹。4人で囲めないかも知れない。
拝殿内にさらに明治参拾六年に大字下稲葉有志寄贈の磐裂神社の図があり,由緒沿革も書かれている。絵に境内社が見て取れる。阿夫利神社,浅間神社、厳島神社、疱瘡神、稲荷社と書かれている。右下には三社神社。
天保三年1832石塔。天保十三壬寅1842二月石燈籠。弘化四年1847石燈籠。文久三亥年1863石燈籠。
手水石は弘化四丁未歳1847。狛犬は文久元酉年1861。



拝殿内

磐裂神社遷宮記

磐裂神社絵図

楠の由来

伊勢参宮記念樹

ユニクロのコートと比較

120年の風格

浅間神社か?


神楽殿

文久元年1861

迫力がある

弘化四年1847

古い石燈籠が並ぶ

入口

中央奥鎮座の森



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