高龗神社

[たかお神社]

市貝町・田野辺1465 たのべ

使用文字[龗]

主祭神:軻遇突智命

旧地名:芳賀郡市貝村田野辺1465
主祭神:軻遇突智命
境内社:八坂神社(素戔嗚命)
天祭で有名だが,場所の情報がないので紹介しておくと,報徳牧場の東に当たる。
市塙から「武者絵の里」を目ざす。小貝南小を左に見て,T字路,左武者絵の里,右慈願寺を右に行く。次のT字路を左折してすぐ左手に鳥居が見える。
社号標も解説看板もみごとに口3つ付き正字で統一されている。
天文十八年1549田野辺村字宮下に創立。大正元年日光神社を合祀し,その境内地に遷座して現在に至る。
「田野辺の天祭」[てんさい]は八月下旬の3日間行われる。中日に行道に起源を持つ「はだかもみ」が行われる。天祭は風雨順次五穀豊饒を祈願する農耕の祭りである。
「田野辺の天祭天棚」[てんだな]は天祭初日の午前に組み立てられる定置型二階建彫刻屋台。図面はなく,伝承によって組み立てられる。天棚下と天棚上の二階建て。天棚下に太鼓・笛・笙の囃子連中が入る。天棚上に神官と行人が入って祈祷する。日天・月天・十二支天(文政七1824製)の掛け軸をかける。
栃木県では戦前まで200か所で天祭が行われていたが,現在は20か所ほどである。南那須町三箇塙sangahanaの天祭。高根沢町石末の天祭,中阿久津の天祭。大田原市那須神社の天祭など。天祭のほか天念仏,お天祭,天まつりなどと呼ぶ。
天棚は神の降臨の目印,依代,憑代yorishiro,憑坐yorimashiである。それゆえ高くつくる。大田原・羽田の八龍神社の丸太でつくる天棚は高さ9mもある。
山の頂上に山の木を伐採して天棚をつくり,供物を捧げ,夜通し天棚の回りを念仏を唱えながら天体の動きを模して回り,日の出を待つ天祭もある。馬頭町・大山田上郷。現在は夕刻に山を下りる。栃木県の天棚については「山車・だんじり悉皆調査」http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/totigi-tenndana.htmという大阪の方の偉業をぜひご覧頂きたい。
ただし「高麗神社」「高尾神社」とあるのは「高龗神社」のこと。
本殿:流造トタン葺 幣殿:平屋造トタン葺 拝殿:入母屋造トタン葺 例祭:11月第2日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡,正一位高於加美大明神,田野辺村,桜井中務
*『下野掌覧』万延元年1860刊
芳賀郡之部 正一位高龗大明神 田野辺村鎮座 祭主櫻井氏ナリ
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)6巻35丁
芳賀郡小貝村大字田野辺字古屋敷鎭座 村社 高龗神社
祭神 軻遇突智命 祭日陰曆九月十九日 建物本社間口六尺奥行六尺五寸 拜殿間口五間奥行三間 木鳥居一基 末社一社 氏子八十四戸・総代五員 社掌櫻井繁茂仝所住
本社創立遼遠にして詳かならすと雖も領主千本十郎の崇敬社にして神田を寄附せられ領主累代崇敬せらる 昔時本社は字宮下山の中腹に鎭せしか正德二年今の地に奉遷し西向なりしを明治二十五年南向となす 社域三百六坪高燥の地にして老杉森々として社壇を擁し櫻木枝を交へ幽靜にして愛すへし

江戸時代には[たかおかみ大明神]と称していたことが分かる。高龗を[たかお]と呼ぶようになったのはそう遠い時代ではないかもしれない。
大國主神 月山・湯殿・出羽
石下

高龗神社

市貝町・石下248-1 いしおろし

[たかお神社]

使用文字[靇]

主祭神:[高龗神

主祭神:高龗神,伊弉諾尊,倉稲魂命
123号線,七井の北東,生駒神社のすぐ南。ハナミズキ亭のすぐ北に位置する。
入口は石段だけで,奥の方に木製の鳥居が見える。くぐってさらに進む。
参道は土で野菊がびっしり生えている。もう一度石段を登ると大きな拝殿額に「雨+龍」の文字。
拝殿内中央にも「雨+龍」
さらにその左手に「熊野大権現・高龗大明神・稲荷大明神」と併記した額があり,本殿にはどうやら3社並んでいるようだ。
維新の神仏分離で高龗大明神から高龗神社に改号したが,神道指令で国家統制から自由になって大明神額を復活させたのだろう。*聞書の高尾は音を尾にあてて記録した。250年以上前から[タカオ]と呼ばれていたことが分かる。
文字の確認できる石塔の類はない。
境内社に素戔嗚命の八坂神社,大国主神の大杉神社。
参道を1.5mの黒い蛇が横断していく。

由緒沿革に面白いことが書き残されている。
後冷泉天皇の頃,奥州の安倍貞任と宗任が乱を起こす。常陸の国の清原頼重が奥州討伐に加勢し,芳賀の小宅郷内山野に陣を張り,翌朝出陣しようという夜の丑の刻「天鳴り星精天降りて,輝くこと夥しく見えし後,三石あり」どうやら隕石が落ちてきたようだ。康平五年1062八月十八日のことである。
そこで頼重は「五百筒磐石というも歴然の証なり,石精天下り給えばこの地を石下村と称えよ」と命ずる。急遽3つの石それぞれに仮の祠を造って怨敵降伏を祈願する。勧請したのが「高龗大明神・熊野大権現・稲荷大明神」であった。
『日本書紀』で十掴剣で斬り殺された軻遇突智のほとばしる血が染めたのが天安河,天八十河にあった五百筒磐石。闇龗や高龗,磐裂,根裂神,雷神が生まれてくる箇所の記述である。
空から落ちてきた石を五百筒磐石に見立て,高龗神に結びつけることのできた,とびきりの知識人が同行していたことになる。
1062年頃には『日本書紀』を読むことができた,あるいは関東の田舎でも神生みの神話が流布していたということか。
本殿:神明造板葺 幣殿:流造銅板葺 拝殿:流造銅板葺 例祭:10月第4日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡,高尾大明神,石下村,神宮寺
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)6巻38丁
芳賀郡市羽村大字石下字前鎭座 村社 高龗神社
祭神 高龗神 建物本社二間四方 拜殿間口三間奥行二間 華表一基 氏子三十一戸
本社創立は康平五年1062八月十八日にして嘉永七年1854八月九日の再建なり社域六百四十八坪大字の稍々中央にして古樹亭々と高く聳ひ優雅にして淸洒の地に在り

こちらは江戸時代から[たかお大明神]を称していた。維新に際してオカミ字の高龗神社に改称した。
口なし雨龍
拝殿内も雨龍
赤羽

高龗神社

[たかお神社]

市貝町・赤羽3386

使用文字[龗・靇]

主祭神:高龗神

主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
旧地名:芳賀郡市羽村大字赤羽延生道北
氣の博物館の西を北上してすぐ左手。ここは分かりにくい。
大谷石の長い塀に囲まれた立派なお屋敷の中にある。遠目には神社があるとは見えない。神社の東と北には広大な田園が広がる。
外観には神社名の文字なし。
旗杭は新しく,昭和56年。
お屋敷の方のご好意で社殿内を見せていただくことができた。 中央に感動的に口3つ付きの高龗神社の額が。古そうだ。
年号はなく「禊教X管・大教正平山X斎拜書」,雨冠が特徴的。神は申すの下に二本濁点。隷辯体の変形。
左隣の昭和15年の奉納額は「靇=雨+龍」,こちらの書体は説文。
右手の柱の紙には「高靇神社家内安全神璽」,「雨+龍」
「昭和弐拾九年拾壱月・高龗神社拝殿新築寄附者名」の左右に長い板の奉納額,贈石川材木店。
本殿は風格がある。明和五年1768のものか。神紋が卍。別当が真言宗のお寺だったとのこと。
左右に祀られているのは八坂神社と琴平神社。右手前に小型の神輿。
石鳥居は震災で倒壊し,再建された。鳥居手前の石燈籠も再建されている。
社殿左手に増築した部分は上赤羽公民館として使われていた。
参道の出口に昭和59年・六地蔵修復記念碑が建てられており,馬頭尊や二十三夜塔,文化十二年1815庚申塔などが保存されている。
1954年5月3日芳賀郡市羽村と小貝村が合併して,市羽の市と小貝の貝をつないで市貝村となった。
現在の赤羽は広いうえに延生Nobuという地名も残ったため,さがすのに手間取った。ここはどの地図にも掲載されていない。
---------------------
本殿:神明造板葺 拝殿:入母屋造トタン葺 例祭:11月第3日曜日
震災後再建された鳥居 拝殿内
本殿 卍の神紋
拝殿新築寄附芳名板書 高龗神社神璽 賽銭箱
背後の石祠
震災後再建された鳥居 上赤羽公民館看板
お屋敷の門の中に神社 脇に用水 鎮座の杜
鎮座の杜 六地蔵 六地蔵記念碑
文化十二年1815の文字 六地蔵から見た高龗神社
被災前の旧鳥居 被災前の旧鳥居 被災前の旧鳥居
刈生田

高雄神社

市貝町 刈生田500 かりうた

[たかお神社]

使用文字[不明]

主祭神:武美那方命takeminakata (水井守護神=五穀豊饒・農業繁栄)
茂木・黒田の高龗神社から南西に2キロ。刈生田の多目的集会センターから望める山上にある。
ちょうどセンターで輪投げ遊びをしていた老人会の方々におたずねすることができた。
神社入口のお宅の方がおられて,庭に車を停めていいよといわれる。
行ってみると確かに駐車スペースはない。おことばに甘えさせてもらう。
旗杭,鉄製の朱塗りの鳥居,手水石があるが,社名を示すものは何もない。
拝殿内にも額はない。左右に小ぶりの神輿が安置してある。左に「天照皇大神宮」の札。右は不明。
石段・参道に大谷石が使われている。
眼下に田畑と低い山並みが望める気持ちのいいところ。
寛永年間1624-44烏山城主によって創立,高雄(山)大権現と称す。神仏分離で大権現をはずして明治初期に「高雄神社」に改称,明治6年に村社となる。
*『角川地名大辞典』では正保年間1644-48の創立とされている。20年程度の差。武美那方命と水井守護神は同じ。地名の刈は明治22年以前はクサカンムリつき,現在はなし。[かりうだ]と濁ることも。
*聞書では[タカオカミ大明神]で記録されている。維新の改号で「龗」ではなく「雄」になった唯一の社。江戸末期にはすでに[たかお]と呼んでいたようだ。
*沿革誌では祭神が異なり高龗神。もう一社あったのだろうか。
本殿:流造銅板葺 幣殿:切妻造亜鉛鉄板葺 拝殿:切妻造亜鉛鉄板葺 例祭:10月29日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡,高於加美大明神,苅生田,常学院
*『下野神社沿革史』(明治36年1903刊)6巻36丁
芳賀郡小貝村大字苅生田鎭座 村社 高雄神社
祭神 高龗神 建物本社間口二間四方 拜殿間口四間奥行二間 末社二社 鳥居一基 氏子三十八戸・総代員 社掌
本社創立不詳社域二百三十八坪字山の神の幽静の地に在り

『栃木県神社誌』旧版に御影石鳥居とあるが現在は鉄製,神楽殿間口三間とあるが見当たらず,場所違いかと思ったが,新版の写真と同じでまちがいない。謎である。

 

 市貝の神社目次へ 
 ページトップ