祭神:天御中主神・月読命・武甕槌命 配神:大国主命 境内社:稲荷神社・山神社・大杉神社・厳島神社 境外社:月山神社・都波岐神社 境内地:1900坪
旧地名:上都賀郡粟野村大字入粟野字尾鑿山[おざくさん]
『日本三代實録』記載の社。「卷卅四元慶二年878九月十六日戊申 以散事從五位下藤原朝臣因香爲權掌侍。是日。授…
下野國賀蘇山神…從五位下」
山一つ北東の上久我「加蘇山神社」も『日本三代實録』記載の社で,久我口から入って当社と共通の奥宮に至る。「賀蘇山神社」「
加蘇山神社」いずれも国史現在社である。
前日光つつじの湯に向かう。途中左手に「尾鑿山」扁額の鳥居。沿革誌記載の遠鳥居だろう。柱に「?和三癸?年七月」が読める。干支から享和三癸亥年1803の石鳥居である。
さらに進むと右手に寺院風の趣の石段と門が見えてくる。
粟野口の賀蘇山神社は3つに分かれている。大杉切り株のある上の宮,遥拝殿・下の宮,社務所。
尾鑿山(石裂山)岩屋の本社を合わせると4か所に分かれていることになる。さらに中ノ宮もある。
最初に出会うのは石段と神門が見えるお寺風のたたずまい。見える位置に鳥居はない。左の社号標に「下野國尾鑿山」,右手の社号標に「国史現在社・賀蘇山神社・尾鑿山」石段を上り神門をくぐると社務所。拝殿もある。
神門手前右手に鳥居。ここをくぐって風情のある小径を行くと元禄十四年1701造営の遥拝殿。
遥拝殿境内に「明和九壬辰年1772七月」の石燈籠。古そうな「道祖神」
石段を上らずに車道を少し行くと昭和八年の鳥居が見え,「↑前日光つつじの湯3km,→賀蘇山神社神代杉」の標識。
鳥居右手の「賀蘇山神社」社号標は昭和三年。
このすぐ右手に二社。「厳嶋神社」祭神は市杵嶋姫命,「都波岐神社」祭神は猿田彦命。都波岐の方は境外社で記録されている。厳嶋は境内社で,区別の理由は分からなくなっている。
鳥居をくぐって石段を上ると二の鳥居があり,正面に社殿。
社殿左手に生きていれば1900歳にはなろうかという本州一であったはずの巨杉の切り株が屋根に覆われて保存されている。
神代杉前の小祠はそのものズバリ「大杉神社」,祭神神代杉魂。
拝殿左手の小祠は稲倉魂命の「稲荷神社」
拝殿右手の小祠は大山祇命の「山神社」
社務所に続く道の途中に月読命を祀る「月山神社」
例祭:9月23日
*『下野神社沿革誌』巻三-43丁 明治三十五年1902
上都賀郡粟野村大字入粟野字尾鑿山鎭座 鄕社 賀蘇山神社 上ノ宮
祭神 武甕槌命・天御中主神・月読命 祭日四月九月春秋兩度
建物本社間口九尺五寸奥行九尺五寸 拜殿間口三間奥行二間 饌殿間口一間奥行九尺五寸 神酒殿間口九尺三寸奥行八尺 末社四社 遠鳥居一基 石華表一基 石燈籠数基 氏子九十六戸 社司横瀬武三郎同村大字同住
本社創立年月遼遠にして詳ならすと雖も 陽成帝の元慶二年878九月十六日を以て奉授 下野國賀蘇山神從五位云云 后慶長二年1597六月結城中納言崇敬し本社再建のことあり 叉神木と稱する古杉は周圍五十八尺に餘るものありて幾千歳を經たるも推して知るへからす 而るに本社舊記の如きは社司齋藤家寛永十一年1634より文政七年1824まで屡祝融の災に罹りたるにより悉く灰燼に歸したるは尚惜みても餘りあると云ふへし
本社は明治五年1872鄕社に列せらる
社傳に曰く伏見帝の御宇朝臣小野道綱故ありて本郡上河原田村に落居し本社を崇信すること厚く遂に村民を誘導して正應二年1289四月朔日を以て詣せられたるか始めにして今に該村民毎年四月一日を期とし數百人登山して舊儀古式等あり 當時小野道綱本社の破壊せるを憂ひ粟野郷粕尾郷上河原田近郷に有志寄附を募り正應三年七月朔日を以て再建落成し道綱歓喜に堪ヘす直に正遷宮を社司齋藤典七郎へ託し執行せしと云ふ
舊記賀落穗に曰く往古本地は北賀蘇(今の粟野村)南賀蘇(粕尾村にして后安蘇郡に列す)の二鄕にして都賀安蘇二郡の本原たり都賀郡は賀蘇の賀字を採り祝して都賀郡安蘇郡と稱せりと故に此山を賀蘇山と云ふ 又山内に劍の峰と云ふ所に賀の石蘇の石と稱する天造奇石の靈石突起せるあり(里俗注連石又は二見浦とも云ふ)て是れを以て賀蘇山と云へりと 故に本社を賀蘇山神と稱し五穀醫薬の守護神なりと傳ふ 又尾鑿と唱ふるは字を尾鑿澤と云ふを以てなり云云
神官は往古より齋藤氏代々奉仕せしこと明かにして貞享三年1686三月廿九日祠官齋藤氏へ従五位下を賜はり壹岐守に仕す后世襲たり 社域一千二坪高燥の地に在り古杉老檜及ひ千本桂の二株蔚々蒼々として天空に聳ひ晝尙暗く景趣頗る秀麗なり 又本社を距る一里東山岳岭々錚々たる所に奥宮あり鐡鎖に縋りて躋ること二所何れも三百尺あり又鐡梯を踏むこと四ヶ所何れも二間餘にして奥宮の前に到る 數多の鐡鎖あり此れを手繰りて漸くに逹するを得る 本社の四方は巉岩峭拔削るか如く又巨巌天に冲し天然の宮殿をなし神工鬼鑿其壯觀云ふへからす又樹木之を點綴し風色頗る絶景にして本國有名の神社なり故に遠近の信者登山するもの年に月に盛んなり噫尊むへし信すへし
上都賀郡粟野村大字入粟野字尾鑿山鎭座 鄕社 賀蘇山神社 下ノ宮
本社由緒上ノ宮に同し故に省略す
*『下野国誌』巻三 嘉永三年1850
尾鑿大権現 都賀郡袁佐久山の半腹に,岩窟二所ありて,共に神祠あり,一所ハ麓を粟野村と云,但し南面にて,神主齋藤壹岐と云,一所ハ麓を久賀村と云,是ハ東面なり,是所にハ御師と唱ふるもの五人あり,湯澤豊後,同藤大夫,同新大夫,同権大夫,荒井靱負ハ寺なり,祭神は石列ihasaku根列ノ神なりと云,粟野口にてハ尾鑿山と書き,久賀口にてハ石裂山と書く,ともに袁佐久と唱ふるなり,尾鑿と書くたに心得ぬを石裂と書くハなほおぼつかなし,石列神によらバ,石裂をよしありといふべけれども,石を袁と訓むもあたらず,或人ハ伊波の反阿となるを,初五相通にて於佐久と訓むならむといへり,さてハ於なれバ袁の假字kanaにかなハず,さて彼所の湯澤真龍か云,是ハ三代實録にみえたる加蘓山神なりといへり,そハ久賀村に隣narabiて,加薗kazono村あれバなり,三代實録に元慶元年九月十六日戊申授下野國賀蘓山神従五位下とあり
*最後の行「元慶元年」は下野新聞社活字版では「元慶二年」に修正されている。
『鹿沼聞書・下野神名帳』(1800年頃)にこの郷社であった重要な神社が記録されていないのは「都賀郡 石裂山大権現 上久我 湯沢」で記載したためである。
なお粟野では「鹿島大明神」「新宮大権現」,入粟野では「鹿島大明神」が収録されている。