八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県芳賀郡益子町長堤914

祭神:譽田別命 配神:大物主命・大山祇命・素盞嗚命
旧地名:益子町大字長堤字八幡原
康平六年1063創建の古社。平成24年に公開された嘉吉三年1443作と伝わる社宝の木製狛犬がある。小生知る限り宇都宮二荒山神社の建治三丁丑1277二月の鉄製狛犬に次いで県内二番目に古い狛犬。現行の社殿も元禄十六年1703再建のもの。
沿革誌記載の寛保三年1743建立の巨大な石鳥居は,まことに残念ながら大震災で倒壊してしまった。平成24年に新築された石燈籠脇に保存してある船木は間近に見ると,よくぞこんな大きなものが垂直のたった2本の柱で支えられていたものだと感嘆する。台座岩と亀腹も巨大。
広大な杜に鎮座し,南の永井参道の他,東,北,西にも参道が通じている。
石燈籠は長らく行方しれずだったが氏子の方々の長期探索により発掘された。経緯を記したプリントがクリアファイルに挟まれていたが,水が入って全部読めなかった。概略は「明治初期ころより所在不明だったが平成21年に数か月かけて発見,修復をして再建した。<享保七壬寅天1722四月吉日・施主長堤惣氏子・奉造立石燈爐一基○・八幡宮御寳前所願成就>が読める」と書いてある。
拝殿・本殿の彫刻は見事。
詳細は写真の文字を。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』(1800年頃)
芳賀郡 八幡大神宮 田野村 清明山
*『下野神社沿革誌』巻六-13丁 明治三十六年1903
芳賀郡田野村大字長堤字八幡原鎮座 郷社八幡宮
祭神 譽田別命 祭日八月十五日
建物本社間口一間二尺四方萱葺 拝殿間五間奥行三間萱葺 末社五社 石燈籠四基 石華表一基 神樂殿一宇 郷社石標一基 宮守舎一棟 氏子千五十戸 社司土井元文仝所住 本社は人皇七十代後冷泉天皇の康平六年1063(今を去る八百三十九年)八幡太郎源義家朝臣の創立にして戰勝の軍旗を納めし舊地なり 後文治五年1189八月右大將源頼朝泰衝追討として當國小山に至りし時義家朝臣奥賊退治の吉例として領主宇都宮朝重に命して戰勝祈願をなさしめ奥羽平定の後境内に接續せる地四十八町歩の社領を寄附ありしか後戰國の世に武人の押領する所となり社領悉く湮減す 嘉録年中常陸國佐伯山の僧徒同國徳倉布引山の僧徒と争闘し常州大に騒動し事鎌倉に聞ゆ 將軍賴經宇都宮賴綱に命し鎭撫せしむ 賴綱の四男左衛門時朝をして代り徃かしむ 時朝出陣の時當社に祈願し忽ち兩徒を掃攘し擾亂静謐に歸す 時朝其勲功により笠間の城主に封せらる 依て本社東馬塲先百三十間の敷石を寄附す 嘉吉三年1443五月宇都宮明綱本社を再建す 永禄三年1560笠間左衛門尉時朝十五代の孫羽石内藏介時政始めて田野城を築く 天正十三年1585三月結城晴朝の下知として水野谷蟠龍仝伊勢守勝隆か爲に▢落され内藏介戰死す 其兵焚に罹り宮殿除くの外別當所其他の建物及ひ寳物古書類灰燼に歸す 慶安元年1648八月徳川將軍家光社寺判物改めの砌り沿革取調の上社領五石及ひ境内山林竹木諧役免除の朱印を賜る 元禄十六年1703本社再建 寛保三年1743三月常州笠間の城主井上河内守石華表を寄進す 文政二年1819九月拝殿再建 明治十一年1878十二月神樂殿新築す 本社は中世より天台宗普門寺別當たりしか明治維新以降神職土井氏社務を司り明治六年1873五月宇都宮縣第三大區五小區の郷社に定めらる 仝十一年更に十五村の郷社に改まる 社域四千二百十四坪の境内には古樹森々として蔭をなし翠色挹るへし
平成24年鳥居 手前の燈籠は明治35年
本殿 本殿額
本殿 拝殿 拝殿
拝殿 拝殿 神楽殿
発掘された石燈籠
車が隠れるほど巨大な鳥居礎石 残念 長い参道
中央に狛犬写真
浅間神社

富士浅間神社

[ふじせんげん神社]

栃木県芳賀郡益子町長堤1725

主祭神:木花開耶比咩命
旧地名:益子町長堤西山
創立年不詳。弘化三年1846本殿再建。明治三十五年1902大暴風で倒壊したため石宮に建て替え。背後に「西山氏子一同・昭和28年1953旧十月十七日建之・石工伊東勘助」と彫られている。
平成十二年の石鳥居。石燈籠一基。
東都栃木カントリークラブのある山の頂上に鎮座。東側斜面のお宅に車を止めさせてもらって山に分け入る。クモの巣に悩まされ,汗だくで登る。道はないも同然だが,山のてっぺんを目指せというお言葉を信じて進むと舗装道に出る。この道が頂上を囲むように通っているが入口は分からなかったので適当に頂上目がけて登ると石宮が見えてきた。GoogleEarthでは茶色になっているが,現在はこんもりと生い茂っている。はるか下方に長堤の街が見える。鳥居方向を降りると階段がついていた。
例祭:11月10日前後の日曜日
富士はついていない
石燈籠
本殿背後
長堤の街を見下ろす ここを入ると階段がある 鎮座の山

 

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