加茂神社

[かも神社]

栃木県芳賀郡益子町大沢1709

主祭神:別雷大神
北中の熊野神社の並び、500m北,121号線沿いの山腹に鎮座。道路からは見えにくい。農産物直売所の駐車場に停める。額文字は消えかかっているが、加茂神社と読める。小ぶりで美しい佇まい。石鳥居があったが震災で倒壊してしまった。
かろうじて読める  
山に溶け込んでいる 左手の石祠
鳥居柱 鳥居が建っていた
愛宕

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県栃木県芳賀郡益子町大沢2492

加茂神社の鎮座する山のもうひとつ東の山に鎮座。風戸の十字路を円通寺標識で入る。円通寺を右手に見て徒歩で直進すると「関東ふれあいの道」石標が見つかる。そのまま益子駅方角に山道を歩くとほどなく右手に階段が見えるので登ると見つかる。
ここは地図はもとより文献にも見当たらない。加茂神社を探しているときに,ご近所の方に教えていただいた。感謝。
祭神は推定伊弉冊命,火産霊命。
付近の弁財天
御霊

御霊神社

[ごれい神社]

栃木県栃木県芳賀郡益子町大沢1848

主祭神:天太玉命 配神:玉依姫命・息長足姫命・大伴武日命・平影政公
境内社:稲荷神社・青麻神社・八坂神社・豊受神社
由緒は平成12年の御影石碑の写真と下記『下野神社沿革誌』を。
まだ文字もない西暦110年頃の創建と伝わる古社。実態は『日本書紀』成立後に景行天皇の事績にあてはめて縁起を起こした。
御霊の読み方は『栃木県神社誌』(昭和39年)では[みたま]とルビが振ってあったが新版では[ごれい]に訂正された。
保存されている巨木の切株は天文三年1534に植えられた杉の中の一本だろうか。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡 御霊神社 大沢村 景政寺
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 6巻20丁
芳賀郡七井村大字大澤字御靈 村社御靈神社 祭神天太玉命 玉依姫命 息長足姫命 大伴武日命 平景政靈 祭日陰暦九月十九日 小祭正月十五日/六月十五日
建物本社間口九尺奥行六尺小羽葺 幣殿間口九尺奥行六尺 雨覆間口三間奥行二間 拜殿間口五間奥行二間萱葺 神庫間口三間奥行二間 華表二基 石燈籠二基 水盤一基 末社三社 花崗石旗杭一基氏子中一基地元氏子明治三十五年1902九月奉納 寳物神鏡一個神釼一口古額一正徳二年1712領主曲直瀬養安院自書武運長久を祈る爲に奉納 大額一明和八年1771十二月奉納正二位卜部朝臣兼雄の筆 氏子百十戸 社掌大久保登仝所住
社傳に曰く 本社は人皇二代景行天皇の御宇日本武命東夷東征の歸途此地を過き將に常陸國に入らんとせしに残賊尚所在に出没し良民を苦しめ或は王師に抗し未以て全く鎭定に至らす 命深く之を憂ひ稗將大伴武日命を留め鎭撫せし所にして當時東國鎭護の爲に斎き祀りし社なりと傳へあれとも祭神玉依姫命息長足姫命なれは後人の祀しこと明らけし 後又大伴武日命を合祭す 寛平年間889-98源義家奥賊追討の時本郡古家郷に宿陣し其將平影政に命し此地の神祇を求め奉幣し戦捷を祈らしむ 影政土人に質し本社の祭神東征の功臣大伴武日命なるを知り之を義家に復命す 義家偶然の嘉兆を懌ひ祠を修し鏑矢二本を納め以て武運長久を祈願せしむ 後影政の後裔梶原平三景時領邑を本國に得るに依り(都賀郡小薬村にして嘉吉年間1441-44より天正1573-の頃まて古河公方に属し梶原美作守と稱し其故城址今尚存す)追慕の情禁する能はす右大將源頼朝か祠を建てゝ祀りし例に倣ひ(東鑑に曰く相模鎌倉有影政祠建久五年1194源頼朝使八田知家奉幣祭之云云)本社に影政の霊を合祀し御靈権現と改稱し別當を置き(別當の寺号を其名に因みて)影政寺と命し春秋二仲の祭典を執行せしか梶原氏滅亡の後は影政十二代裔孫大澤治郎左衞門景勝襲て之を崇敬し世々祈願所となす 天文三年1534二月本社を修繕し當時植付し杉は今尚大樹となり中天に矗立せるも惜むらくは宮殿は延寶二年1674正月祝融の災に罹り古記録什寶悉く灰燼に歸す 元禄元年1688十二月氏子里民の協力に就り以て遷宮の式を挙行せしは仝月二十八日なり 明和八年1771神祇官領より大明神號賜はらる 別當影政寺は明治維新に際し復飾し神職を以て今に奉仕怠たらす 社域七百八十九坪外に三坪高鹽惣平佐藤俊明浦壁喜三郎奉納し境内平地にして古杉森々と繁茂し幽邃にして雅致あり

一の鳥居 二の鳥居 三の鳥居
正式な靈字 大正十二年1923狛犬  
境内社5社 大正十三年1924に合祀した月山神社・加茂神社も  
切り株保存庫 巨木の切り株
天保十二年1841手水石 由緒書き

 

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