主祭神:豊城入彦命 配神:大物主命・事代主命
・『続日本後紀』承和三年836十二月丁巳条,奉授下野国従五位上勲四等二荒神正五位下,承和八年841二荒神正五位上,嘉祥元年848二荒神正四位下
・『日本文徳天皇実録』巻九 天安元年857十一月庚戌在下野国従三位勲四等二荒神充封戸一烟
・『日本三代実録』貞観元年859正月二十七日甲申条,下野国従三位勲四等二荒神正三位,貞觀二年860九月十九日下野國正三位勳四等二荒神社始置神主
836年から国史に記録された由緒のはっきりしている有名社。
吉野朝時代の白星兜,建治三年1277の鉄製狛犬が保存されている古社で,規模も大きい式内社であり,詳しい紹介は多数あるので,そちらに譲りたい。
大通りに面して木製明神鳥居が立ち,広前の東西両脇には,かつて「うえのさん」と呼ばれた百貨店があった。2000年末に破産したため,跡地を更地にし,西に高層マンション,東に商業ビルを建築するにあたり,境内広場を石敷にして整備した。その後2008年10月12日に栃木県産の欅を用いて高さ9.7mの両部鳥居が新築された。
日光の二荒山神社は[ふたらさん神社]と称すが,宇都宮の二荒山神社は[ふたあらやま神社]が正式。市民は「うえのさん」と同様[ふたあらさん]と「さん」づけで呼ぶので,読み方を[ふたあらさん神社]と誤解している方も多いが,それでも[ふたらさん]とはいわない。往古に宇都宮大明神と称したため[みょうじんさま]と呼ぶこともあったといわれるが,近年は聞いたことがない。
江戸時代の地図を見ると,中心部は神社が広大な面積を占め,参道南部の宇都宮城より広かった。城下町でもあったがむしろ門前町であった。
▉拝殿左手に女体宮(三穂津姫命)が鎮座するので,良縁・安産祈願にぜひ。お賽銭を忘れずに。
となりの,本殿左手奥に十社(県内式内社の神・看板写真参照・二神めの表記は『古事記』ふうに天兒屋命,『日本書紀』では天兒屋根命)。
朱塗りの鳥居群があるのは初辰稲荷神社(倉稲魂命)。ここにある石燈籠に刻まれている天明五年1785の文字が二荒山神社境内の中でいちばん古い。
拝殿右手に「お天王さん」と呼ばれる須賀神社(素戔嗚命),となりに市神社(大市姫命>『古事記』に大山津見神の娘として神大市比売[かむおほいちひめ]と表記され宇迦之御魂神と大年神の母)。須賀神社前の石燈籠は弘化三年1846。
▉2017年9月に県立博物館の「中世宇都宮氏」展に宝物の鉄製狛犬が展示された。和犬でおとなしそうな表情。背中に「建治三丁丑1277二月 吉田直連施入」の文字が見える。小生知る限り県内最古の狛犬で,次いで2番目に古いのは益子の長堤八幡宮の嘉吉三年1443木製狛犬である。いずれの狛犬も秘蔵され,ふだんは目にすることができないので知られていないが,特筆すべきことである。東照宮の寛永十三年1636,青龍神社の明暦四年1658が有名な狛犬だが,それより359年前の超貴重品。
同展では「奉修理明応七年戊午1498十二月十五日神主藤原下野守成綱」棟札も見ることができた。
記念碑・歌碑なども多数奉納されている。境内配置図や宝物写真,塩谷町喜佐見分祠解説も載っている
当社のホームページをご覧いただきたい。
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『下野神社沿革誌』5巻49丁 明治三十五年1902刊
河内郡宇都宮市鎭座 國幣中社 二荒山神社 祭神豊城入彦命 大物主命 事代主命 宮司正四位子爵戸田忠友
本社は延奉(→喜)式内にして往時下野一の宮と稱す 明治五年1872縣社に列せられ次て國幣中社に昇格せらる 境地は市の中央に突起したる一高丘にして頂上に本社拜殿幣殿額殿神樂殿末社寶庫社務所等ありて社殿構造輪奐宏壯にして嚴粛人をして崇敬の心を生せしむ 此地甚た眺矚に富み遙に芙峰の白皚々たるを指し近くは筑波峰尖の碧⾭々たるを眺め西北には黑髪の連山正に呼へは答へむとす 亦眼下には全市街を俯瞰し手を以て攫み得へく脚を伸へて踏藉し得るか如し 境内には櫻樹を植ゑ春時に到れは萬花亂發遠望すれは霞の如く近けは瓔珞を綴るに似たり 實に此市の一勝地なりとす 故に日々士女の登拜するもの絶ゆることなし
祭神:豊城入彦命
二荒山神社の元になった由緒ある古社。かつては現在の二荒山神社から南に尾根が続き,パルコあたりが盛り上がっており「池辺郷荒尾崎」と呼ばれた。別名を「小寺峯」といい,北西に鏡ヶ池が広がっていた。
崇神天皇の皇子豊城入彦命がここ小寺峯に三輪山の大物主命を勧請したという説によれば,推定2000年ほど前,つまり文字もない時代の創建と長く信じられてきた。
豊城入彦命から数えて四世から六世代後の下野国造・奈良別王による創建説によっても1600年ほど前の古墳時代の創建となる。
承和五年838に北峯の「臼が峯」に遷座し,後年「宇都宮大明神」と称したのが現在の二荒山神社である。臼が峯はこれによって「明神山」と呼ばれるようになる。発祥の地はそのまま「下之宮」として残され,お城から見て二荒山神社参道・明神馬場の北の先右手にあって西面していたが,本多正純が二つの峯の間を削って東西に大通りを造成した際に参道ともども分断された。
(このあたりは
宇都宮市のホームページをご覧いただくと図解されているので一目瞭然です。)
1919年に宇都宮藩主となった正純は1622年に「釣天井事件」で失脚するが,秀忠暗殺画策の罪状以外に本丸石垣を幕府に無断で修理したこと,抜け穴を掘ったことが取り上げられている。したがって1620年前後に「大通り」を造成したことになる。
明治五年1872に戊辰戦争の死者を祀る「招魂社」が下之宮境内に建立される。招魂社は昭和15年1940に作新学院北の一の沢に遷座し,昭和22年1947彰徳社,昭和28年1953栃木県護国神社と改称する。
宇都宮は昭和20年1945に米軍の無差別空爆を受ける。戦後の復興期には,下之宮脇には「仲見世」と呼ばれた,大通りからオリオン通りまで南北に屋台を何十台も並べたような露店がずらりと並び,隣接して映画館や花屋敷などができ,県内随一の賑わいをみせることになる。昭和20年から昭和35年ころまでのことである。東京オリンピックを控え,昭和36年1961の都市計画で小さな丘だった小寺峯も平らに削られ,小ぶりの社殿が新築された。
その後,平成9年1995年3月8日に都市再開発によりパルコ西入口にコンクリート造りを主体に本殿が改築され,拝殿が新築された。桜花咲き誇るころ境内一面雪に埋もれるが如き風情はなくなったが長持ちしそうだ。
2010年ころにも年寄りは下之宮ではなく招魂社と呼んでいた。
なお,境内にあった「およりの鐘」は昭和19年1944に駅前の宝蔵寺に移されている。
*『下野神社沿革誌』5巻49丁 明治三十五年1902
河内郡宇都宮市鎭座 官祭 招魂社 祭神宇都宮藩主戸田忠恕 宇都宮藩士六十二人鹿児島藩士十五人山口藩士二人鳥取藩士七人彦根藩士四人 祭日四月十五日 社掌角田十郎
本社は明治五年1872十一月の勸請にて舊宇都宮縣知事戸田忠友及ひ同藩士一同の創建にして戊辰東征の役大義の爲に斃るゝものを祀りしものにて…境地は馬塲町臼ヶ峰の頂上に本社拝殿社務所等ありて境内には櫻樹を植へて社殿を圍繞し花時には滿地雪に埋もるゝか如く冷香水の如く人を撲て來り亦四方眺望絶奇なるを以て市中の子女來り遊ひ亦日々詣するもの少なからす
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本殿 |
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作法 |
由緒 |
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本殿 |
手水舎 |
二荒山神社鳥居が見える |
■延長五年927十二月成立の『延喜式』巻三. 神祇三. 臨時祭に「二荒神社一座. 下野國」
『延喜式』巻十. 神祇十. 下野國十一座. 大一座. 小十座に「河内郡一座. 大. 二荒山神社明神大」
2020年から遡ること1093年前に小生でも読める字で中央の律令の細則を定めた三大格式の一に記録された。巻九と十を『延喜式神名帳』と呼ぶ。「河内郡の二荒山神社」と記されたが,宇都宮と日光でそれぞれ当社こそ式内社であると主張している。
これには明治維新が大いに影響する。改元4か月前の慶応四年1868神祇官通達で権現,牛頭天王など仏語を神号とすることを禁止したため,栃木県では89%が「xx神社」に変更された。
このとき由緒も調べてお上に提出せよということで,どちらもすでに江戸時代には二荒山神社を名のっていなかった宇都宮大明神も日光三所/社権現・日光大権現も『延喜式』を根拠に「二荒山神社」で登録したことが混乱の原因になった。(正確には日光に神仏分離が実施されたのは明治四年1871一月)
日光は「都賀郡」であり修験道の聖地として認知されていたが,神社としては「河内郡」の宇都宮(宇豆宮,宇津宮)の方が妥当ではないか。
式内社論争については近年刊行された『栃木県神社の歴史と実像』(影山博,2019)『日光の三神』(吉野薫,2018)に詳しい。両氏とも式内社には宇都宮が妥当と述べておられる。
二荒山(男体女峰二霊峰)を遥拝するには宇都宮は遠すぎないかと思われるだろうが,勝道上人生誕の地芳賀からも二峰は遠望できるし,宇都宮からは冬場は特に霊峰にふさわしく白銀に輝いて望めるので,二階建ての文化住宅はもとよりビルジ!ングもなかった大昔はいかような光景が広がっていたか。
(補陀落>二荒説はいかにもありそうだが,補陀落が語源なら和歌山をはじめ全国に二荒が蔓延したに違いない。補陀落が二荒の文字に転換されるのも違和感がある。下野訛りと言われれば引き下がりますがw)