日吉神社

[ひえ神社]

栃木県宇都宮市古賀志町352

主祭神:大山咋命 境内社:磯部神社・粟津神社・中殿神社・八幡神社・祓殿神社・猿田彦神社・愛宕神社・稲荷神社
大谷街道・城山西小学校の東,大谷街道沿いに正徳四年1714の古賀志石製鳥居が堂々たる風情で立っている。比叡山の坂本山王を勧請し長治元年1104に創建。江戸時代には山王大権現と称したが維新に際して日吉神社に改称した。鳥居脇の由緒書きにある祭神は日偏になっているが大山咋命で『下野神社沿革誌』に合致する。『栃木県神社誌』昭和39年版の大山祇命は誤植か。
『古事記』によれば大山津見神の娘の神大市比賣かむおほいちひめが須佐之男命との間に大年神を生む。大年神が天知迦流美豆比賣あめちかるみづひめを娶って大山咋おおやまくひ神を生む。つまり大山祇おおやまつみ神(日本書紀の表記)の孫が大山咋神,別名山末之大主神である。『古事記』では続けて「此の神は近淡海国の日枝の山に坐し,亦葛野の松尾に坐して,鳴鏑を用つ神ぞ」とあり,そこから日枝神社と松尾神社の祭神として祀られる。戦前まで日吉は[ひえ]と読んでいた。[ひよし神社]にかわった社もあるが,[ひえ神社]のままの社も多い。『栃木県神社誌』の読みは,ここは[ひえ神社]。
氏子の方のご好意で拝殿内を見せていただくことができた。嘉永三年1850再建の本殿には見事な彫刻が施されている。
天保十年1839狛犬,石工北条新右衛門。安永元壬辰1772と安永七戊戌歳1778御神燈。
文化九年1812手水石。天保七丙申1836石燈籠。もうひとつの手水石には「北条三郎左エ門吉道/享保十二己未年1727九月/其後及大被再立/同三郎左衛門吉典/天保三壬辰年1832」と刻まれている。名主北条家の甚左衛門のときにはじめて古賀志石を切り出している。その13年後に古賀志石で手水石をつくり105年後に修理したのだろう。天保十年1839狛犬台座にも三郎左エ門の名が願主として刻まれている。
拝殿左手に猿田彦神社・八幡宮・愛宕神社・稲荷神社石祠。さらに祓殿神社・中殿神社木製祠。
左端の庚申塔は「元文五庚申年1740」「万延元年1860」
拝殿右手に中殿大神と日吉大権現木製祠,右端の大きい社は磯部大神宮。
本殿左右の狛犬は「享和二壬戌年1802四月三日・北条文吾伯壽」
例祭:11月3日 842坪
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
河内郡 正一位山王大権現 古賀志 大柿善之亟
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902 5巻35丁
河内郡城山村大字古賀志字堀之内鎭座 村社日吉神社 祭神大山咋命 祭日一月七日九月十九日 氏子百十五戸総代三員 社掌大柿福壽 建物本社間口八尺七寸奥行一丈一寸栃葺嘉永三年1850十月再建 雨覆間口三間奥行四間檜皮葺 石華表一基 末社四社 社務所一棟
社傳に曰く當社は長治元年1104四月八日下野權守藤原宗綱城内守護神として古賀志山の字高古屋に勸請せしか濫觴なり 天正年中1573-92野火の爲に宮殿祝融の災に罹りたるにより今の社地に遷座せしむ 社域五百五十五坪高隆の地にして東西北は古賀志の峻峰突兀として半霄に聳ひ南田野に望み里道より北に入る二丁餘石磴三段を登り本社に逹す 現在の本社は頗る巨大にして壯麗なり 其他石の華表石の唐獅子左右に相對し石水盤に至まて悉く具備せり 社寳には古鏡三面を藏す

由緒 用水に架かっていた橋
狛犬台座
安永元壬辰1772
安永七年1778
文化九年1812手水石 「日吉神社」額 拝殿西側
本殿 本殿 200年以上前の狛犬
見事な細工 本殿浮き彫り
本殿浮き彫り 拝殿内 大谷街道方面
社殿左手 社殿右手 天保三壬手水石,天保七石燈籠
星の宮神社

星の宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県宇都宮市古賀志町711

主祭神:磐裂神・根裂神
城山西小学校入口道路向かいに案内板があり,7枚目に「04.k星の宮神社」とある。細道を入っていくと「昭和34年・暗渠排水竣工記念碑」脇に5枚の案内板,3枚目に「星の宮神社0.1k」とあるので分かりやすい。
鳥居柱に「明和六己丑1769九月」。「天保十二辛丑年1841」手水石。覆屋額に「虚空蔵様/星の宮神社」とあり,「の」が付いている。
右手の朱色木鳥居の石祠には「天皇祭」の立て札が建てられ,石祠背面に「牛頭天王宮一宇新造・明和八辛卯歳1771」
その右手に立派な玉付き道祖神。
左手に昭和31年1956建立の「火防神」石祠。
鳥居左隣に「享保七壬寅年1722念佛供養石塔」「万延元年1860庚申塔」など三基。
なお鳥居脇の写真付き解説板に鳥居は天明六年1786と書かれていますが,写真のようにもっと古く「明和六己丑1769九月」とはっきり刻まれています。
「の」つき
社殿右手 牛頭天王宮 牛頭天王宮
牛頭天王背後 黒光りの道祖神 牛頭天王背後
火防神 火防神由来
庚申塔 解説板
明和六である この案内板を左に入る
不明社

?神社

[?神社]

栃木県宇都宮市古賀志町561

城山西小入口の右手に鎮座。狛犬と石燈籠がそれぞれ一対。二つある石祠のひとつは弁天宮。詳細不明。
木立に紛れて
弁天宮 右手の森に鎮座,正面城山西小と古賀志山
稲荷神社

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県宇都宮市古賀志町1464

主祭神:倉稲魂命
鳥居柱に「稲荷講中一同」,推読,明和八年1771か。石祠が一基あるのみで,他には何も見つからなかった。詳細不明。この少し西にも稲荷神社がある。
稲荷講中一同 ?八年?月十七日
稲荷神社

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県宇都宮市古賀志町1737

主祭神:倉稲魂命
元永年間1118-20の創立。
東にある日吉神社に立てられた標識に「稲荷神社2.2k」とある社がここ。パラグライダースクールの先右手に「風雷神社鳥居0.4k・稲荷神社0.1k」の標識が立っている。
平成8年の石鳥居の奥に社殿が見える。赤岩山麓の昼なお暗き広大な杉木立が広がる。すがすがしい静寂の中に,ひっそりと鎮座。
石階途中に「享保十二未1727二月吉日」手水石。右手の巨岩脇に木製祠。石段頂上左に年代不詳の円柱の石製燈籠が危なげに立ち,対の右手は落下して祠脇に横たわっている。
社殿左右にそれぞれ石祠一基ずつ。社殿は隙間がなく何も見えないが,側面からフラッシュ撮影したところ本殿の屋根の一部が写っていた。檜葺き?か,かなり大きそうな本殿。
稲荷大明神と称したが維新に際し稲荷神社に改称した。平成八年丙子二月の鳥居には往古の呼称の大明神額が架かっている。
正一位稲荷大明神 解説看板
1727年の手水石 右手の石祠
本殿屋根 背後の山
右手 左手 鳥居を見下ろす
本殿への石段 大谷街道から 風雷神社入口の標識
星宮神社

星宮神社

[ほしのみや神社]

栃木県宇都宮市古賀志町1672

主祭神:倉稲魂命
大谷街道から南西に武子川に向かって300mほど右手に,このあたりに特徴的な朱色の鉄製鳥居が見える。その前に立てられている虚空蔵様解説板に載っている神社の写真は以前のもので,現在は真新しい石祠に建て替えられている。
星宮神社神璽
杉の向こうに古賀志山
鳥居の先に古賀志山 虚空蔵様解説
古賀志山
古賀志山の神社
城山西小学校から唐沢池を右に見て古賀志山登山道に入るとすぐ右手に「奉建参○・寛延四辛未天1751・霜月吉祥日」石碑があるが中央の4文字目以下が読めない。瀧神社の参道整備記念碑。ついで古賀志山中に鎮座する「瀧神社」の一の鳥居が見える。柱に「瀧大権現御寳前/享保十一年丙午1726立冬吉祥日 古賀志邑/天保九年戊戌1838十一月吉日再建○石工割大工三人」
さらに登ると右折する角に石祠3基:湯殿山神社,御嶽山神社,古賀志山神社。山中にお参りするのがたいへんなので,平成になってここに三社遷座したらしい。
古賀志山の高峰のひとつである御岳山頂には「御嶽神社」が鎮座する。
古賀志山南登山道入口を左手の大日堂方面に入ると「風雷神社」鳥居に至る。この上の風穴と割れ目にそれぞれ風神と雷神を祀り,合わせて風雷神社と呼ぶ。風雷神社鳥居には大谷街道から入ってもたどり着く。
この他にも山ノ神を祀った石祠が複数あるらしい。
古賀志については『古賀志の里歳時記』の著者池田正夫先生が神社も含めて詳細な研究をなさっておられるので,素人があらぬ風説をまきちらしてもいけないのでこの辺で。
寛延四年1751石碑 瀧神社鳥居 瀧神社
年号が2行 正面に石祠 湯殿山,御嶽山,古賀志山神社
風雷神社鳥居 鳥居から見たハングライダー

 

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