龍神社

[りゅう神社]

茂木町もてぎまち・河井1987

主祭神[高龗神たかおかみのかみ

旧地名:芳賀郡茂木町大字河井1987
主祭神:高龗神[たかおかみのかみ]
牧野まぎのの大杉神社から中川小学校の前を大藤橋で那珂川を渡り,小井戸方面200mあたりを左に入る。稲田の間を山に向かうと突き当たるので駐車。
目の前に上り口があるが,右に行けと聞いてきたので右手を見ると旗杭らしきものが。
入口はちょうど谷になっていて草が生い茂っていて地面は見えない。さて,どうしたものか,6月5日の10時,曇天,午後から雨の予報を信じて登り始める。昨日の雨で土砂がぐちゃぐちゃ。足首まで泥につかって靴の中に水がしみこんでくる。
他に逃げ道はないのでしばらく上ると,暗い登り坂の上の方に光明が差している。一旦登りきったところで左右に登り口らしき,といっても45度も傾斜のある単なる濡れた土の傾斜。
「二連の高い丘の頂上」という情報をたよりに,まず左手を選択。ほどなく上方に祠が見えて,一人歓声。
20畳ほどの広場になっていて,周囲の木立の中で多数のウグイスが贈答歌のやりとりをしている。
27号線沿いのお宅でお尋ねした方が,「この春もお祭りの誘いがきてたけど,もう10年も行ってないよ」とおっしゃった意味をかみしめながらしばしの休息。新緑の勢いで下の方に見えるはずの河井の民家は見えない。
こちら左手の背丈ほどの社は「雷電神社」であった。
すると同じシチュエーションで反対側に龍神社があるはずだ。分かれ道に戻って右に上り始めるとほどなく同様の祠が見える。龍神社である。もっと距離が離れているのではと予測していたが,実際は雷電神社のすぐ隣りである。V字に谷をはさんで60mくらいしか離れていない。
2社とも元は別の場所にあったらしい。雷電神社(大雷神)が大正6年6月15日,龍神社が大正12年4月19日に遷宮された。同じ氏子さんによって雨乞い雷除けと,雨乞い大雨除けの神さまとして奉斎されている。
質素であるが,祈雨の儀礼にはこのくらいの大きさの祠がぴったりで,静謐清浄な山上に末永く鎮座していただきたい。
ここから120mくらい離れた別の山頂に両部鳥居のある河井の八幡宮が鎮座する。境内社に加茂神社があり,祭神は高龗神の可能性は高いが,言い伝えがない。
本殿:流造銅板葺 例祭:4月17日に近い日曜日
道の突き当たりに駐車 登り口 近づいてきた
左=雷電神社,右=龍神社 龍神社 風で飛ばされないように重石が
こちらは雷電神社 龍とほぼ同じサイズ 町の方向を見下ろす
雷電神社の文字 入口近くから 入口に戻る
八幡宮

八幡宮

[はちまんぐう]

茂木町河井八幡山2635

祭神[誉田別尊ほんだわけのみこと


境内社:足尾神社・八坂神社・青麻あおそ神社・加茂神社/龍神社
中川中学の前を山側に入り,隧道の手前の目印も何もない細い山道に入る。杉の伐採中で平日であれば入れなかった。かなりの急坂。以前は歩くしかなかったが,現在は車で登れる。心臓の弱い方は歩いた方がいいだろう。車で転落したらあの世なので。こんな高い所によくも神社を造ったものだ。
天平宝字元年757創建と言われる古社。看板写真参照。別の縁起(『栃木県神社誌』平成18年版)では永保元年1081源義家が奥州討伐の途次八幡神を勧請して戦勝祈願をしたことに始まるという。
鳥居からの眺めは素晴らしく,はるか芳賀富士が望める。ちょうどアマチュア無線で災害時の通信テストに来られていた方によると,運が良ければ太平山が見えるという。
檜の両部鳥居。石段を登りきると「奉納常夜燈享保四x正月吉祥日」1719と「天保十五甲辰四月吉x納 當郷世話人」1844の手水石。300年前に石燈籠を運び上げたのか,切り出した石を刻んだのか,いずれにしろ苦労が偲ばれる。
拝殿額は大字で「八幡宮」拝殿内に着色板絵が数枚見える。大正期か。
本殿の昇龍の鉤爪が見事な造形で,柱に食い込んでいる。側面,背面の彫物もいい。
拝殿右手に青麻神社,左手に八坂,足尾,加茂神社。どれも大理石の新しい社号標が付けられている。 足尾神社は茂木では小深に1社。
加茂神社は『栃木県神社誌』旧版には掲載されておらず,かわりに「龍神社」が記録されている。 「プチ神楽殿」の方が「龍神社」の社名札を確認なさっているので,「加茂神社」は最近になって置き換えられたようだ。理由は分からない。平成以前の情報を信じて,祭神が高龗神である可能性のある龍神社を境内社とする神社として取り上げておく。
本殿覆屋内の左右にも小祠が2社祀られている。同じ河井地区の隣りの山上に高龗神たかおかみのかみを祀る龍神社がある。
例祭:8月15日 河井のささら:2018年は9月17日に舞が奉納された
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
芳賀郡 正八幡大神宮 川井村 長寿寺
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・30丁
芳賀郡中川村大字河井字八幡山鎭座 村社 八幡宮 祭神 譽田別命 祭日陰暦八月十五日 建物本社間口四尺奥行五尺 雨覆間口三間奥行二間 拜殿間口三間奥行二間 末社五社 華表一基 氏子百十餘戸 社掌瀧田平馬仝所住
本社創立遼遠にして詳かならすと雖も地方の一名社にして明治六年1873郷社に定めらる 仝十年八月區畫改正の際村社に列せらる 社域三百三坪字八幡山頂に在りて滿山松柏落々と茂生し四顧洞達常野甲信の巒峰(←峰巒ほうらん)悉く双眸に集り西南に遠く冨嶽を望み眼下に那珂の長流を下瞰し眺矚に富むるの境なり 毎年例祭には古風の獅子舞あり 社有財産田壹反九畝十五歩を有す
板絵が見える 由来書
鉤爪
青麻神社
右から足尾,八坂,加茂神社 加茂神社 八坂神社
左五行川
青龍神社

青龍神社

茂木町・所草266

[せいりゅう神社]

主祭神[高龗神たかおかみのかみ

旧地名:芳賀郡茂木町大字所草ところぐさ字寺
主祭神:高龗神[たかおかみのかみ] 配神:倉稲魂命[うかのみたまのみこと]
茂木の町からは北の方に7キロほどのかなりの高地に鎮座。
創立不詳だが,須藤十郎友隆が築いた山口之館跡地に創建され,後に現在地に遷宮したと伝わる。
寛保元年1741九月吉日に本殿を建立している。
「所草」入口の標識の右手で,ちょうど田植えをなさっている方にお尋ねすると,まさに青龍神社の氏子の方だった。観音堂が一緒になってるから,中も入って見るといいとお許しをいただく。
上の写真の青が拝殿で,その右手の赤屋根が観音堂。「十一面観世音護摩供養寄附連名次第」の額が掛かっているので十一面観世音菩薩。
古そうな木彫が一体,合掌木像と緑の着色の残った僧形の像が計2体。
古くは「清瀧大権現」と称した。維新前の別当は延命院,大僧都法印行慧が奉仕した。
元文二丁巳1737や寛政七1795(なぜか甲卯に見える。寛政七は乙卯)の棟札が見える。
本殿:神明造トタン葺 幣殿:神明造板葺 拝殿:神明造トタン葺
例祭:11月10日前後の日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・34丁
芳賀郡須藤村大字所草鎭座 村社 青龍神社 祭神 高龗神 建物本社九尺四方 氏子二十一戸
本社創立不詳 社域百六十八坪淸洒の地に鎭す
かなり上だ 「青龍神社」の額 石碑
左手から回って登る もう少し
石祠の右は井戸 石塔数基
観音堂 観音堂内 鳥居付き神輿
かなり古そうだ 写真の中央あたり
浅間神社

浅間神社/富士浅間宮

[あさま神社 ふじあさま宮]

茂木町烏生田408 うごうだ

祭神[木花咲耶姫命このはなのさくやひめのみこと

主祭神:木花咲耶姫命
ここに取り上げた理由は『栃木県神社誌』昭和39年2月11日発行記載の由緒沿革に「高龗山たかおさん法院」の文字が現れるからである。
「文政元年1818九月吉日須藤村大字大瀬権現堂より烏,生田富士山に一羽の白鳥が御幣をくわえて飛来せり。よって字民大いに不思議に思い直ちに神官に依頼し,祭祀を執行せしに,神官は富士浅間神社と称し,その年宇都宮治兵衛より富士浅間と書したる一幅を高龗山法院を通じ下せり,その翌年より旧九月十八日を祭典日と定め,氏子崇敬を集め現在に及ぶ」
生田(富士)山と烏から,烏生田[うごうだ]の地名とし,どこからか呼んできた神官の管轄する社を社名として富士浅間神社としたのである。生田山は字塩郷の富士山。
高龗山法院というからには仏教系の寺院があって,宇都宮治兵衛が社名書をその寺に渡したのだろう。烏生田には曹洞宗の昌福寺があったが今はすでにない。
付近にある九石さざらし高龗神社たかおじんじゃは明治以前は五所大明神だったので,関係があるとすると大瀬の高龗神社か。享保三1718年の手水石が残っているとても古い神社なのだが,記録がまったく見つけられない。茂木には他に河井森下と黒田に高龗神社が鎮座する。

烏生田の消防施設にいらした方に神社の所在をおたずねすると,「民宿たばた」の方が居合わせ,「それ,うちの神社だ」といって案内してくださった。感謝。「高龗山法院」については不明とのこと。
昔は杉だった神明鳥居は石製に。繊細な印象の年代不詳の石燈籠。拝殿額は「浅間神社」,額の隣りの蜂の巣が巨大。
鳥居右手に年代不詳(明治期か?)の「奉待十三夜供養」,左手に「太子尊・明治二十九年1896」,「大黒天・明治九年1876當村・子十一月講中拾九人」
本殿は近づけないのではっきりしないが,板葺である。

さて,社殿右手から奥の宮に登れるらしいので挑戦。ところがこれが難儀。石段があったらしいがすでに崩れており,立っているだけで転げ落ちそうな急坂,45度だと思えばちょうど。鉄の鎖が張ってあり,これをたよりにしばらく登る。途中であきらめようかと思ったが,下を見ると怖いので5回休憩してひたすら登坂,やっと祠が見えてきた。
見えたのは旧祠で,その奥に現在の本殿が鎮座。「富士浅間宮」の額文字。
まさに頂上で両側は切り立っている。
「あさま」の呼称は『栃木県神社誌』による。
本殿:神明造板葺白木塗 拝殿:神明造鉄板葺
例祭:旧9月18日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・34丁
芳賀郡須藤村大字烏生田鎭座 村社 淺間神社 祭神 木花開耶姫命 建物本社一間一尺四方 氏子二十三戸
本社創立不詳 社域百坪字鹽郷の淸洒の地に在り
石製鳥居 大きな蜂の巣
浅間神社 本殿
きれいな石組み この右手を登る 登山のための鎖が・・・
途中の祠 両サイドに注目
こちらは富士がつく
かなた下方に那珂川 嵐に耐え
左2本は垂直,他の木は・・・
なにやら恐ろしげな文字が 民宿たばた
大杉神社

大杉神社

[おおすぎ神社]

茂木町・牧野958

祭神[高龗神]

主祭神:高龗神たかおかみのかみ(?大物忌命)
旧地名:芳賀郡茂木町牧野まぎの958
ふるさとセンター茂木から東へ800m,那珂川をはるか下に見下ろし,中川小学校を右手にして大瀬に向かって下る坂の右手に石製鳥居。
平成三年石鳥居右手に地蔵尊祠と阿夫利神石碑。
昭和十年1935に寺山の赤石で造営した堅固な石段に緑の苔が美しい。見上げるとかなり上まで続いている。6月5日にウクグイスが鳴き交わす。聞き分けると最低でも5羽はいそうだ。山の斜面の石段なので左右に樹木が生い茂り,すぐそば3mあたりで鳴き声があがる。
拝殿の格子から覗くと奥に仄かに本殿。暗くて見えないのでフラッシュ。
拝殿右裏手の頭上に阿夫利あふり神社。左手にも覆屋のついた社があるが不明。そのうえ土台の横木から蜂があふれだしてうなっているので近づけない。あきらめると左手細道の奥に木の間隠れにもう一社見える。途中に石祠と木製祠。
大杉神社社殿とほぼ同じ造り。社名はない。しかし見下ろすと肩幅ほどの石段のはるか下に木製朱塗りの鳥居が見える。額文字でも見えないかと意を決して降りてみるが掲額なし。その先は草に覆われて危なそうなので石段を登って引き返す。
大杉神社真下のお宅で70前後の方にお尋ねすると,大杉神社には高龗神たかおかみのかみを祀っているという。神社誌記載の大物忌は分からず。御祭神をお聞きしたわけではなく,話の流れの中でさりげなく高龗神の名が出てきて,あわてて確認したほどなので,大物忌は相殿神か,もう一社の方か,あるいは栃木県神社誌の原稿を書いた宮司さんが入郷の大杉神社を兼務なさっておられるので,入郷の祭神に統一してしまった可能性もある。ちなみに100年前は大山祇命おおやまつみのみことで記録された。
朱塗鳥居の方は個人の崇敬社で,大杉神社より古いのではないかともおっしゃっておられた。昔は春と秋にどっちもお祭りをしていたが,もう秋だけになってしまった。若いのはやることが他にたくさんあるから,神社はたいへんだ。年取ってくると見直すようになりますよ。そうだな,たしかに自分もそうだった。今までやってこられたのだから,なんとかなるか。よーく写真撮っといてくれ。感謝。
大杉神社から那珂川を挟んだ向かい側の山頂に高龗神たかおかみのかみの龍神社が鎮座。
本殿:神明造木端葺 拝殿:寄棟造鉄板葺?亜鉛葺
例祭:11月23日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻六・32丁
芳賀郡中川村大字牧野字明神山鎭座 村社 大杉神社 祭神 大山祇命 建物本社間口一尺八寸四方 華表一基 氏子六十四戸惣代三員 社掌瀧田平馬
本社創立不詳 社域百五十坪高燥の地に鎭す
雑木が生い茂る まだまだ続く石段
本殿が見える。 明治期の手水石 那珂川方面を見下ろす
阿夫利神社 左手は不明 石祠は神明社
大杉神社と似た造り 木製の本殿
下の方に鳥居 立派な両部鳥居 大杉神社入口

 

 茂木町の神社目次 
 ページトップ