三和神社

[みわ神社]

那須郡那珂川町・三輪726

旧地名:那須郡・小川町大字三輪字宮之下/宮元
主祭神:大物主命
和銅六年713創建と伝わる古社。延長五年927に編集された『延喜式』には下野十一社が記録され,「那須郡三座並小 健武山神社 温泉神社 三和神社」とある。
それ以前の承和五年838『続日本後紀』九月辛酉条には「下野國那須郡三和神豫之官社
元慶四年880『日本三代実録』八月庚戌条には「授下野國従五位下三和神正五位上
仁和元年885『日本三代実録』二月丙申条には「授下野國正五位上三和神授従四位下
下野国で正史に最初に記録されたのは同じ那須郡の健武山神社で『続日本後紀』承和二年835の条,ついで二荒山神社が承和三年836の条,したがって三和神社は三番目に中央に記録された由緒ある社である。
社殿の修復は甲子歳毎に行われた。須藤権守貞信が天養元甲子年1144本社拝殿を再建して後は那須家が修理を担当したが天正十八年1590那須資晴が烏山城を追われてからは氏子が修理を続行した。
江戸時代には甲子年毎ではなく,もっと頻繁に修繕している。
元和四年1618,承応二年1653,寛文六年1666,延宝九年1681,享保七年1722,元文五年1740,明和元年1764,文化七年1810,文政十年1827,安政五年1858,明治二十三年1890営繕の記録がある。
例祭:10月30日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃(2か所に記載)
神名帳十一社 那須郡三座 並小 三和神社
式内十一社 三輪神社 三輪大明神(三輪)村正,青柳氏 →「輪」で植字されている 村正は村民かもしれない
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
三和神社 三輪村ニアリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 八巻29丁
那須郡那須郡那珂村大字三輪字宮元鎭座 延喜式内郷社 三和神社 祭神 大物主命 建物本社間口一間奥行五尺 拜殿間口三間奥行二間 末社三社 木華表一基 氏子四十五戸 社司欠社掌佐藤貢仝村大字小川住
社傳に曰く本社は大和國三輪山に鎭座せる大國主命の和魂にして其を上代國々に遷し奉りて三和神社とも大神社とも稱す 延喜式に載するところの三和神社は是れ也 長治二年1105藤原貞信勅を蒙り八溝山の悪徒厳嶽丸退治の際本社に祈願をなし遂に悪徒を討退せしを以て天養元年1144本社拜殿を再建す 爾后那須家の崇敬社たり 社域六百九十七坪を有し境内には古杉老樹蓊蔚として瀟洒社殿厳粛神寂ひて雅致多し 是亦郡内の一名社なり 奉仕は明治以前妙法寺にて勤務し仝六年より小泉友祠官祠掌には小笠原勝紀名を拜してより仝廿年まて奉仕し今の本社は仝氏拮居勤鼈勉して仝十三年工事を起し仝十六年竣功せしと云 后佐藤貢兼務たり
鳥居額
解説 正面から撮れないので
拝殿額
拝殿内
本殿 本殿
右:文化伝承館 本殿裏から
本殿
文化伝承館
文化伝承館 稲荷神社
稲荷神社の狛犬 稲荷神社裏
八雲神社
八雲神社脇 小倉庫
朱色両部鳥居左下にある社号標は貴重品。裏に「同国杤木町/糸屋・萬屋・穀屋」とある。栃木の文字はもともとは木+万で「杤」の字を使っていた。10×1000を漢字で書いて「十×千」で[とおち]イコール「万」が字形になっている。神明宮の十本の千木からくる説で樹木名の漢字ではなく地名のための文字。明治のいつ頃か(4年か)維新政府の役人が県に渡した公印に誤って「栃」の字を作字して使ってしまったため,県庁内で混乱が生じ,明治5年から12年まで8年がかりで偽字に統一させられたらしい。詳しくは中田祝夫先生の中央公論刊『日本語の世界4』p.123-140を。三和の方ははっきり「杤」なので健武山神社の鳥居手前の社号標も,見えにくいのだが「杤」であることが分かる。健武の方は右から「万屋・糸屋・穀屋」である。万が違う。現在の栃木市に店を構えた三商家が共同で那須郡の式内社二社に,江戸から明治12年の間のどこかで社号標を奉納したのである。
両部鳥居
鳥居下の社号標 杤の文字
下野十一社とある 昭和十一年1936手水石
十三夜・三日月・廿三夜 寛政六年1794 三和天祭り
昭和十二年1937狛犬
昭和十四年1939石燈籠 昭和九年1934伊勢参宮記念碑
三輪公民館 公民館前に 郷倉
郷倉解説 郷倉から旗杭
立派なトイレ 個人の神社
出羽三山参▢記念碑 鎮座の杜
旧旗杭 カタクリ群生地方向 道路沿いの社号標
御霊神社

御霊神社

[ごりょう神社]

那珂川町・那珂川町・恩田49

旧地名:那須郡・小川町・恩田
主祭神:那須与一宗隆公
建久二年1191福原五郎之隆の創建。
祭神は屋島の扇的一矢で名高い那須の与一,嘉応元年1169小川村三輪郷神田城の生れ。小説は谷恒生の1992刊『那須与一』がおすすめ。
三和神社の由緒看板末尾に記載されている御靈神社が当社。
例祭:10月29日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 御霊宮 恩田 福性院
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 八巻36丁
那須郡那珂村大字恩田字御靈森鎭座 村社 御靈神社 祭神 那須與一宗隆靈 祭日九月十日 建物本社間口二尺五寸奥行三尺二寸 拜殿間口三間奥行二間半 木鳥居一基 氏子十五戸 社掌佐藤貢仝村大字小川住
本社は那須與一宗隆の靈を祀りたる社にして其裔孫資重の勸請なり 天正1573~92年中社殿を造營し御靈神社と崇稱す 社域六百十三坪田野の中にありて權津の清流本社の東端を走り淙々たり 本社は往古より那須家の最も崇敬の社にして福原氏の定紋を附せり 境内には鏡池駒か橋等の舊跡あり 今は只古杉老樹の亭々として高く聳ひ且水聲の恙なく存して鳴るものあるのみ
那須家めぐりコース
拝殿
本殿
本殿から弓道場
拝殿前の大ケヤキ
ケヤキ脇に空池 ケヤキの瘤
手水石 明治二十八年1895馬頭尊
明治二十八年だろう
昭和十五年1940狛犬
弓道場
社務所 社殿脇に権津川 鎮座の杜


*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 八巻33丁
●那珂村
本村は小川,吉田,高岡,片平、東戸田,三輪,恩田,藥利、芳井,浄法寺の舊十村を合せしものにて其幅員東西五十町南北四十五町を有するに過きす而して小川吉田は關街道に沿ひ其他の部落は西部に點々として聚落せり 地勢西南山脈を負ひ箒川那珂川の兩流は北東部を走れり 村民農耕を専務とし又漁業を榮むものあり 本村往來交通に至ては關街道南北に通し里道西に開け其他幾線の道路連絡し且郵便局等ありて不便を感することなし
古來沿革に付ては往時は代官旗下の釆地に分属せられしか維新后に至り更に栃木縣の所轄となり第三大區八小區に編入せられ一戸長役塲の支配に歸し次て町村制實施に當り之を一團となし以て今日の自治村をなせり

 

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