那須郡那須町の神社資料



▊伊王野村 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-53丁
本村は伊王野,簑澤,大畑、梓,大和須、睦家、梁瀬,沼野井、稻澤及ひ東岩崎の舊十村を合せて一の自治區となせしものにて其幅員東西三里十二町南北一里四町あり伊王野は一宿をなし其間關街道の通するあり 地勢東北南の三面は山岳重畳して平地少なく西方は三藏及ひ黑川の二流を以て限り少許の平地あり 西南一隅那珂川經流し村民朴直にして農耕に勤勵し且養蠶業に従事する者多きを致し殖林又大に行はる〻を見るあり
古來の沿革に付ては徃時は黑羽藩及ひ幕府領又は旗下の釆地に分屬せしか維新后共に栃木縣に屬し第三大區十小區に編入せられ次て各村戸長役塲を分ち各其所屬を異にし後更に一戸長役塲の所轄となり次て町村制實施せらるに及ひ更に合して今の一村とはなりぬ 本村には村社十社古關境明神及ひ古城趾且つ舊跡の所在地にして有名の地にあり 全戸數四百五十余戸人口三千三百十余人を有す

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須町・伊王野1443

主祭神:大己貴命・少彦名命・譽田別命 配神:伊邪奈岐命・伊邪奈美命・大山祇命・火産霊命・建御名方命 境内社:天宮・疱瘡神社・妙義神社・稲荷神社・庚申社・祖霊社
『下野神社沿革誌』の仁治二年説をはるかに遡る和銅二年709創立で,大同二年807に現在地に遷宮とされるようになった。仁治二年1241は社殿造営の年とされる。その後八幡宮を相殿に祀る。
明治四十三年1910梁瀬の愛宕神社,熊野神社,温泉神社,諏訪神社,睦家の温泉神社,伊王野の熊野神社を合祀。昭和十年1935山神社を合祀。
例祭:11月2,3日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-53丁
伊王野村大字伊王野鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命 祭日陰暦月十九日 建物本社間口奥行 拜殿間口三間奥行二間 末社五社 石華表一基 石燈籠三基 氏子百三十戸 兼社掌郷社湯本溫泉神社社々祠松本政武仝住所
本社創立は仁治二年1241にして伊王野城主伊王野次郎左衛門尉資長の勸請にして本城鎭護として崇敬し殊に伊王野郷の鎭鎭守と定む 廢城以後は只一村の鎭守神にして明治六年村社に列せらる 社域一千九坪高燥の地にして大字中央に位し關街道より入ること五十余間馬塲の南側には古杉並列石磴廿七階躋は石の唐獅子左右に相對して共工妙宛然生るか如し 境内には老杉古樹森々と繁茂し幽遂にして雅致あり 殊に裏山の樹木紅葉せる時には風光尤も佳なり
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-54丁
伊王野村大字梁瀬鎭座 村社 愛宕神社 祭神火產靈神 建物本社間口二尺一寸奥行三尺四寸 氏子五戸總代一員
本社創立不詳 社域五十三壺高丘に在りて境内には老松二株あり

雷神社

[いかづち神社]

栃木県那須町・伊王野1989

主祭神:別雷神 境内社:風神社・蚕餌神社(宇気母知命・佐久様姫命)
寛元年間1243~47伊王野治郎左衛門が勧請。城跡に鎭座,享保年間1716~36再建。明治二年1869再建。747坪。
例祭:4月23日

幣石神社

[へいいし神社・おんべいしさま]

栃木県那須町・伊王野3313

主祭神:大己貴命 境内社:山神社
治承四年1180創建。源義経がこの地で休息をとり石上に幣を捧げたことに始る。御幣石から社号をとった。伊王野の小字に御幣石があり[おんへいいし]といったらしい。烏帽子を置いた岩を烏帽子岩。東隣りに春日神社。
例祭:10月29日

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須町・伊王野2401

主祭神:火産霊命
詳細不詳。

妙義神社

[みょうぎ神社]

栃木県那須町・伊王野306

主祭神:日本武尊
創建年頭不詳。天保年間1830~44再建。明治四年1871,明治二十九年1896にも再建。
例祭:3月24日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 妙義社 (地名別当空白)

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県那須町・伊王野1972

主祭神:倉稲魂命・大宮姫命・保食命
寛元年間1243~47の創建。130坪の境内に小ぶりの石宮。
まだ見つからない。伊王野城址公園あたりのはず。
例祭:2月初午日

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須町・沼野井1201

主祭神:大己貴命・少彦名命
大同二年807三月三日創建。その他も『下野神社沿革誌』の由緒に合致するが,現在の境内地は4倍の620坪。
例祭:11月3日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-54丁
伊王野村大字沼野井鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命
建物本社間口三尺二寸奥行三尺 拜殿間口三間奥行二間 末社六社 氏子四十三戸 社掌益子生駒仝村仝大字住
本社は大同二年807三月の創立にして元は本社を距る三町西の方に鎭座せしを寛永元年1624九月廿九日今の地に移遷す 奉仕は往古より益子氏にて代々報務す 社域百六十五坪高燥の地にして境内には老杉古檜亭々と高久聳ひ神寂ひて幽致愛すへし

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須町・沼野井1296

主祭神:大己貴命
創立不詳,境内地15坪。沼野井1201温泉神社の北あたり。
『栃木県神社誌』昭和39年2月11日発行に掲載されているが,見つからない。
例祭:9月19日

雷電神社

[らいでん神社]

栃木県那須町・沼野井1254

主祭神:別雷命
創立不詳,境内地66坪。沼野井1201温泉神社の北あたり。
『栃木県神社誌』昭和39年2月11日発行に掲載されているが,見つからない。
例祭:3月15日

馬櫪神社

[ばれき神社]

栃木県那須町・沼野井347

主祭神:大宜津比女命・大己貴命
創立不詳,境内地29坪。
『栃木県神社誌』昭和39年2月11日発行に掲載されているが,見つからない。
例祭:2月18日 3月28日 11月28日

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・稲沢151

主祭神:大己貴命・少彦名命
創立等不詳。100坪。江戸期に稲沢と下稲沢にそれぞれ記録があり,『下野神社沿革誌』の909坪と隔たりがありすぎなので,もう一社ある可能性が高いが分からない。
例祭:11月3日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 稲沢  碓井大和 
那須郡 湯泉大明神 下稲沢 碓井大和 
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 稲沢村鎮座 祭主碓井氏ナリ
湯泉大明神 下稲沢村鎮座 祭主碓井氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-54丁
伊王野村大字稻澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命
建物本社間口五尺奥行一間二尺 拜殿間口二間半奥行二間 末社十一社 氏子五十戸 社掌同上
本社創立不詳 社域九百九坪高燥の地にして石磴十五階上り木の鳥居あり 境内には古松古杉繁茂し中に老樅神威と共に高く聳ひ風致愛すへし

近津神社

[ちかつ神社]

栃木県那須町・大畑184

主祭神:味耜高彦根命
創立不詳。福島東白川の式内社,都々古別神社より勧請。寛文五年1665,貞享四年1687に再建。
69坪の境内地に小ぶりの木製祠が祀られている。文政三年1820石燈籠。
例祭:10月16日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-54丁
伊王野村大字大畑錐座 村社 近津神社 祭神味耜高彦根命
建物本社間口三尺奥行四尺五寸 氏子十三戸
本社創立不詳 社域四十七坪字大町に在り

竃神社

[かまど神社]

栃木県那須町・大畑409

主祭神:奥津毘古命・奥津毘女命
創立等不詳,境内地26坪。
例祭:9月20日

愛宕神社/湯泉大明神

[あたご/ゆぜん神社]

栃木県那須町・大町

現在社不明。
伊王野村大畑の小字に大町[おおまち]があったが,現在社は見つからない。
『鹿沼聞書』記載の神主星野津内の社掌を務めた湯泉大明神も見つからない。 *『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 大町 星野津内
那須郡 湯泉大明神 藤片和 星野津内
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 大町村鎮座 祭主星野氏ナリ
湯泉大明神 藤片村鎮座 祭主星野氏ナリ
湯泉大明神 和野間村鎮座 祭主星野氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-55丁
伊王野村大字大町鎭座 村社 愛宕神社 祭神火產霊神 建物本社九尺四面 氏子四戸
本社創立不詳 社域十九坪高燥の地にあり

温泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・大和須200

主祭神:大己貴命・少彦名命
天正十三年1585伊王野1443の温泉神社より御分霊を勧請して創建。元和七年1621再建。享保十五年1730改修の棟札。文政六年1823再建の棟札。149坪。
例祭:10月29日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-54丁
伊王野村大字大和須鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命
建物本社間口一尺四寸奥行四尺二寸 氏子十五戸
本社創立は天正十三年1585二月十一日にして伊王野下野守藤原直辰の勸請なり 后三十七年經て元和七年1621九月再建す 社域四十五坪字榎町清洒の地に在り

温泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・蓑沢755

主祭神:大己貴命・少彦名命
慶長七年1602創建と伝わる。元文二年1737再建。石燈籠は元禄二年1689の貴重品。
74坪。裏手の三蔵川に滝があるので滝の宮と呼ぶ。
例祭:10月29日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-54丁
伊王野村大字簑澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社間口五尺五寸奥行五尺五寸 氏子四十四戸 社掌吉祥榮仝村仝大字住
本社創立不詳 社域六十九坪高燥の地にして字瀧の宮に在り

住吉玉津島神社

[すみよしたまつしま神社]

栃木県那須町・蓑沢1352

主祭神:衣通姫命・中筒男命
延暦十年791坂上田村麿が創建と伝わる古社。東山道の下野と陸奥の境の峠に鎮座するのでさかえの明神と呼ばれる。追分の明神とも。福島側に住吉神社があったものを栃木側の玉津島神社に合祀したか。すぐ北の白河関跡には式内社白河神社。
寄居にも境の明神・玉津島神社が鎭座。
例祭:月日

十二所神社

[じゅうにしょ神社]

栃木県那須町・東岩崎697

主祭神:天太玉命
創建年月不詳。宇川前にあったが後に現在地に遷宮。寛政十一年1799再建。
元文元年1736石燈籠。107坪。
例祭:10月29日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-54丁
伊王野村大字東岩崎鎭座 村社 十二社神社 祭神天太王命
建物本社二尺三寸四方 氏子二十三戸
本社創立不詳 社域百七坪を有せり

天神社

[てん神社]

栃木県那須町・梓15-2

主祭神:天穗日命
享保八年1723領主芦野右門亮が創建。24坪の境内に小ぶりの石宮。15-2番地が欠番になっていて見つからない。
例祭:9月15日

春日神社

[かすが神社]

栃木県那須町・梓208

主祭神:天津兒屋根命
創建年月不詳。享保二年1717領主芦野民部大夫が再建。
桜の名所梓公民館跡地に鎭座。西隣りに幣石神社。
例祭:4月15日

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・梓357

主祭神:大己貴命・少彦名命
文永元年1264領主三森三郎重総が創建。
例祭:9月20日

温泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・梓751

主祭神:大己貴命・少彦名命
創建年等不詳。明和六年1769石宮を造営し遷宮したことが分かっている。166坪。 山腹に鎮座するらしいが場所が特定できない。
冨岡1055に「水塩大久保公民館」奥に湯泉神社。
例祭:10月29日

山神社

[やま神社]

栃木県那須町・梓586

主祭神:大山祇命
明治中ごろに人馬の安全祈願と慰霊のために創建。
例祭:4月8日

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須町・睦家26 むつや

主祭神:火産霊命
詳細不詳。黒川左岸294号線沿いの墓地となりに鎭座。22坪の境内に石宮二基,石鳥居,明治二十一年1888石燈籠一基,平成五年旗杭。覆屋に大きな「愛宕神社」額,御神体は仏像のようだ。
『栃木県神社誌』平成18年版には石宮の写真が掲載されている。同書の地図はまさにここを指しているので間違いないと思うが,覆屋の年代はここ12年ほどの間に建てたとしては古びすぎている。再度調査が必要だ。道の駅東山道伊王野の西,三蔵川左岸に愛宕神社がある。住所は睦家210-2だが,あるいはこちらが『栃木県神社誌』記載の社か。(2019年5月現在)
例祭:11月3日
睦家には以下の記録があるが現在社不明。芋淵は睦家の小字。
睦家212の睦家集会所入口に旗杭が奉納されているので社があるはず。湯泉神社か。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 芋淵 碓井大和
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 芋淵村鎮座 祭主碓井氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-55丁
伊王野村大字睦家鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社四尺四方 氏子八戸
本社創立不詳 社域五十二坪字向山の淸洒の地に在り
愛宕神社額
明治廿一年1888 石宮二基
  294号線


▊蘆 野 町 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-55丁
本町は蘆野,横岡,寄居、富岡の舊四村及ひ舊豊原村の内大平水鹽の両坪を合せ一の自治區をなせしものにて其幅員東西一里南北三里あり 地勢四方山脈を以て包圍し北は磐城の國境に接し奈良川其中央を貫流し蘆野は一市街地をなす 舊奥羽街道城内中央を貫通し加ふるに里道又開け交通の不便を感することなし 人口三千五百余人を有し風俗敦厚にして勤勉の風あり
古來の沿革に付ては往時は蘆野氏の領邑又は黒羽藩の領地に分屬せられ維新后共に栃木縣に屬し第三大區十小區に編入せられ次て一戸長役塲の支配となり次て町村制實施せらる〻や更に合して今日に至りしものなりとす
本町の名所舊跡には蘆野の遊行柳兼戴の松あり 神社には蘆野の健武山明神外三社ありて全戸數四百五十余戸を有せり

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・芦野2231

主祭神:大己貴命・譽田別命・事代主命・三穂津姫命・建御名方命
『栃木県神社誌』平成18年版では那須資方が創建となっていて,まるで『下野神社沿革誌』記載社とは別の社のような由緒が書かれているが,健武山,祭神,宝物の卍家鹿角,八幡像は合っているので,平成18年版は『下野神社沿革誌』記載の社伝の前半分が抜け落ちていると考えられる。
創建は奈良別命の勧請で,応神天皇,仁徳天皇の御代とあまりに遠い時代になってしまうのでにわかに信じがたいが。宇都宮二荒山神社では奈良別命は仁徳天皇の御代としている。控え目に計算して仁徳天皇420年頃として,那須国造碑が700年建立なのでその280年前というのはありうるかも。
『下野神社沿革誌』では「鏡山湯泉神社は此の時の御旅所なり」とされているが,現在は鏡山が「上の宮」になっている。こちらの健武山湯泉神社は「下の宮」とされている。
例祭:旧暦9月29日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 芦野 藤原泰経奉祀 右神名帳所載,豊城入彦命四世孫奈良別命為国造時所祀也。又在湯本者言是神名帳所載不祥。
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
健武山神社 芦野村鎮座 祭主藤原氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-55丁
蓋野町字健武山鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命 事代主命 三穂津命 建御名方命 譽田別命 祭日陰暦九月二十九日
建物本社間口九尺奥行二間栃葺 拜殿間口二間四方萱葺 寶庫間口六尺奥行九尺萱葺 御供所間口四間奥行二間萱葺 末社二十四社 一ノ鳥居石造高さ一丈六尺 二ノ鳥居木造 石燈籠九基 石の獅子二基 洗手磐一基 寶物卍家鹿角一八幡像銅製にして那須與市戰時に甲冑に頂き武運を祈りしものにして后本社に収めしもの あま狗坐像にして高さ一寸余唐石にして那須與一奉納なり 太刀一振長さ二尺五寸余無銘にして須藤權守の佩用せしもの 太刀一振長さ二尺五寸余無銘にして那須與一宗隆佩用せしもの 鏑矢一本那須與一奉納 馬面一個元禄年中1688~1704芦野資親の奉納 句献集二巻芦野資親の納むるもの也一巻は奉納人詳かならす 氏子二百戸總代三員 社掌池澤金太郎仝町仝大字四九番地住
社傳に曰く本社は應神天皇の御宇(今を去る千六百年前)那須の國造奈良別命の勸請なり(奈良別命は芦野家の祖先にして其古城趾今尚字熊野堂の地に存在す 故に往古地名を奈良郷と云ひ川を奈良川と稱せしは即ち命の御名に基き名つけたるものと云ふ)後仁明天皇承和年中834~848初めて義輝社務を司りたること見ゆ 醍醐天皇延延喜年中901~923勅使を以て諸國神社を御撿めの際奈良別命の御裔芦野綿麿社司義純に調書を奉らしめ則ち那須郡三座健武山湯泉神社なりと傳ふ 朱雀天皇天慶年中938~947平將門反亂の時藤原秀郷社司義景に命して祈誓の事あり 而るに秀郷総務中に神劒を得て大に悦ひ士卒を勵して下総に入り殊功を奏す 其報賽として那須の總社號を給はらる 爾來那須郡總社湯泉大明神と稱す 天喜年中1053~58池頼義安倍頼時征討及康平年中1058~65源義家安倍貞任誅伐の時何つも本社に祈願して戦功ありしを以て凱旋の途次神恩拜謝の爲め武器を奉納せり 後天治年中1124~26(今を去七百五十年)須藤權守貞信八溝山の兇賊岩武丸退治の時も本社に斯請して平定の功を奏したるにより宮殿を造修し健御名方命を合祀し社領若干を寄附せられ大祭典を執行し神輿出御あり 今の鏡山湯泉神社は此の時の御旅所なり(現今村社格なり)其后元暦年中1184~85那須與市宗隆源義經に随ひ西海に於て湯泉八幡の二神を心中に祈願して扇的の名誉を博せり 之に依りて社領及武器を寄附し誉田別命を合祀す 降て興國年中芦野綿麿の末裔蘆野四郎大夫那須宗隆五世の孫資忠の子資方を女婿となし其子孫世々大祭の執行怠りなかりしも應仁年中兵火の爲に社殿民舎燒失せしを以て大祭典を休止せり 共の后享録年中1528-32蘆野資敏社殿を造營し六十石の社領を寄附し舊來の大祭典を再興す 後奈良天皇の御字那須郡總社湯泉大明神の扁額(持明院殿直筆)を賜はらる 後徳川の初世慶長年中1596-1615蘆野民部少輔資泰改めて社領三十石を附し一層厳粛に祭祀を執行せられ是より蘆野資俊資親資貞等數拾代を經て明治二年蘆野資愛所領を奉還す共に社領も上知せらる 明治六年五月宇都宮縣第五大區九小區の郷社に定めらる 仝十年八月村社に列せらる 神職は往古より池澤家にて世々奉仕せり 社域一千九百八十五坪丘陵にして東は芦野の市街を望み御殿山(舊芦野城趾)に相對し境内には古杉老樅高久聳ひ櫻樹繁茂し花時には一簇の香雲老樹の深翠と相映し眺矚顔る佳なり
 本社の風景を現さんため社掌池澤淸弘ぬしの詠る登拜百首中より左に抄出す

   神垣の花の盛りはみたらしの水さへ匂ふ心地こそすれ
   ほこ杉に竹も交りて吹風のをともさらゝ夏なかりけり
   火たきなく聲も聞えて健武山もゆるはかりに紅葉してけり
   榊葉に降りか〻りたる白雪のきよきは神のみ心にして
   み社の邊りにたてる杉の木の高きは神のみいつなりけり

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・芦野2538

主祭神:大己貴命・譽田別命・事代主命・三穂津姫命・建御名方命
創建等不詳。御神木の銀杏は樹齢600年。参道に「遊行柳」
当社を「上の宮」とし,1キロ西の上記武部山温泉神社を「下の宮」としている。
例祭:10月19日
芦野のどこかに二荒山大明神があったが不明。続いて以下の各社が記録されているが現在社不明。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 二荒山大明神 奈良郷
那須郡 熊野社 (地名神主空白)
那須郡 大皇社 (地名神主空白)
那須郡 湯泉神社 蛇沢 [寺子か]
那須郡 湯泉神社 柳内 [寺子か]
那須郡 熊野宮 白井 (神主空白)
那須郡 湯泉神社 白井 (神主空白)
那須郡 星宮 下芦野 (神主空白)
那須郡 湯泉神社 [地名11列挙] 田中,黒川,大島,塩阿久津,白井,上田,水塩,石住,法師畑,下田,大谷
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
温泉神社 芦野村鎮座 祭主藤原氏ナリ

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・横岡909

主祭神:大己貴命・少彦名命
永正十一年1514芦野健武山の温泉神社より勧請。
例祭:10月9日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-57丁
蓋野町大字横岡鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命 祭日九月九日
建物本社間口二間奥行九尺栃葺 拜殿間口三間奥行二間 石鳥居一基 末社八社 石燈籠一基 氏子五十七戸 社掌池澤七五三仝村仝大字四七番地住
本社創立は永正十一年八月二日にして烏山城主石田次郎高淸奥州下向之時池澤長太夫に命し芦野總社健武山の分靈を遷し武運を祈願せし社にして社領三石を賜り池澤家世襲して社務を掌らしむ 社域ー百四十八坪平坦の地にして古杉蓊蔚にして天に聳ひ幽邃にして雅致あり

神明神社

[しんめい神社]

栃木県那須町・横岡894

主祭神:天照皇大神
上記湯泉神社のすぐ南に鎭座。

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須町・横岡226

主祭神:火産霊命

熊野神社

[くまの神社]

栃木県那須町・横岡116

主祭神:熊野大神
上記愛宕神社の南西に鎭座。

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・富岡1050

主祭神:大己貴命・少彦名命
創建等不詳。水塩大久保公民館が境内にあるので『鹿沼聞書・下野神名帳』の「水塩」をあてた。山神社は見つからない。
例祭:10月9日?
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉神社 水塩 杉本和泉
那須郡 山神社 水塩(神主別当空白)

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・富岡415

主祭神:大己貴命
永正十一年1514に鈴木氏が吉の目に創建。348坪。
水掛不動尊。吉の目湧水。
例祭:10月9日
江戸期に字冨岡あたりに二社記録されたが現在社不明。

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・富岡105

主祭神:大己貴命・少彦名命
永正十一年1514以降に白井氏が字宮下に創建。141坪。
例祭:10月9日

玉津島神社神社

[たまつしま神社]

栃木県那須町・寄居2082

主祭神:衣通姫命 配神:大己貴命・木花開耶姫命
天喜元年1053紀州和歌浦玉津島神社より勧請。延慶元年1308修復。明治三十九年1906焼失,平成三年1991新築。
奥羽街道下野と陸奥の境の峠に鎮座するのでさかえの明神と呼ばれる。すぐ北隣りの白河側には境の明神・住吉神社と白河二所関址碑。
簑沢にも境の明神・玉津島神社が鎭座。
例祭:4月13日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-56丁
蓋野町大字寄居鎭座 村社 玉津嶋神社 祭神衣通姫命 祭日四月十三日
建物本社間口九尺奥行二間栃葺 拜殿間口六間奥行二間萱葺 石鳥居一基 石燈籠一基氏子奉納 石燈籠一基安永七年1778三月南部藩主松岡三十郎奉納 同一基万治二年1659十二月推言隆治奉納 同一基文化十二年1815四月下野佐野町絹屋連中 文政十三年1830三月仙臺大町絹屋連中 同一基明治十一年八月會津若松根本治太郎奉納 額一面永禄二年1559八月南部盛岡藩 同一面南部従五位河内守勝昌▢筆 五反籏二流 三反籏二流宇都宮嶋屋仙台京屋奉納 氏子七十五戸 社掌月江寛宥仝郡那須村大字寺子一五八番地住
本社勸請創立詳ならすと雖も紀州和歌浦玉律島神社の御分靈を奉遷したるものにして天喜元年中大關矢五郎奉行三田喜惣兵衛盆子文内の再建にして本社には石の瑞籬を回らし寶珠山聖観寺を以て別當とし奉仕せしむ 往古は玉津嶋大明神と稱し又境の明神とも云ふ 社域ー百四坪高燥の地にして野奥兩國の境界に在り 海面より高きこと三里二十三町あり 境内には老樅古杉蔚々として天に聳ひ殊に楓樹の古木ありて秋の空には錦織りなす紅葉を賞し又月を弄するに奇景なり 古人の社頭に奉納せし歌多し 今ーニを録す 佐竹藤原重道の歌に「守るてふ恵を今もしきしまの道あきらけき玉津嶋姫」「波ならぬ光りをそいて和歌の補のさかい久しき神の宮居に」藤原義路歌に「守るてふ神のちかひをしきしまの道の光りの玉津嶋姫」又源義經の歌に「君か代のくもらぬかけをたよりにてひかりさしそふ玉津嶋姫」云々

鹿島神社

[かしま神社]

栃木県那須町・寄居1080

主祭神:武甕槌命
坂上田村麻呂が下野,常陸,奥州に勧請した53鹿島神宮の一。91坪。
例祭:10月9日

八雲神社

[やぐも神社]

栃木県那須町・寄居2421

主祭神:素盞嗚命
上記鹿嶋神社の西,奈良川右岸に鎭座。
江戸期に疫病退散のため牛頭天王を勧請。60坪の境内に石宮四基。
例祭:10月9日

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・寄居2260

主祭神:大己貴命・少彦名命
永正十一年1514以降に創建。18坪の境内に石宮三基なので見つからないかもと思ったが,ガジェンダーさんがGoogleMapに写真をアップしていた。
石宮に「安永八年1779亥九月一日」の文字が刻まれている。 例祭:4月13日


▊那 須 村 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-57丁
本村は寺子,高久,豊原,大嶋,漆塚及ひ湯本の舊六村を合せしものにて其幅員東西四里南北五星に亘る大村なり 地勢西北は那須嶽の連脈重畳し自ら高峻にして攀登すへからす 黒川及ひ余笹川は高久漆塚寺子豊原を流れ西方一帯那珂川に瀕し一望原野にして所謂那須野原の一部をなせり 村民の風俗概して質朴温良にして農耕を業とす 湯本は商家櫛比し商業に従事し頗る勉強の風あり
本村往來交通に至ては日本鐵道東北線は黑磯より來り村の西南隅を貫通し豊原を經て白川に逹す 國道は高久漆塚寺子豊原を連ね其他里道開通して頗る便あり
古來沿革を尋ぬるに往時は寺子高久湯本及ひ豊原は黑羽藩の領邑に屬し其他は幕府及ひ旗下の釆地たりしか維新に際し廃藩置縣の令出るや宇都宮縣の所轄となり次て栃木縣に屬し第三大區十小區となり次て三戸長役塲の支配に歸し次て町村制實施に當り更に之を合せて一の自治体となし以て今日に至りしものとす
本村大字湯本には名勝舊跡多く殊に延喜式内郷社あり 其他大字に村社及ひ有名の無格社二社ありて戸數九百四十餘戸人口七千六百十余人を有せり
爰に附記すへきは那須溫泉なり 那須嶽の四周にありて其溫泉塲を第一湯本とす 次は高雄股,辮天,北之湯,大丸,三斗小屋,板室の七所とす故に那須七湯の名あり 那須嶽は五峯並列して茶臼嶽最も高く火山にして常に硫烟を吐く 之に列なる高峯を男鹿佐飛箒根鹽原高原の五山とし連峯皆南向にして高原の北を圍み西に亘りて二荒山に接す 溫泉は實に此山中の凹處より湧出し近きを湯本とし其最も高きを三斗小屋とす 順路は黒磯にて線路を下り北に進みて那珂川の架橋を渡り高久より左折し松子田代を經て廣谷地に至る 此より足指漸く仰き深林渓谷の間を過き湯本に達す 黒磯より湯本まて陸里四里九町あり能く車を通す
湯本の地勢東北に那須岳をらし山嶽溪谷を望めは喬木陰林幽稚にして愛すヘし 西南は遠く開けて眺望稍快濶にして風韻に富み而して湯口は那須岳の山麓湯川の東岸より湧出するものを採り之を浴槽に導く 其泉質は酸性泉にして硫黄の臭を帯ひ強酸性鐵味を有し胎毒瘡毒儘麻質私脚氣痲病疥癬其他慢性皮膚病等に効あり 而して湯本は戸數三十余戸にして溫泉宿は小松屋和泉屋外拾軒あり皆栃葺の日本造の家屋なり就中和泉屋は地方の舊家にして狩野三郎行廣の末裔なりと傳ふ 行廣は舒明天皇の御宇神教により白鹿を獲て溫泉を登見せし功績あるを以て同帝の八年狩野行廣の霊を祀りて見立大明神と崇敬し其子孫を以て該社に奉仕せしめ后ち人見三郎と改め代々其名を通稱せり 今尚該社に奉務せしめ専ら溫泉等に拮据黽勉せり 此より十二町にして高雄股溫泉あり又湯本より途を北に取り進むこと三十町にして辮天の溫泉あり此地は峨々たる岩層を以て三方を繞らし其側に神霊を祀れる岩窟あり辮天の名此より起れりと云ふ 辮天より東十八町にして北溫泉に到る此地は四方山岳囲繞して檑盆の底の如く日光は一日六時間映射するのみにして晝尚暗く湯本に比すれは稍淸冷を覺ゆ 此より西に向ひ嶮道を攀ちて行くこと十五町にして大丸溫泉に到る 此地にも二三の溫泉ありて泉源岩石間より湧出し其の温度は華氏の百度より百五十度に至り頗る熱しと云ふ此より又新道を辿り喘々と登ること一里三十町にして三斗小屋に達す 其道路は茶臼嶽の北面中腹をよきるを以て仰きては噴火の轟々として上るを見るへく俯して急流の鐺鞳たるを臨むへく道又頗る險なりと雖とも徒歩して疲るしを覺ヘす 而して三斗小屋には溫泉宿四家あり此の溫泉も亦多量の硫酸を含み温度は華氏の百二十度内外にして其功能は湯本に稍同し 三斗小屋より茶臼山の西南を迂回し四里半にして板室溫泉に出つ 板室は今高林村に屬し西北東の三方は那須嶽の餘脈聳然として屏立し南方稍や開けて遠く那須野の原を望む 戸數十余戸皆溫泉の湯口の傍に在り 夏日は溶客多しと雖とも冬は絶ち皆戸を鎖して郷里に歸るを常とす 茲より三里余にして湯本に歸る 又南に向へ那珂川を渡り油井岩崎小結を過きて黑磯に出る道路あり 是れを那須の七湯回りといふ
湯本

那須温泉神社

[なすゆぜん神社]

栃木県那須町・湯本182

主祭神:大己貴命・少彦名命
630年頃の創建と伝わる。『日本三代実録』貞観五年863十月七日丙寅の項に「授下野國従五位上勲五等温泉神従四位下」に,貞観十一年869二月廿八日丙辰に「授従四位下勲五等温泉神従四位上」,延長五年927『延喜式神名帳』に「温泉ユ ノ神社」と記録された古社。
江戸期には「湯泉」と表記したが明治六年1873郷社に指定された際に「温泉」に変更した。読みは以前のまま[ゆぜん]で,那須町には「温泉」と書いて[ゆぜん]という社が多数あり,[おんせん]と読む社の方が少ない。「湯泉」と書く神社も多数ある。県内の温泉,湯泉神社は当社より御祭神を勧請した所が多い。
有名大社で小生が付け加えると誤りが増えるだけなので【公式Web】と次の『下野神社沿革誌』を。
例祭:10月8,9日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃(2か所に記載)
神名帳十一社 那須郡三座 並小 温泉神社
式内十一社 温泉神社 正一位温泉大明神(湯本)室井越中
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-59丁
那須村大字湯本鎭座 延喜式内 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命 祭日陰暦九月二十九日
建物本社二間四方栃葺 拜殿間口五間奥行二間栃葺 幣殿間口八尺奥行九尺栃葺 末社七社 石鳥居一基 石燈籠四基 寶物万字大鹿角一舒明天皇御世狩野三郎行廣奉納 九岐大鹿角一建久四年1193四月二日右大將源頼朝奉納 鏑矢一本年月不詳那須與一宗隆西海の戰陣に所帯のもの同人奉納 蟇目矢一本仝前 征矢五本仝前 檜扇一握仝前 那須八景詩巻一巻明の心越禪師作并書元禄六年1693水戸黄門奉納 門入箱一個元禄十一年1698年五月十九日黒羽侯大關大助増恒奉納 笙ーロ延宝八年1680大關信濃守増榮奉納 矢筈一個仝前 塗膳一脚延宝四年1676大關信濃守増榮奉納 小杉三方赤黑二臺仝前 黒塗膳六脚仝前 黑塗小膳四十脚仝前 三十大歌仙額三十六面寛正十*(寛正は七年1466まで)年那須修里大夫資晴奉納 敬育勅語一枚明治三十年1897七月九日陸軍少將大沼渡奉納 臺湾產鹿角一仝前 氏子三十五戸總代箭内源太郎大金善助高根澤嘉平佐藤房之助 社司松本政武仝郡伊王野村住 社掌星野輝田仝郡金田村大字羽田住 人見環仝村大字仝十三番地住
本社創立は人皇三十五代(*原本のママ,1926勅書以前の書なので)舒明天皇の御宇那須郡司狩野三郎行廣にして文治年中那須與一宗隆の再建に掛り后慶長十一年1606九月領主那須氏の再築する所にして那須家代々崇敬せしも國除せられ后の領主黒羽藩主大關侯も崇敬し社領二十石寄附せらる 明治維新廃藩置縣に際し第三大區十小區の郷社に列せられ本社の神位は三代實録に曰く貞観五年863年十月七日丙寅授下野國従五位下勲五等 溫泉神従四位下 同十一年二月廿八日丙辰授下野國従四位下勲五等 溫泉神従四位上云々 後貞享三年1686六月十九日正一位に進めらる 社傳に日く人皇三十五代舒明天皇の御世郡司狩野三郎行廣と云者あり本郡茗荷澤村に住す 一日狩し白鹿の大さ牛の如きを見て之を射る 鹿傷を被り遁れて深山に入りしかは三郎追跡して雲不盡山の麓なる霧雨ケ谷に至れは雲霧朦朧として踪跡を知る能はす忙然として岸上を望めは白髪の老翁あり 告て曰我は溫泉神なり汝の索むる所の鹿は彼谷間の溫泉に浴し居れり其溫泉は萬病を治して甚効あり鹿の此に浴するも亦其傷疵を癒さんとするなり汝宜しく之を開始して萬民の病苦を濟ふへしと言訖て見ひす 三郎之を奇とし谷間を索むれは果して其言の如し 遂に鹿を獲て皈り尋て溫泉を創開し祠宇を其地に建立して溫泉神を禮り歳時の祭禮怠りなく崇敬の誠を致せり 其後人皇八十二代後烏羽天皇の御世文治中那須與一宗隆源義經の平氏追討の軍に従ひ扇的と西海に射るに當り心中に那須溫泉神を祈念して名譽を天下に得たる報賽として本殿は勿論拜殿神樂殿神供所玉垣廻廊華表等に至るまて悉皆新建し若干の社領を寄附して厚く崇敬せられたり 那須氏國除せられて後は大關氏の崇敬社にして社領を寄附し毎年祭日には代拜を立られし社なり(社記のまゝ) 社域五百六十一坪(舊境内一万八千六十坪境内編入願中)那須嶽の南麓字上の山に鎮し西北東の三方は那須嶽の餘脈聳然として屏立し南方稍や開けて遠く那須野の原野を望む 馬塲二百餘間(明治三十四年氏子一同の献力により一直線に開修す)石磴四十七階躋りて社前に到る 本社の周圍には古松老樹欝蒼として生茂り神寂ひて雅致あり

      那須山湯泉八景并序
夫豊蘆原東山道野州那須山有溫泉能▢疾厄明目故四方士人競來洗濯無不効験▢是知名久盖山列五峯巍峨高聳則雲霧晦冥隠顧莫測第㵎流如練其聲若雷轟不分朝夕驚悸人耳祀者明神祠宇建立密宗精藍實斯山之勝概乃那須之雄観悦疑登泰山而東魯詎非虚語者也越於是歳闌秋幸得一遊目焉及覧人見卜幽軒之誌記所餘名
蹟備曆詳悉若猶若視諾掌乎然而未記者亦不多繁引并綴八景識之云爾
 歳癸酉闌秋下瀚 明坐湖越杜多撰註 坐或は雲ならん歟
      題溫泉八景
茶磑嶽峙 遠観蒼翠目心淸近聴松風似有聲莫問瀧圑與鳳餅破魔除睡又消醒
六橋浴槽 六橋砌就六般槽冷暖随人不憚勞蜀隴昔聞三味水東西雖隔並名高
白河晴靄 玉川如雲復如銀暮靄朝暾那記春一日徃還充雑務堵安物阜喜良循
八溝凌雲 魏哉矗立勢掌天開闢往來獨占先曾謂集星皆拱北也應萬嶂仰華巓
那須野原 千頃平原草木叢四圍山色興何窮紅塵紫陌堪分辨鳥道半膓經亦通
殺生石果 瓦礫河沙具佛性豈勝此石殺生哉己經解脱無明殻飛走優遊任去來
關山饒日 旭日初臨曙景姸憑空宛是染雲煙白華大士常應現別有洛伽小洞天
溫泉明神 曩時麋鹿沐斯湯故爾明神姓字揚巨奈頓遭獵人手今存兩角廟中藏
*『鹿沼聞書・下野神名帳』記載の「室井越中」は元禄二年1689曽良随行日記に「十九日快晴…湯泉ヘ参詣。神主越中出合,宝物ヲ拝」と記録された神主越中の末裔。当社はかつて室井氏と境内社見立神社の神職人見氏とが半年交代で奉職した。見立神社は『下野神社沿革誌』記載の狩野三郎行廣を祀り,人見氏はその後裔である。

見立神社

[みたて神社]

栃木県那須町・湯本

那須温泉神社参道右手に鎭座。手前左手に愛宕神社。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-62丁
那須村大字湯本鎭座 無格社 見立神社 祭神天兒屋根命 大己貴命 狩野三郎行廣之靈 祭日陰暦九月廿九日
建物本社間口三尺六寸板葺 幣殿間口一間半奥行一間一尺杉皮葺 拜殿間口二間奥行一間半杉皮葺 木鳥居一基 信徒三十五人
本社創立は人皇三十五代舒明天皇の御宇那須郡司狩野三郎行廣の勸請する所にして慶応元年1865六月廿七日正一位を授けらる明治三年1870時の祠官人見播麿正自らエ費を寄附し以て本社拜殿を再築す 社傳に曰く舒明天皇の御世郡司狩野三郎行廣神教に由り白鹿を獲て溫泉を發見せしを以て大己貴命及ひ祖先天兒屋根命を祀りて氏神とす 同帝八年狩野行廣卒するに及んて后其靈を合祀し見立神社と崇敬し行廣の後裔人見氏を以て代々社務を掌らしむ 社域九十八坪高燥の地にして郷社溫泉神社の東南にあり 東霧雨ケ谷に臨み溪水潺々として脚下に響き松籟颯々として俗塵を去るの一樂域なり

那須嶽神社

[なすだけ神社]

栃木県那須町・茶臼岳頂上

標高1,915mの茶臼岳頂上に石宮が鎭座。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-61丁
那須村大字湯本鎭座 無格社 那須嶽神社 祭神大己貴命 少彦名命 信徒一万人 社掌松本政武人見環星野輝由角住所前仝
本社は延喜式内郷社溫泉神社の奥宮にして那須嶽の頂上靈巌に鎭し本社の左傍岩間より熱湯湧出し右側よりは溫泉流出し其水淸澄す 毎年陰暦四月八日より八月一日まて古例として登拜の神事を執行し白衣を纏へたる講中の信徒▢至して頗る維沓を極むと云ふ

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・漆塚218

主祭神:大己貴命・少彦名命 境内社:稲荷神社
創建年月不詳。元禄年間1688~1704に焼失して再建。大正十二年1923拝殿幣殿改築。大正十三年1924本殿改築。390坪。
例祭:10月29日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-60-61丁
同村大字漆塚鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命
建物本社間口二尺五寸奥行四尺 末社一社 華表一基 氏子二十一戸總代三員 社掌薄井浪江仝村仝大字住
本社創立年月遼遠にして詳ならす 社域ー百七坪を有し平坦の地に在り 奉仕は往古より持寶院にて別営たりしか王政一新に際し復飾し薄井と改め本社に勤續せり 境内には老樹蓊蔚として高く聳ひ幽致愛すへし

熊野神社

[くまの神社]

栃木県那須町・漆塚808

主祭神:伊弉諾尊・伊弉冊尊・素盞嗚命 境内社:稲荷神社・神明宮
延暦十六年797頃,坂上田村麻呂東征のとき,病に罹った戦士が住み着いて祠を建てた。
寛永五年1628名主渡辺彦重が改築。
天明の大飢饉1782-88で村人は全滅してしまう。その後住み着いた村民が大正八年1919に改築。昭和三十八年1963拝殿改築。
例祭:4月15日

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須町・豊原66

主祭神:大己貴命・事代主命
創建年月不詳。
例祭:10月29日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-61丁
同村大字豊原鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 祭日九月十九日
建物本社間口三尺奥行四尺七寸栃葺 拜殿間口三間奥行三間萱葺 末社三社 石鳥居一基 石燈籠二基 氏子二百十戸 社掌平山忠仝村大字仝一八〇番地住
本社創立年月詳ならす再建は享和七?年(享和は4年まで1801-04なので享保七年1722か?)にして往古より一村の鎭守神なりしか明治五年村社に列せらる 社域九十五坪境内には老杉蔚々として聳ひ本社には石の瑞籬を回らし壯麗にして淸洒たる幽地なり

豊原神社

[とよはら神社]

栃木県那須町・豊原丙1330

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:倉稲魂命・志那津比古命(級長津彦命) 境内社:三峯神社
慶長十七年1612創建。「湯泉神社」と称した。
大正二年1913温泉神社を合祀。大正八年1919,風神社,稲荷神社を合祀して「豊原神社」と改称。
例祭:10月1日
大島

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・大島708

主祭神:大己貴命・譽田別命 配神:大山祇命・大雷神・倉稲魂命 境外社:稲荷神社・雷神社(高龗命)
元文元年1736十一月創立。ゆぜん様と呼ばれる。
大島村の総鎮守で,代々芦野家が崇敬した。
大正二年1913旧那須村の八幡宮,雷電社,稲荷神社,山神社二社を合祀。
境外神社に祭神が「高龗神」の「雷神社」と稲倉魂命の「稲荷神社」がある。
参道の杉20本は樹齢450年を越える。
「元文元丙辰歳」1737,「安永六丁酉歳」1777の石燈籠。
拝殿左手に石祠がずらり。「大正九年」「大正二年」
「合併記念杉五百本植付 大正三年五月」石碑。
飛んでいるような狛犬は大正十二年1923。「享和元酉天」1801の手水石。
本殿:神明造芦野石 例祭:9月15日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉神社 大島 (神主別当空白)
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-61丁
同村大字大嶋鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命
建物本社間口三尺五寸奥行三寸板葺 拜殿間口二間奥行三間萱葺 石鳥居一基 石燈籠四基 氏子廿三戸總代一員 社掌高根澤東仝村大字高久三五六番地住
本社創立は元文元年1736十一月にして本村の鎭守神たり 明治五年1872村社に列せらる 社域二百廿八坪高燥の地にして古杉森々として蓊蔚し本社は坤方に向ひ馬塲の長さ三十餘間兩側には老杉互に枝を交へて晝尚暗く幽靜にして郡内稀にある所の境地なり 社寶には氏子杉江昌庵の奉納せる金巻繪青貝摺の乗鞍及ひ鎧を藏す
寺子乙

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須町・寺子乙739

主祭神:大己貴命 配神:闇龗[くらおかみ]命,倉稲魂命
黒磯の北東,那須チサンゴルフ場の北,田中小学校の手前。地図には「田中神社」で載っているので注意。
拝殿額は「温泉神社」である。ちょうど鳥居前で田植えをなさっている方にも寺子乙の温泉神社であることを確認した。
鳥居前の田の脇に「明治八年八月八日・田中小学校発祥の地・創立百周年記念・結社一同建之・昭和四十九年十一月十日」の石碑が建てられている。末広がりの八八八に鍋掛村日新館田中分校として創立,昭和16年には那須村田中国民学校,22年には那須村立田中小学校,29年の町村合併で那須町立田中小学校となる。
昭和49年1975に創立百周年を記念して沿革と歴代校長の名前を刻んだ石碑を建てている。現在はここから北西に400mのところに移転している。
旧田中小学校は温泉神社の西隣りに建てられた。校庭跡地は公園・公民館になっており,かなり太い桜が数本残されている。校門の左手からも竹やぶを抜けて神社に行ける。
田の方から入ると大正六年三月の鳥居。
その先左手に「神社合祀記念碑・大正三年五月二十九日遷宮・大正六年三月建設」
時庭温泉神社,落合温泉神社,前?久保温泉神社,上川温泉神社,後嶋橋温泉神社,下川温泉神社などが読める。
神社沿革の記述によれば,大正二年6月21日に合併を願い出て大正三年5月29日に,那須村大字寺子道上にあった温泉神社を合祀した際に,その境内社であった「八龍神社」も合祀している。このとき祭神の「闇龗神」が寺子乙の温泉神社にやってくる。
このとき同時に,寺子字時庭,屋敷廻,スガイ沢,大字高久字榛木沢の温泉神社を合祀している。碑文より1社少ない。これらの主祭神はすべて大己貴命。
スガイ沢から倉稲魂命の稲荷神社,屋敷廻から大日孁貴の神明宮が境内社のまま移ってくる。
延宝六年1678創立。
本殿:神明造トタン葺 幣殿:トタン葺 拝殿:トタン葺 例祭10月5日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 寺子 杉本和泉
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-61丁
同村大字寺子鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社間口一尺八寸奥行二尺八寸 末社一社 氏子三十一戸
本社創建詳かならす 社域百五十坪字高野内に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須町・寺子乙1738→1752

主祭神:大己貴命 境内社:稲荷神社
天正年間1573~92開拓の時に創建。
昭和二十一年1946「湯泉神社」から「温泉神社」に改称。
昭和二十三年1948本殿雨覆,幣殿新築,拝殿増築。
昭和五十九年1984幣殿を除去して改築。
狸久保むじなくぼ温泉神社の杉樹齢450年がある。
例祭:11月19日
寺子乙

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須町・寺子乙2754

主祭神:大己貴命
詳細不詳。下川温泉神社。昭和四十三年1968奉納の旗杭。鳥居建立記念碑。
本殿に「大明神」の文字が見えるので,江戸期には鎭座していた。
すぐ北の寺子乙2659に石鳥居があり,不明社が森の中に鎭座。

黒田原神社

[くろだわら神社]

栃木県那須町・寺子乙4006-2

主祭神:火産霊命・倉稲魂命・大山祇命・大己貴命・水速女命 境内社:稲荷神社・古峯神社
明治四十二年1909頃から黒田原,黒田,針生,法師畑,小羽入,松ノ倉,旗鉾の有志が共同で社殿を造営し始め,明治四十四年1911付近の温泉神社,愛宕神社などを合祀して「黒田神社』を創建。大正三年1914新築して遷宮。
すぐ南の余笹川沿いに小羽入温泉神社。
例祭:10月9日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉神社 法師畑 (空白)

小羽入温泉神社

[こばにゅうおんせん神社]

栃木県那須町・寺子乙3896-2

主祭神:大己貴命・少彦名命
詳細不詳。

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須町・高久

1692坪あるのに現在社が分からない。山の中かもしれない。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-61丁
同村大字高久鎭座 村社 愛宕神社 祭神火產靈命 建物本社間口二尺奥行三尺 木鳥居一基 氏子二四戸 社掌清水淸丸仝村仝大字住
本社創立遼遠にして詳かならす 社域一千六百九十二坪高燥の地にありて石磴二十階上り華表あり 四十問登れは石の燈籠左右に並立し古杉老松高く聳ひ風色佳にして眺望に富むるの境なり

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・高久乙1781

主祭神:大己貴命・少彦名命
詳細不詳。

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・高久乙326

主祭神:大己貴命・少彦名命
詳細不詳。

小島疱瘡神社

[こじまほうそう神社]

栃木県那須町・寺子丙1391

主祭神:少彦名命 境内社:稲荷神社
元禄二年1689創建。文久元年1861頃黒羽城主の姫君が疱瘡にかかり当社に参詣して平癒したので城主の崇敬を受けた。
いつの時代か温泉神社と牛頭天王社を合祀。
明和三年1766の和算額が奉納されている。
長楽寺の門の隣りに鳥居。
例祭:旧暦3月12日

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・寺子丙1062

主祭神:大己貴命・日吉大神 境内社:山神神社
元禄元年1688創建と伝わる。
平成十二年飛地境外社の日吉大神妙見神社を合祀。
平成18年現在,社殿が老朽化したため上記疱瘡神社に仮遷座している。
例祭:9月19日

丸山神社

[まるやま神社]

栃木県那須町・高久甲1121

主祭神:
立て看板に「嘉永三年1850に農家の神様として建立された。毎年九月にお祭りがある。十一月の遊山にさんまを焼いて供える」

弓落神社

[ゆみおとし神社]

栃木県那須町・高久甲2270

主祭神:
朱塗りの鳥居。詳細不詳。

温泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・高久甲3045-16

主祭神:大己貴命・少彦名命
ゼンリンに載っている。詳細不詳。

松子神社

[まつこ神社]

栃木県那須町・高久甲4407

不明。

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・高久甲4458

主祭神:大己貴命・少彦名命
詳細不詳。

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県那須町・高久甲5739-2

主祭神:大己貴命・少彦名命
ゼンリンにあり。詳細不詳。

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須町・高久丙747

主祭神:火産霊命
詳細不詳。

山祇神社

[やまつみ神社]

栃木県那須町・高久丙401-16

主祭神:大山祇命
ゼンリンにあり。詳細不詳。

大山祇神社

[おおやまつみ神社]

栃木県那須町・高久丙3009

主祭神:大己貴命・少彦名命
詳細不詳。

大沢天稲荷神社

[おおさわいなり神社]

栃木県那須町・高久丙2776

主祭神:倉稲魂命
不明。

八幡湯泉神社

[はちまんゆぜん神社]

栃木県那須町・高久丙2455

主祭神:大己貴命・譽田別命
不明。

山之神神社神社

[やまのかみ神社]

栃木県那須町・高久丙2196

主祭神:大山祇命
詳細不詳。

山神神社

[やまがみ神社]

栃木県那須町・高久丙1912

主祭神:大山祇命
詳細不詳。

神命大神宮那須別宮

[しんめいだいじんぐう]

栃木県那須町・高久丙4-17-24

主祭神:天津彦彦火瓊々杵尊
学力向上の御利益がある。


寺子は広大なのでまだまだありそうです。『鹿沼聞書・下野神名帳』記載の社で現在社が分からない神社が多数あります。200年以上前の記録なので,すでにないか,合祀されたか,単に見つからないかのどれかです。
那須郡 湯泉神社 上田 (神主空白) 上下田か
那須郡 湯泉神社 下田 (神主空白) 上下田か


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那須の神社は経済的・地理的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。

▊那 須 郡  『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀▢霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拜し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す