那須郡那須町湯本の那須温泉神社・見立神社・芭蕉句碑・殺生石

湯本

那須温泉神社

[なすゆぜん神社]

栃木県那須町・湯本182

文治二年1186那須余一奉納石鳥居

主祭神:大己貴命・少彦名命
630年頃の創建と伝わる。『日本三代実録』貞観五年863十月七日丙寅の項に「授下野國従五位上勲五等温泉神従四位下」に,貞観十一年869二月廿八日丙辰に「授従四位下勲五等温泉神従四位上」,延長五年927『延喜式神名帳』に「温泉ユ ノ神社」と記録された古社。
江戸期には「湯泉」と表記したが明治六年1873郷社に指定された際に延喜式の表記「温泉」に戻した。読みは以前のまま[ゆぜん]で,那須町には「温泉」と書いて[ゆぜん]という社が多数あり,[おんせん]と読む社の方が少ない。「湯泉」と書く神社も多数ある。県内の温泉,湯泉神社は当社より御祭神を勧請した所が多い。
有名大社で小生が付け加えると誤りが増えるだけなので【公式Web】と次の『下野神社沿革誌』を。
例祭:10月8,9日
平成三年1991一の鳥居 大和さざれ石 社務所
旗杭 明治四十年1907二の鳥居 昭和三十一年1956社号標
明治四十一年1908石燈籠 社務所を見下ろす 二の鳥居
文久四甲子歳1864常夜灯 愛宕神社入口
鳥居と社殿が見える 愛宕神社鳥居 愛宕神社
石段上って殺生石に行ける 蛙石 水琴窟
祖霊社
祖霊社 三の鳥居・那須余一奉納
 
入口方向 明治四十四年1911常夜灯
ミズナラ・生きる この推定樹齢から30年は経つ 樹齢830年超
木製祠に琴平・山・神明を合祀 左大正六年1917稚祇神社 疱瘡神社
石燈籠奉納者名 昭和十五年1940石燈籠
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃(2か所に記載)
神名帳十一社 那須郡三座 並小 温泉神社
式内十一社 温泉神社 正一位温泉大明神(湯本)室井越中
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-59丁
那須村大字湯本鎭座 延喜式内 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命 祭日陰暦九月二十九日
建物本社二間四方栃葺 拜殿間口五間奥行二間栃葺 幣殿間口八尺奥行九尺栃葺 末社七社 石鳥居一基 石燈籠四基 寶物万字大鹿角一舒明天皇御世狩野三郎行廣奉納 九岐大鹿角一建久四年1193四月二日右大將源頼朝奉納 鏑矢一本年月不詳那須與一宗隆西海の戰陣に所帯のもの同人奉納 蟇目矢一本仝前 征矢五本仝前 檜扇一握仝前 那須八景詩巻一巻明の心越禪師作并書元禄六年1693水戸黄門奉納 門入箱一個元禄十一年1698年五月十九日黒羽侯大關大助増恒奉納 笙ーロ延宝八年1680大關信濃守増榮奉納 矢筈一個仝前 塗膳一脚延宝四年1676大關信濃守増榮奉納 小杉三方赤黑二臺仝前 黒塗膳六脚仝前 黑塗小膳四十脚仝前 三十大歌仙額三十六面寛正十*(寛正は七年1466まで)年那須修里大夫資晴奉納 敬育勅語一枚明治三十年1897七月九日陸軍少將大沼渡奉納 臺湾產鹿角一仝前 氏子三十五戸總代箭内源太郎大金善助高根澤嘉平佐藤房之助 社司松本政武仝郡伊王野村住 社掌星野輝田仝郡金田村大字羽田住 人見環仝村大字仝十三番地住
 本社創立は人皇三十五代(*原本のママ,1926勅書以前の書なので)舒明天皇の御宇那須郡司狩野三郎行廣にして文治年中那須與一宗隆の再建に掛り后慶長十一年1606九月領主那須氏の再築する所にして那須家代々崇敬せしも國除せられ后の領主黒羽藩主大關侯も崇敬し社領二十石寄附せらる 明治維新廃藩置縣に際し第三大區十小區の郷社に列せられ本社の神位は三代實録に曰く貞観五年863年十月七日丙寅授下野國従五位下勲五等 溫泉神従四位下 同十一年二月廿八日丙辰授下野國従四位下勲五等 溫泉神従四位上云々 後貞享三年1686六月十九日正一位に進めらる
 社傳に日く人皇三十五代舒明天皇の御世郡司狩野三郎行廣と云者あり本郡茗荷澤村に住す 一日狩し白鹿の大さ牛の如きを見て之を射る 鹿傷を被り遁れて深山に入りしかは三郎追跡して雲不盡山の麓なる霧雨ケ谷に至れは雲霧朦朧として踪跡を知る能はす忙然として岸上を望めは白髪の老翁あり 告て曰我は溫泉神なり汝の索むる所の鹿は彼谷間の溫泉に浴し居れり其溫泉は萬病を治して甚効あり鹿の此に浴するも亦其傷疵を癒さんとするなり汝宜しく之を開始して萬民の病苦を濟ふへしと言訖て見ひす 三郎之を奇とし谷間を索むれは果して其言の如し 遂に鹿を獲て皈り尋て溫泉を創開し祠宇を其地に建立して溫泉神を禮り歳時の祭禮怠りなく崇敬の誠を致せり
 其後人皇八十二代後烏羽天皇の御世文治中那須與一宗隆源義經の平氏追討の軍に従ひ扇的を西海に射るに當り心中に那須溫泉神を祈念して名譽を天下に得たる報賽として本殿は勿論拜殿神樂殿神供所玉垣廻廊華表等に至るまて悉皆新建し若干の社領を寄附して厚く崇敬せられたり
 那須氏國除せられて後は大關氏の崇敬社にして社領を寄附し毎年祭日には代拜を立られし社なり(社記のまゝ)
 社域五百六十一坪(舊境内一万八千六十坪境内編入願中)那須嶽の南麓字上の山に鎮し西北東の三方は那須嶽の餘脈聳然として屏立し南方稍や開けて遠く那須野の原野を望む 馬塲二百餘間(明治三十四年氏子一同の献力により一直線に開修す)石磴四十七階躋りて社前に到る 本社の周圍には古松老樹欝蒼として生茂り神寂ひて雅致あり

      那須山湯泉八景并序
夫豊蘆原東山道野州那須山有溫泉能▢疾厄明目故四方士人競來洗濯無不効験▢是知名久盖山列五峯巍峨高聳則雲霧晦冥隠顧莫測第㵎流如練其聲若雷轟不分朝夕驚悸人耳祀者明神祠宇建立密宗精藍實斯山之勝概乃那須之雄観悦疑登泰山而東魯詎非虚語者也越於是歳闌秋幸得一遊目焉及覧人見卜幽軒之誌記所餘名
蹟備曆詳悉若猶若視諾掌乎然而未記者亦不多繁引并綴八景識之云爾
 歳癸酉闌秋下瀚 明坐湖越杜多撰註 坐或は雲ならん歟
      題溫泉八景
茶磑嶽峙 遠観蒼翠目心淸近聴松風似有聲莫問瀧圑與鳳餅破魔除睡又消醒
六橋浴槽 六橋砌就六般槽冷暖随人不憚勞蜀隴昔聞三味水東西雖隔並名高
白河晴靄 玉川如雲復如銀暮靄朝暾那記春一日徃還充雑務堵安物阜喜良循
八溝凌雲 魏哉矗立勢掌天開闢往來獨占先曾謂集星皆拱北也應萬嶂仰華巓
那須野原 千頃平原草木叢四圍山色興何窮紅塵紫陌堪分辨鳥道半膓經亦通
殺生石果 瓦礫河沙具佛性豈勝此石殺生哉己經解脱無明殻飛走優遊任去來
關山饒日 旭日初臨曙景姸憑空宛是染雲煙白華大士常應現別有洛伽小洞天
溫泉明神 曩時麋鹿沐斯湯故爾明神姓字揚巨奈頓遭獵人手今存兩角廟中藏
*『鹿沼聞書・下野神名帳』記載の「室井越中」は元禄二年1689曽良随行日記に「十九日快晴…湯泉ヘ参詣。神主越中出合,宝物ヲ拝」と記録された神主越中の末裔。当社はかつて室井氏と境内社見立神社の神職人見氏とが半年交代で奉職した。見立神社は『下野神社沿革誌』記載の狩野三郎行廣を祀り,人見氏はその後裔である。
拝殿と本殿 御歌碑 稲荷神社から見た本殿
拝殿額
札所 由緒 遠くに殺生石園地
拝殿造営記念碑
左元文三年1738石燈籠 高湯山行道 宝暦十二壬午歳1762 享保五庚子1720
天明八年1788延喜式内十一座温泉神社
大正十年1921石燈籠
殺生石へ
イオウゴケ? 那須五葉松 樹齢400年かも
町指定天然記念物 昭和六年1931石燈籠
見立

見立神社

[みたて神社]

栃木県那須町・湯本

主祭神:狩野三朗行広公・天児屋根命・大己貴命
那須温泉神社参道右手に鎭座。上記那須温泉神社に合祀されていますが,煩雑になるため別にしました。参道をはさんで愛宕神社。
那須温泉の発見者・那須湯本の開祖狩野三朗(『下野神社沿革誌』では三郎)を祀る。
平成14年2002「那須温泉開湯千三百七十年記念碑」に見立神社改築・境内整備のことが刻まれている。2025年では開湯1393年になる。
「明治十年1877七月二十六日・願主」石塔に人見環宮司の文字が見える。表は「那須嶽神社・幕大々?講中」,側面に「加人月山登山」の謎の文字。
「那須嶽・月山・岩瀬郡下・大願主‏/高湯山三山登山…」岩瀬郡は福島。
「高湯山神社・明治二十年1887旧八月八日」石燈籠。高湯山は白湯山ともいい修験者の霊場であった。茶臼岳(月山),御宝前(高湯山),朝日岳(毘沙門岳)を順に三山掛けと称して行者が参詣した。
「献見立神社・明治二十五年1892四月・手水石」
「那須湯開祖・見立神社」石碑。
「朝市開設十周年記念鳥居一基・昭和五十五年1980」石碑。
「見立神社鳥居奉納碑文・平成二十四年2012」石碑。背後の年代未確認の石碑に「見立大明神」
もう一基年代未確認の石碑に「南月山‏/御嶽山・開闢人名記」
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-62丁
那須村大字湯本鎭座 無格社 見立神社 祭神天兒屋根命 大己貴命 狩野三郎行廣之靈 祭日陰暦九月廿九日
建物本社間口三尺六寸板葺 幣殿間口一間半奥行一間一尺杉皮葺 拜殿間口二間奥行一間半杉皮葺 木鳥居一基 信徒三十五人
本社創立は人皇三十五代舒明天皇の御宇那須郡司狩野三郎行廣の勸請する所にして慶応元年1865六月廿七日正一位を授けらる明治三年1870時の祠官人見播麿正自らエ費を寄附し以て本社拜殿を再築す 社傳に曰く舒明天皇の御世郡司狩野三郎行廣神教に由り白鹿を獲て溫泉を發見せしを以て大己貴命及ひ祖先天兒屋根命を祀りて氏神とす 同帝八年狩野行廣卒するに及んて后其靈を合祀し見立神社と崇敬し行廣の後裔人見氏を以て代々社務を掌らしむ 社域九十八坪高燥の地にして郷社溫泉神社の東南にあり 東霧雨ケ谷に臨み溪水潺々として脚下に響き松籟颯々として俗塵を去るの一樂域なり
オープンな拜殿
本殿 那須温泉開湯千三百七十年記念碑 天満宮
天満天神神札も 高湯山神社
那須の上の文字が読めない 人見宮司名が見える 加人月山?
那須湯開祖
見立大明神 南月山‏/御嶽山・開闢人名記
両社 参道から
九尾

九尾稲荷神社

[きゅうびいなり神社]

栃木県那須町・那須温泉神社の境内社

主祭神:玉藻前
那須温泉神社の本殿右手に鎭座。上記那須温泉神社の境内社ですが,煩雑になるため別にしました。
上の写真の右手に殺生石園地が見える。殺生石左手の「石の香」橋を渡って遊歩道を上ってくると,ちょうど九尾稲荷神社のすぐ脇に出る。九尾稲荷のすぐとなりが那須温泉神社本殿。
昭和四十四年1969石鳥居額に「九尾稲荷大明神」。維新に際し,神社に改称。
昭和五十二年1977石燈籠。
正一位稲荷大明神の幟
真横に那須温泉神社本殿
那須岳

那須嶽神社

[なすだけ神社]

栃木県那須町・茶臼岳頂上

標高1,915mの茶臼岳頂上に石宮が鎭座。溫泉神社の奥宮。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-61丁
那須村大字湯本鎭座 無格社 那須嶽神社 祭神大己貴命 少彦名命 信徒一万人 社掌松本政武人見環星野輝由角住所前仝
本社は延喜式内郷社溫泉神社の奥宮にして那須嶽の頂上靈巌に鎭し本社の左傍岩間より熱湯湧出し右側よりは溫泉流出し其水淸澄す 毎年陰暦四月八日より八月一日まて古例として登拜の神事を執行し白衣を纏へたる講中の信徒▢至して頗る維沓を極むと云ふ
芭蕉1

那須温泉神社の芭蕉句碑

[ばしょうくひ]

栃木県那須町・湯本182

[曽良旅日記 四月十九日 1689]
温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ,雨>両神一方ニ拝セ玉フヲ,
   湯をむすぶ誓も同じ石清水   翁
  殺生石
   石の香や夏草赤く露あつし
  正一位ノ神位被加ノ事,貞亨四年1687黒羽ノ館主信濃守増栄被寄進之由。祭礼九月二十九日

最後の行は溫泉神社が貞享三年1686六月十九日正一位を賜り,翌年には大関増栄が社殿を造営したことをさす。
三の鳥居の先,石段手前の左上部に前面を平に削った巨岩が据えられている。みごとな岩である。ここに芭蕉の句が刻まれている。奥八城太郎弘賢・屋代弘賢1758-1841筆。建立の年月は分からない。
文治二年1186年には那須の余一が石鳥居を奉献しており,500年後の芭蕉の時代には温泉神社で句を詠むに当たって余一の故事を入れることになる。
碑には上中心,右,左の順に五七五が刻まれている。

  湯をむすぶ 誓も同じ 石清水  芭蕉翁

むすぶは掬ぶ、湯を手のひらですくって汲むさま。神事として巫女も行う。
元禄二年1689年4月殺生石見物の前に温泉神社参拝をした際の一句。前日には地震があり,6日より雨続きで,この日19日久しぶりの快晴であった。
温泉神社は八幡誉田別命を合祀している。石清水八幡宮にかけて夏の季語「清水」を引き寄せる。
「泉をすくって戦勝を二つ神に祈願して誓う」ほどの意か。「同じ誓い」ととって那須の十郎為隆と十一男与一兄弟二人だけが義経に付くという約定ととるか。上の兄9人は平家に付いた。
「誓い」と「同じ」の伝説背景解釈が難解なために解説はほとんどされない。曽良の解釈も誰がどんな同じ誓いをたてるか曖昧で『おくのほそ道』には採録されなかったが,長雨の後の晴天にふさわしい,ゆぜん様を誉め称えた,めでたい明るさをもった句である。
下の石段を上る 右手奥 解説板
句碑 土台岩も立派

芭蕉2

殺生石前の芭蕉句碑

[ばしょうくひ]

栃木県那須町・湯本

[曽良旅日記 四月十九日 1689]
  殺生石
   石の香や夏草赤く露あつし

『おくのほそ道』には,
  殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。
  蜂・蝶のたぐひ,真砂の色の見えぬほど,かさなり死す。

とあるが句はない。句は曽良の日記に記録されている。
殺生石右手前の碑には
  いし能香や なつ草あかく露阿つし 芭蕉翁

2025/7/3に撮影したが,芭蕉が来たのは新暦6月6日。句碑の周りは写真のとおり夏草青々。しかし殺生石周辺は変色するはずの草も生えず岩だらけ。飛び回る虫すらいない無機質な荒涼たる岩場。毒気が弱まっているわけではなく,2022年には硫化水素か何かのガスでやられた8頭のイノシシの死骸が見つかっている。硫黄の匂いも強いので,芭蕉の句の「石の香」は分かる。草が赤くなるのは俳人の想像かもしれない。ここに限らず花も咲かない大岩の上を蜂蝶が飛び回るのを見たことはないので,文学上の技巧としておきます。みもふたもなくて,ごめんなさい。
殺生石

殺生石

[せっしょうせき]

栃木県那須町・湯本


2022年3月5日に二つに割れているのが見つかった殺生石。高さ2m,外周8mほどあったらしい。割れる前に撮影した写真があったのであわせて載せておきます。
妖狐はいずこへ,と心配せずに,夜になると妖しく光る九つの花がゆっくりと点滅し…と妄想しましょうか。
昭和五十五年1980国立劇場歌舞伎公演記念碑の玉藻前の次の文字はまったく読めない。「玉藻前曦袂[たまものまえあさひのたもと]」と読むそうな。
「飛ふものは雲はかり奈里石乃上」句碑が石の香橋近くに。2文字目は婦の仮名。建立年不明。芭蕉の孫門人・麻父(中川乙由の門人)の句を誤って建てた碑。なんの言い訳看板も立っておらず「芭蕉」の字ははっきり読めるので,芭蕉の句だと思ってしまう。例によって,どうだ素人には読めないだろう石乃上と芭蕉だけ読めるように書いてやったぞの碑なので,悪影響はないが。句そのものは分かりやすい。生物は近寄らないので,実に写実的で,アンチ芭蕉の句になっているのがおもしろい。
実際に現代でも2022年12月7日に硫化水素か何かのガスでやられたイノシシ8頭が殺生石の周りで死んでいるのが見つかっている(下野新聞による)。
蜜を吸うための花も咲かない死の世界に蝶や蜂がわざわざ飛んできて死ぬことはないが,イノシシはたまたま通過しようとしただけなのか謎である。まだまだ近寄るのは危険。
殺生石の左手の「石の香橋」を渡って四の鳥居をくぐり,道なりに上って行くと温泉神社の境内社「九尾稲荷大明神」脇に着く。殺生石園地を真上から見下ろすほどの高さになる。稲荷本殿から左手に那須温泉神社の本殿を真横から拝することができる。
那須温泉神社一の鳥居前の県営無料駐車場から17号線を歩いても殺生石に行ける。もちろん殺生石駐車場もトイレ完備で便利。
殺生石園地入口
盲蛇石
盲蛇石
奥に千体地蔵
経伝地蔵 芭蕉句碑
歌舞伎公演記念碑 飛ぶものは… 石の香橋
石の香橋 温泉神社鳥居 ここを上って行くと温泉神社
温泉神社額 少しずつ上がっている
左に進む ゆるやかに上る 下の方に賽の河原が
かなり上ったことになる 殺生石が見える 駐車場トイレ裏の高湯山大權現

▊那 須 村 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-57丁
本村は寺子,高久,豊原,大嶋,漆塚及ひ湯本の舊六村を合せしものにて其幅員東西四里南北五星に亘る大村なり 地勢西北は那須嶽の連脈重畳し自ら高峻にして攀登すへからす 黒川及ひ余笹川は高久漆塚寺子豊原を流れ西方一帯那珂川に瀕し一望原野にして所謂那須野原の一部をなせり 村民の風俗概して質朴温良にして農耕を業とす 湯本は商家櫛比し商業に従事し頗る勉強の風あり
本村往來交通に至ては日本鐵道東北線は黑磯より來り村の西南隅を貫通し豊原を經て白川に逹す 國道は高久漆塚寺子豊原を連ね其他里道開通して頗る便あり
古來沿革を尋ぬるに往時は寺子高久湯本及ひ豊原は黑羽藩の領邑に屬し其他は幕府及ひ旗下の釆地たりしか維新に際し廃藩置縣の令出るや宇都宮縣の所轄となり次て栃木縣に屬し第三大區十小區となり次て三戸長役塲の支配に歸し次て町村制實施に當り更に之を合せて一の自治体となし以て今日に至りしものとす
本村大字湯本には名勝舊跡多く殊に延喜式内郷社あり 其他大字に村社及ひ有名の無格社二社ありて戸數九百四十餘戸人口七千六百十余人を有せり
爰に附記すへきは那須溫泉なり 那須嶽の四周にありて其溫泉塲を第一湯本とす 次は高雄股,辮天,北之湯,大丸,三斗小屋,板室の七所とす故に那須七湯の名あり 那須嶽は五峯並列して茶臼嶽最も高く火山にして常に硫烟を吐く 之に列なる高峯を男鹿佐飛箒根鹽原高原の五山とし連峯皆南向にして高原の北を圍み西に亘りて二荒山に接す 溫泉は實に此山中の凹處より湧出し近きを湯本とし其最も高きを三斗小屋とす 順路は黒磯にて線路を下り北に進みて那珂川の架橋を渡り高久より左折し松子田代を經て廣谷地に至る 此より足指漸く仰き深林渓谷の間を過き湯本に達す 黒磯より湯本まて陸里四里九町あり能く車を通す
湯本の地勢東北に那須岳をらし山嶽溪谷を望めは喬木陰林幽稚にして愛すヘし 西南は遠く開けて眺望稍快濶にして風韻に富み而して湯口は那須岳の山麓湯川の東岸より湧出するものを採り之を浴槽に導く 其泉質は酸性泉にして硫黄の臭を帯ひ強酸性鐵味を有し胎毒瘡毒儘麻質私脚氣痲病疥癬其他慢性皮膚病等に効あり 而して湯本は戸數三十余戸にして溫泉宿は小松屋和泉屋外拾軒あり皆栃葺の日本造の家屋なり就中和泉屋は地方の舊家にして狩野三郎行廣の末裔なりと傳ふ 行廣は舒明天皇の御宇神教により白鹿を獲て溫泉を登見せし功績あるを以て同帝の八年狩野行廣の霊を祀りて見立大明神と崇敬し其子孫を以て該社に奉仕せしめ后ち人見三郎と改め代々其名を通稱せり 今尚該社に奉務せしめ専ら溫泉等に拮据黽勉せり 此より十二町にして高雄股溫泉あり又湯本より途を北に取り進むこと三十町にして辮天の溫泉あり此地は峨々たる岩層を以て三方を繞らし其側に神霊を祀れる岩窟あり辮天の名此より起れりと云ふ 辮天より東十八町にして北溫泉に到る此地は四方山岳囲繞して檑盆の底の如く日光は一日六時間映射するのみにして晝尚暗く湯本に比すれは稍淸冷を覺ゆ 此より西に向ひ嶮道を攀ちて行くこと十五町にして大丸溫泉に到る 此地にも二三の溫泉ありて泉源岩石間より湧出し其の温度は華氏の百度より百五十度に至り頗る熱しと云う 此より又新道を辿り喘々と登ること一里三十町にして三斗小屋に達す 其道路は茶臼嶽の北面中腹をよきるを以て仰きては噴火の轟々として上るを見るへく俯して急流の鐺鞳たるを臨むへく道又頗る險なりと雖とも徒歩して疲る〻を覺ヘす 而して三斗小屋には溫泉宿四家あり此の溫泉も亦多量の硫酸を含み温度は華氏の百二十度内外にして其功能は湯本に稍同し 三斗小屋より茶臼山の西南を迂回し四里半にして板室溫泉に出つ 板室は今高林村に屬し西北東の三方は那須嶽の餘脈聳然として屏立し南方稍や開けて遠く那須野の原を望む 戸數十余戸皆溫泉の湯口の傍に在り 夏日は溶客多しと雖とも冬は絶ち皆戸を鎖して郷里に歸るを常とす 茲より三里余にして湯本に歸る 又南に向へ那珂川を渡り油井岩崎小結を過きて黑磯に出る道路あり 是れを那須の七湯回りといふ

 

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