東那須野神社

[ひがしなすの神社]

栃木県那須塩原市・東小屋474-3 ひがしこや

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:素盞嗚命・大山祇命・譽田別命・火産霊命・豊城入彦命・豊受姫命・木花咲耶姫命
以下の七社を合祀して明治四十年1907七月一日創立。その後も多数の近郷社を合祀,分かる範囲で合祀社を記述しておく。境内地は那須塩原市の中心,那須塩原駅のすぐ東で,旧地名は東那須野村大字東小屋字後山474番地の3,376坪。
  東小屋 温泉神社
  東小屋 湯殿神社
  東小屋 八坂神社
  上中野 温泉神社
  上中野 稲荷神社
  笹 沼 温泉神社
  島 方 温泉神社
明治四十三年1910九月十九日二社を合祀。
  木曾畑中 温泉神社 境内社稲荷神社
明治四十三年1910九月二十一日二社を合祀。
  沼野田和 温泉神社 境内社稲荷神社
明治四十四年1911九月十一日三社を合祀。
  大 塚 温泉神社
  大 塚 愛宕神社
  山 中 温泉神社
大正元年1912十一月十五日二社を合祀。
  沼野田和 湯殿神社
  沓 掛 温泉神社
大正七年1918二月十五日六社を合祀。
  北和田 愛宕神社
  北和田 赤城神社
  北和田 湯泉神社
  北和田 富士神社
  北和田 琴平神社
  北弥六 八幡宮
例祭:11月3日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-70丁
東那須野村大字東小屋鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社間ロニ尺奥行三尺 氏子十七戸 社掌杉本達住所前仝
本社創立不詳 社域二百六十二坪字砂塲に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・上中野 かみなかの

主祭神:大己貴命 東那須野神社に合祀。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 上中野 大武市正
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 上中野村鎮座 祭主大武氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-72丁
東那須野村大字上中野鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社間口一尺八寸奥行二尺五寸 拜殿二間四方 氏子十七戸
本社勸請不詳 社域二百五坪にして字明戸に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・笹沼

主祭神:大己貴命‏‏‏・少彦名命 東那須野神社に合祀。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-70丁
東那須野村大字笹沼鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏ 少彦名命
建物本社間ロニ尺五寸奥行一尺九寸 氏子十七戸
本社創立年月不詳 社域七十五坪字新田に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・上大塚神田 かみおおつかしんでん

主祭神:大己貴命 東那須野神社に合祀。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 大塚新田 杉本和泉
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-71丁
東那須野村大字上大塚新田鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社間口一尺五寸奥行二尺五寸 氏子四戸
本社創立年月不詳 社域百七十三坪を有せり

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・木曽畑中 きそはたなか

主祭神:大己貴命 東那須野神社に合祀。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 木曾 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 木曽村鎮座 祭主佐藤氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-70丁
東那須野村大字木曾畑中鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社間口二尺四寸奥行三尺四寸 末社一社 氏子十三戸 本社創立不詳 社域三百五十坪にして沼堀添に鎭座

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・沼野田和 ぬまのたわ

主祭神:大己貴命 東那須野神社に合祀。
江戸時代の記録に「沼野田,沼野村,田和村」とあるのは現在の「沼野田和」と推測して,ここにあげておく。二社とも東那須野神社に合祀された。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 沼野田和 養田隠岐
那須郡 湯泉大明神 沼野田和 佐藤近江
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 沼野村鎮座 祭主養田氏ナリ
湯泉大明神 田和村鎮座 祭主養田氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-69丁
東那須野村大字沼野田和鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏少彦名命
建物本社間口三尺八寸奥行六尺 拜殿間口三間奥行二間 氏子十八戸
本社創立不詳 社域六百八十一坪字沼端の清地に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・山中新田

主祭神:大己貴命‏‏‏ 東那須野神社に合祀。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-70丁
東那須野村大字山中新田鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏
建物本社間ロニ尺奥行ニ尺五寸 氏子四戸總代一員 社掌同上
本社創建不詳 社域一百三坪字東曾根に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・沓掛 くつかけ

主祭神:大己貴命‏‏‏・‏少彦名命 東那須野神社に合祀。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-69丁
東那須野村大字沓掛鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏少彦名命
建物本社一間四方 氏子三十一戸 社掌杉本達住所前仝
本社創立不詳 社域四十二坪字堀の内に在り

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須塩原市・北和田

主祭神:火産霊命 東那須野神社に合祀。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-70丁
東那須野村大字北和田鎭座 村社 愛宕神社 祭神火產霊神
建物本社間口一尺七寸奥行一尺六寸 氏子二十五戸 本社は享和十一?(享和は4年まで1801-04,享保十一年1726か)五月十日の創立にして社域百二十三坪を有せり

八幡宮

[はちまんぐう]

栃木県那須塩原市・北弥六

主祭神:譽田別命 東那須野神社に合祀。

以上,東那須野神社に合祀
黒磯神社

黒磯神社

[くろいそ神社]

栃木県那須塩原市・宮町3-34 みやちょう

主祭神:天照皇大神・大己貴命・宇賀之御魂命 配神:素盞嗚命・少彦名命・中筒男命・八幡大神 境内社:足尾山神社・祖霊社・光玉稲荷神社
明治三十五年1902竣工の比較的新しい神社で,社伝は下記の『下野神社沿革誌』に詳しいので付け加えない。
例祭:10月10日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-72丁
東那須野村大字黑磯字原街道上鎭座
無格社 黒磯神社 祭神天照皇大神‏/大己貴命‏/宇迦之御魂命 祭日陰暦二月初午日九月十九日 紀念祭十月廿九日 月並祭毎月十五日
建物本社間口四尺四方杉小羽葺 拜殿間口三間奥行二間栗栃葺 大鳥居二基春山新助奉納 小華表二十基 石燈籠二基 硝子燈籠四基 杉苗百本櫻苗百本宇都宮市今井兼五郎奉納 信徒二百五十戸總代五十員 社掌月江玉置清水清丸仝郡住
本社は明治三十三年1900十月廿三日官許を得て無格社黒礎神枇と改稱す
本社創立は嘉永三年1850二月にして澁井兼廣(幼名金太郎)二歳の時祖父藤左衛門實父伊勢吉と相議り兼廣の守護神として字原街道神明宮の境内に勸請せしか濫觴なり 是より先き胤父藤左衛門は敬神の志深く常に神を敬すること厚く偶文化十四年1817伊勢兩宮へ參宮し此年長男生るゝ困て伊勢吉と命名す 伊勢吉長して一男一女を產む 皆早逝せり 次て嘉永二年十月男子生る 金太郎と命名す 即ち今の兼廣にして父は安政五年八月没す 故に祖父藤左衛門後見して兼廣に其後を繼かしむ 家運益々隆盛たり 然り而して明治の聖代に至るや仝十七年三嶋縣令土木を起し新に國道を開線し那珂川に架橋し開通せらる 而るに該地は更に人家なく運輸交通の不便見るに忍ひす 是に於てか該地の沿道に人家を設立し公衆の便を計らんとし翌十八年一月を以て國道に沿ひ那珂川端へ兼廣宏大輪奐たる家屋を新築せしに多額の工費を要し微力の及ふ所に非らす今や將に產破れ家傾かんとする悲境に沈淪せり 弦に良策なく今は神に祈奏して恩顧を仰き奉るの外はあらしと本社へ衰運挽回の祈願をなし朝夕信心怠たらさるに妙たり奇たり神託を蒙る 曰く人の出入する所へ協議の玉と大書して置くへしと又只夜は辨財天を知りたきなりと 又辰巳と書て寶讀むとの三託宜あり(其意味は委しくあれと永けれは省く)而して靈驗彌々著しく仝十九年四月日本鉄道東北線開設に依り本地内に停車塲を設置せらる〻と仝時に鐡道局員其他上下旅客の投宿あり 恭しけなくも 伏見宮殿下の御泊あり次て内務外務の兩大臣の御休憩あり 是にて素志幾分か相達し仝年十二月上野黒磯間汽車開通せしにより漸く開運に向ひ家政復舊したるを以て實に素願成就の端緒を得る 是偏に本社の御靈驗と深く感佩し此に於て明治廿二年四月神習教管長芳村氏に乞へ神號を光玉稻荷神社と改稱し仝月を以て本社を澁井兼廣宅地内に奉遷し新に宮殿を造營して鎭祭す 其后仝廿七年三月有志よりー百餘円の寄附金を得て本地停車塲を距る三町にして國道と舊道との中間なる字原街道上百八十二番の山林反別二反三畝を律久井彦七より購求し二反歩を境内とし三畝歩を参詣道路敷地とし本地に奉遷鎭祭して衆庶參拜の便に供す 抑も本地は有名なる那須原頭の一部分にして茫漠たる原野なりしか今や日に月に開拓せられ人口年一年と共に増加し且つ本地の如きは昔日寂漠なる一小村も今は化して人家連擔櫛比し殆と四百戸に垂んとして那須原中の一市街地となる 此趨勢を以てせは敷年を出すして一大市街となること信して疑はさる所なり 而るに其住民は皆四方より輻輳移住せしものなれは相互に風俗を異にし従て神祇崇敬の禮をも欠き動もすれは郷黨の情誼をして冷然たらしむるなり 依て新開士民一和恭順の爲に官に乞ひ本社を黑磯神社と改號し黑磯新開の中央主尊とし村民をして永く崇信する所を一にし以て報木反始の禮典を揚け該地の益々隆盛の域に至るを乞祈み且つ徃年神託及ひ祖父藤左衛門の遺言に符合するを禰澁井策廣感銘し以て前年の大願を果さんため明治三十二年十一月十六日を以て兼廣所有の宅地合計四反四畝十二歩を他人に譲渡し代金一千八百圓を得て此れを本社に献納し五百圓を本社維持費金とし一千三百圓を以て規模荘厳輪奐たる本社拜殿を改築し以て永遠祭祀怠たらす子孫の繁榮を祈らむとす云々
社域六百坪平地にして黑磯の北隅に位し境内には多く杉櫻を植へ春は萬櫻乱發し香雲凝つて流れす 北を望めは那須岳の噴煙の登るを視る 東西南の三方は那須の原野にして廣袤敷十里に且り所謂那須の篠原にして往古は只狐狸の巢窟に委し〻か近時那珂川を疏水し大に開懇の事業起り所々点々として朝夕の炊烟棚引を見る 又境地の背後には那珂川淸流滾々として靈驗と共に晝夜をやめす殊に風致愛すへし
▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀●霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拜し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す

 

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