那須塩原市旧鍋掛村の神社資料



▊鍋 掛 村 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-62丁
本村は舊鍋掛村,越堀村,野間村,寺子村乃内,黒川,蛇澤,石田,板本郷,赤沼,熊久保,望田,新谷の八坪を合せて一の自治區となせしものにて其幅員東西一里南北一里十八町あり 地勢西南東の三隅は平野廣漠相亘り東北隅は丘陵起伏し土地高燥にして那珂川は中央を貫流し水利の便あり 又舊奥羽街道は各部落を貫き以て往來に便なり 村民農耕又は商業に従事し勤勉の風あり
古來の沿革に付ては徃時は黑羽及幕府の所轄に屬せしか維新后更に栃木縣に屬し越堀寺子を除くの外第三大區九小區に編入せられ次て寺子を除き一戸長役塲の支配に歸し次て町村制實施に當り更に合して現時の一村となすに至りしものとす
本村には村社五社及ひ戸數三百余戸人口二千百四十人許を有せり

鍋掛神社

[なべかけ神社]

栃木県那須塩原市・鍋掛947 なべかけ

主祭神:火産霊命 配神:猿田彦命・国常立命・大山祇命・倉稲魂命・大己貴命・少彦名命 境外社:八坂神社
寛文五年1665以前の創立,「愛宕神社」と称した。天神森に鎭座した無格社の温泉神社(鍋掛921番地)と鶏鳥神社(鍋掛857番地)を合併して鍋掛神社と改称し,昭和二十九年1954十一月十六日遷座合併祭を挙行。造営の資材は三社境内の立木を用いたので将来のために杉桧を植樹した。なお平成22年の愛宕神社解説板には「昭和三十年1955」改称と書かれているが,当社宮司の松本政文撰文の記念碑に十九年五月神社本庁の承認を得て改称とあるので,それにならった。
長い参道の奥に大きな社殿。千木つきの本殿。
寛文十年1670手水石に卍が彫られている。寛文三年1663石燈籠。
鳥居右手に昭和二十九年1954「鍋掛神社碑」,「供養塔」,慶長九年1604愛宕峠に築かれた「鍋掛の一里塚」。もとは現在地の東にあったが道路拡張のため移築した。日本橋から41里。東日本大震災被災による修理工事の復興記念碑。
例祭:11月3日 1128坪
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-62丁
鍋掛村大宅鍋掛鎭座 村社 愛宕神社 祭神火產靈神 建物本社間口三尺奥行四尺
本社勸請不詳 字上の臺にありて社域千二百六坪を有せり
昭和三十年はあやしい
拝殿
本殿
背後に広大な森 拝殿から
卍が 石宮一基
鳥居から
鳥居右手 供養塔 社伝が刻まれている
盛土が一里塚
復興記念碑 道路沿いの標識
樋沢

樋沢神社

[ひさわ神社]

栃木県那須塩原市・鍋掛1501

主祭神:弥都波能売命(罔象女神)
旧奥州街道沿い,鍋掛神社の南に鎭座。
「八幡太郎義家愛馬馬蹄の石」と,「葛篭つづら石」がある。後三年役1083-87頃,源義家が祠を見つけて,または祭壇を設けるのに適した地を見つけて,馬で駆け上ったときに勢いで岩に蹄の跡がついたという伝説が伝わる。したがってもとは八幡宮で,近年に地名をとって樋沢神社と改称した。『栃木県神社誌』平成18年版には掲載されていない。地名の樋沢は[ひさわ]なので社号も清音で載せておく。
千年ほど前にすでに二つの岩がこの地にあったとして,その運搬技術に驚嘆するに値する巨大さ。
昭和十八年1943旗杭,石燈籠。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-62-63丁
鍋掛村大字鍋掛上山鎭座 村社 八幡宮 祭神譽田別命
建物本社間口一尺奥行一尺五寸 鳥居一基 氏子百戸
本社創立不詳 社域三百十六坪淸洒の地に在り
樋沢には八龍神も記録された。現在社所在不明。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 八竜神 樋沢 藤橋対馬
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
八龍神 樋沢村鎮座 祭主藤橋氏ナリ
右:八坂神社
左:蹄石 右:葛籠石
蹄石 蹄石 蹄石
葛籠石
昭和十五年1940建立碑
神仏習合の名残
道路沿いの標識
八坂

八坂神社

[やさか神社]

栃木県那須塩原市・鍋掛875

主祭神:素盞嗚命・稲田比賣命
上記鍋掛神社の北に鎭座。もともとは鍋掛神社の境外社なので詳しい資料は見つからない。北となりに摩尼山蓮華院正観寺。鍋掛宿消防小屋という名の土蔵風建物がある。
鳥居柱に「御大典(大正四年1915)記念創立⾭年団」「御成年式(大正八年1919)記念建設」とあるので大正八年以降に鳥居が建造された。額束に「八坂神社」とある。
境内の配置から,鳥居正面の石垣に鎭座するのが八坂神社で,本殿木製祠には彫刻が施されている。その左手のお堂のような建物は中を覗いて見るとニワトリの絵馬二枚,明治期の「湯泉鶏鳥両社鳥居新築寄付」板額,「鶏頂山大神」額が掛けられているので,神社である。近い番地の857には昭和二十九年1954に鍋掛神社に合祀された鶏鳥神社(猿田彦命,国之常立命,倉稲魂命)があった。現在の八坂神社の境内が鶏鳥神社鎭座地だったか,或いはお堂を移築したかと推測する。猨田彦大神の自然石も見つかった。両社の鳥居は今はない。
鳥居右手に昭和四十四年1969の何かの改善記念碑,読めない。鳥居手前の何かの寄付芳名碑も読めない。
垣根の中に初市神。
境内左手に文化五年1808芭蕉句碑。「野を横に馬牽きむけよほととぎす」。南にある鍋掛神社に建立され,ついで湯街道沿いに移され,さらに現在地に移築された。
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八坂神社 本殿 彫刻
御成年式記念 御大典記念 八坂神社
鳥居足もと
左の覆屋内 鳥鶏湯泉両社鳥居新築 絵馬
絵馬 猨田彦大神 盥石
初市神
芭蕉の句碑 芭蕉の句碑
碑の下部,名前か?
ほほえみの寺・正観寺 鍋掛宿消防小屋

水神社

[すい神社]

栃木県那須塩原市・鍋掛1602

主祭神:弥都波能売命(罔象女神)
鍋掛小学校の北。10坪の境内に石宮二基。
例祭:4月15日

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・鍋掛1345

主祭神:大己貴命・少彦名命
天徳三年959創立。
『栃木県神社誌』昭和39年版に1025坪で掲載されている社。同書ではつづいて「長久保1345」で102坪の温泉神社が掲載されている。長久保は住居表示変更で行方不明だが,鍋掛1345には長久保自治公民館があるので,当社の地名はむかし長久保だったろう。とすると同じところに温泉神社が二社あったことになる。社殿の大きさ,氏子戸数が異なる。102坪は1025坪のミスかもしれない。別の社の記録が混同しているかもしれない。
▉鍋 掛1345:本殿流造間口二尺五寸奥行三尺 幣殿流造一坪 拜殿流造七坪 1025坪 宮司星野盈 氏子46戸 天徳三年959創立
▉長久保1345:本殿木造板葺間口二尺奥行二尺 幣殿トタン葺半坪 拜殿トタン葺間口三間奥行二間 102坪 宮司星野盈 氏子40戸 配神:大山祇命 創立不詳としながら天徳三年959勧請説を載せている
『下野神社沿革誌』には記録が見つからない。
例祭:11月19日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 鍋掛 藤崎対馬
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 鍋掛村鎮座 祭主藤橋氏ナリ
加茂

加茂神社

[かも神社]

栃木県那須塩原市・越堀113 こえぼり

主祭神:別雷命・大己貴命
正徳三年1713創建。浄泉寺の裏手,309坪。越堀自治公民館と消防センターがある。
例祭:11月3日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-63丁
鍋掛村大字越堀鎭座 村社 加茂神社 祭神別雷命
建物撃欝謡社掌本社は正徳三年1713二月十一日の勸請なり 社域三百九坪字東町にあり

湯泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・野間

主祭神:大己貴命・少彦名命
現在社所在不明。野間513-6の消防団分団のところに旗杭らしきもの。野間627-2公民館もあやしい。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 野間 星野伴内
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-63丁
鍋掛村大字野間鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命‏‏‏ 少彦名命‏
建物本社間口一尺五寸奥行二尺 拜殿間口二間奥行二間半 氏子十九戸 社掌星野輝由金田村大字羽田住
本社創建年月不詳 社域六十二坪字稻荷前に在り

湯泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・寺子1108 てらこ

主祭神:大己貴命
創建年等不詳。175坪。
余笹川の南,寺子一里塚公園の南にある寺子公民館から石段を登る。
例祭:11月3日

熊田坂湯泉神社

[くまださかおんせん神社]

栃木県那須塩原市・寺子2182-2

主祭神:大己貴命 配神:倉稲魂命・槻大神
正徳年間1711~16創建。越堀数ヶ室村の温泉神社より勧請。数ヶ室は那珂川上流左岸の越堀宿の加宿にあたる。越堀626-1に数ヶ室集落センターがある。越堀799には数ヶ室の郷蔵が保存されている。
明治三十四年1901石鳥居。大正四年1915旗杭。明治四十年1907石燈籠。
鳥居左手の昭和廿一年1946「合社記念碑」に多数の社が刻まれている。
「明治四十四年1911五月十日 字熊久保鎮座 無格社温泉神社及ひ槻神社 字西原鎮座 無格社温泉神社及稲荷神社 字持田鎮座無格社温泉神社 赤坂鎮座無格社温泉神社を合併 熊田坂温泉神社と改称し 大正三年1914十一月廿七日杉渡戸鎮座村社温泉神社…」
ほかに:
  寺子字宮前または前山 温泉神社 境内社
  寺子字西原 温泉神社 境内社稲荷神社
  寺子字初内 温泉神社
 大正三年1914
  寺子字上新谷 温泉神社
例祭:4月20日

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・越堀929-1

主祭神:大己貴命‏‏‏・少彦名命
大正三年1914上記寺子2182-2熊田坂温泉神社に合祀された。
杉渡土公民館に石宮二基と伊勢大神宮遥拝碑が残っている。杉渡戸[すぎわたど]は杉渡土とも書いた。幕末の南画家高久靄厓は当村の出。
貞観元年859創建の古社だが現代の資料には掲載されていない。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-63丁
鍋掛村大字越堀鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏ 少彦名命‏
建物本社間口一尺七寸奥行壹尺四寸 氏子五十六戸
本社創立は貞観元年859三月にして本村の鎭守神たり 社域四十七戸字杉渡戸に在り

八雲神社

[やくも神社]

栃木県那須塩原市・寺子648

主祭神:素盞嗚命・大己貴命
詳しいことは分からない。明治四十四年1911に蛇沢と黒川の社を合祀した。
例祭:11月3日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉神社 蛇沢
那須郡 湯泉神社 黒川


塩原は別にまとめておきました。
『鹿沼聞書・下野神名帳』記載の社で現在社が分からない神社が多数あります。200年以上前の記録なので,すでにないか,合祀されたか,単に見つからないかのどれかです。地名の誤字誤植の可能性もあります。現在社が推定できる社の神主が那須塩原と那須町と大田原で現在と行政区画が異なるためまたがっている可能性が高く,どちらに分類するか判然としませんが,いずれかにあげておきます。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 白目木 大武市正
那須郡 湯泉大明神 鴫ノ間 大武市正
那須郡 塩釜六所大明神 赤坂 大武豊前 [大田原から高林に,寺子も]
那須郡 神明宮 下黒磯 大武豊前
那須郡 湯泉大明神 マホヤ 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 立木 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 下横蟇 大武豊前
那須郡 天神宮 滝 養田隠岐 [弥六←屋六の神主]
那須郡 湯泉大明神 町田 碓井大和
那須郡 鳥宮大明神 岩崎 西光寺 [高林か]
那須郡 湯泉大明神 柳内 [寺子の蛇沢とセット]
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 鴨ノ内村鎮座 祭主大武氏ナリ
鹽釜六所大明神 赤塚村鎮座 祭主大武氏ナリ
神明宮 下黒磯村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 野槻村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 立木村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 嶌中村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 下模蟇村鎮座 祭主大武氏ナリ
天満宮 瀧村鎮座 祭主養田氏ナリ
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那須塩原の神社は経済的・地理的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。

▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀●霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拜し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す


 

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