那須塩原市旧狩野村の神社資料
▊狩 野 村
*『下野神社沿革誌』明治三十五年1902五月十日發行 巻ニ-74丁
本村は三嶋,井口,西富山,東遅澤、西遅澤,關根,東關根、槻澤,高柳,南郷屋及ひ石林の舊十一村を合併し幅員東西一里南北一里三十町にして奥羽街道は中央を貫き三嶋は同街道に沿ふて一の市街地をなせる 新村なるを以て舊他村と距ること遠し 地勢西南は鹽原相連り以て西那須野村に接し西北平野相連り以て鹽谷郡に隣り蛇尾川は西北を流れ土地概ね平坦にして村民農耕を業とし朴實にして勤勉の風あり
古來の沿革に付ては往時は三嶋新村を除き他の諸村は共に太田原領に屬せしか維新の后栃木縣に屬し第三大區九小區に編入せられ后一戸長役塲の所轄に屬し次て町村制實施に當り合併して一の自治村をなし今日に至りしものとす
本村には村社十一社ありて戸數三百七十余戸人ロ一千九百余人を有せり
井口温泉
温泉神社
[おんせん神社]
栃木県那須塩原市・井口926 いぐち
主祭神:大己貴命・少彦名命
寛平元年889に湯釜地から温泉が湧出したので温泉神を勧請して創建と伝わる。天文五年1536現在地に遷宮。地名ははじめ湯口といった。慶長年間1596~1615に冷水になってしまったので井口と改称したと伝わる。伝承どおりなら相当の古社だが,棟札が19枚残っているのでお調べいただくともう少し創建年が推測できるか。
明治八年1875に上井口と下井口が合併したが『栃木県神社誌』昭和39年版では「上井口926」の住所表記が記載されていて混乱させられる。
昭和七年1932石鳥居は袴をはいている。額に「温泉神社」
本殿前左手の天明七丁未歳1787の石燈籠に「湯泉大明神」と彫られている。
本殿前右手の永代常夜燈は天明六丙午年1786十一月奉納で「温泉大明神」,一年違いで「湯泉」と「温泉」表記の両方が確認できる。天明六年に「温泉」表記が残っていることも興味深い。
同じ天明六丙午歳1786十一月奉納の田の境に立つ永代常夜燈は「湯泉大明神」,天明六年十一月に二基の燈籠が奉納され,「湯泉」と「温泉」が彫り分けられたのはどういうことだろうか。どちらの字でも音は「ユゼン」で違和感がなかったことの傍証にはなるだろう。
本殿額は維新前と思われる「湯泉大明神」表記,『下野神社沿革誌』は令和の現在と同じ「温泉神社」
例祭:10月10日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 井口 大武伊豆
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 井口村鎮座 祭主大武氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-75丁
狩野村大字井口鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命
建物本社間口五尺奥行四尺 拜殿間口三間奥行二間 氏子三十五戸
本社創立不詳 社域三百十八坪字中道上に在り
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温泉神社 |
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湯泉大明神 |
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温泉大明神 |
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| 天明六年1786 |
大黒天? |
湯泉大明神 |
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| 天明七の未が見える |
湯泉大明神 |
天明六年1786 |
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| 上井口公民館 |
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井口天満
天満宮
[てんまんぐう]
栃木県那須塩原市・井口261
主祭神:菅原道真公・大己貴命 境内社:愛宕神社
創建年は分からないが『栃木県神社誌』昭和39年版には「下井口」で記載。上下井口が合併したのは明治八年1875なのだが。江戸から明治初期ころまでには上下井口があったので,江戸時代には鎭座したと思われる。
年代が不明だが二子塚温泉神社を合祀。この祭神が大己貴命。
鳥居があるわけでもなく見過ごしそうだ。覆屋内には木製祠が二社。
例祭:3月25日
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左:天満宮 右:温泉神社 |
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| 消えてしまった |
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愛宕神社 |
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井口生駒
生駒神社
[いこま神社]
栃木県那須塩原市・井口1128
詳しいことは分からない。覆屋内に木製祠,狩野村大字井口鎮座・奉生駒神▢が読める。左手に奉納御寶前絵馬。西那須野地区で一番古い200年以上前の絵馬で文化八年1811奉納,野川守盈作。
詳しくは
有形民俗文化財「生駒神社の絵馬」をご覧ください。
明和元年1764寒念佛供養塔,大正十年1921馬頭観世音,十九夜塔,庚申塔など多数。
【西那須野田園空間博物館】井口の生駒神社と石碑に紹介されています。
井口椿稲荷
椿稲荷神社
[つばきいなり神社]
栃木県那須塩原市・井口714
祭神は倉稲魂命か玉藻前か定かには分からない。
田の中に朱鳥居7基。社を囲んでいるのは椿の木。かつて境内に樹齢約250年の椿の大木があったことから椿稲荷と呼ばれるようになったという。大木になるには150年は必要だろうから大正から昭和初期頃からの呼び名ということになる。それ以前は井口のお稲荷さんだったかも知れない。天正七年1579頃の創建説があるので維新前は「稲荷大明神」だった。昭和や平成の奉納鳥居の額に「椿稲荷大明神」とあるのは,きっと江戸の昔に思いを馳せ長い歴史にあやかってのことだろう。
覆屋背後の石宮がご本殿。焼き物のおキツネさんが多数そなえられている。
拝殿前に昭和十五年1940狛犬。
那須塩原市のWebによると「九尾の狐の霊を祀るために建立したとの伝説」が残っている。この記事に限らず割れた殺生石が飛来したとの記述は今のところ見つかっていない。写真のように茶臼岳を遠望できる絶好の地であるが。
車で10分ほど南東の今泉の「玉藻の前稲荷」にも妖狐伝説が伝わっている。
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| 昭和の奉納 |
平成の奉納 |
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昭和十五年1940狛犬 |
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本殿 |
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| 多数の陶製狛犬 |
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平成奉納 |
鳥居七基(20250815) |
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那須連山遠望 |
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西富山温泉
温泉神社
[おんせん神社]
栃木県那須塩原市・西富山210 にしとみやま
主祭神:大己貴命・少彦名命
国道四号から鳥居が見える。創建年等不詳。江戸期には湯泉大明神と称したが維新に際し温泉神社と改称。
右手の延享四年1747石宮の像は地蔵尊?左側面に富山村中の文字。左手は嘉永元年1848石祠。
境内に西富山自治公民館。
例祭:10月第四日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 富山 大武豊前
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 冨山村鎮座 祭主大武氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-75丁
狩野村大字西富山鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命
建物本社間口一尺五寸奥行二尺五寸 拜殿間口二間奥行三間 氏子九戸
本社創立不詳 社域百七十坪字井口に在り
西富山雷
雷神社
[らい神社]
栃木県那須塩原市・西富山12
主祭神:大雷神(別雷神)
創建説に二通り。一は西那須野原に二社あったうちの南の社を現在地に延宝年間1673~81に遷宮。
一は大田原二ツ室から遷宮。
「延宝三卯年1675雷神尊 富山村」石碑があるらしい。文化六巳年1809六手像。
元禄八年1695から伝わる獅子舞が平成二年1990から復活。
例祭:3月13日
西遅沢温泉
温泉神社
[おんせん神社]
栃木県那須塩原市・西遅沢118 にしおそざわ
主祭神:大己貴命・少彦名命
銀色鳥居。文化二乙丑歳1805九月大吉日奉納の石燈籠に「温泉大明神」
200年以上前に「湯泉」でなく「温泉」と表記する社があった。付近では井口に「温泉」石燈籠が残っている。
文政年間1818~30の十九夜,庚申供養塔,二十三夜,山神などが社殿右手に。
明和元年1764寒念佛供養塔,大正十年1921馬頭観世音,十九夜塔,庚申塔など多数。
【西那須野田園空間博物館】サテライトに紹介されています。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 遅沢 大武豊前
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 遅沢村鎮座 祭主大武氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-75丁
狩野村大字西遅澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命
建物本社二間四方 拜殿間口三間奥行二間 氏子十戸
本社創立不詳 社域百七坪字横道に在り
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| 消えてしまった |
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| 計5社 |
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| 読めない |
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| 温泉大明神 |
文化二年1805 |
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社殿右手 |
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| 山神 |
西遅沢公民館 |
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| 付近の馬頭観世音 |
付近の石祠 |
付近の石塔 |
東遅沢温泉
温泉神社
[おんせん神社]
栃木県那須塩原市・東遅沢 ひがしおそざわ
主祭神:大己貴命・少彦名命
現代の資料には記録されておらず,見つからない。字川原添とあるので那須野橋の南あたりか。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-75丁
狩野村大字東遅澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命
建物本社間口二間奥行三間 拜殿間口三間奥行三間 末社一社 氏子十三戸
本社勸請由緒不詳 社域三百六十二坪字川原添に在り
高柳温泉
温泉神社
[おんせん神社]
栃木県那須塩原市・高柳2441
主祭神:大己貴命
なんじゃもんじゃの木が生えている。
文化四卯十一月石宮1807に高柳村中松本某の字。神札に「大山祇神/大宜都比賣神」
本殿左手の石宮台座に「??島海」
なんしゅもんじゃの木の根元に「二十三夜塔」「六手金剛」
【西那須野田園空間博物館】サテライトに紹介されています。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 高柳 大武豊前
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 高柳村鎮座 祭主大武氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-75丁
狩野村大宇高柳鎭座 村社 溫泉神社 祭神大巳貴命
建物本社間口一尺五寸奥行二尺 拜殿間口一間半奥行二間 氏子十一戸
本社創立不詳字下澤東に在りて社域百三十坪を有せり
[参考]
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 雷電宮 高柳 竜泉寺
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| 本殿 |
温泉神社 |
額裏 |
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| 社殿左手 |
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なんじゃもんじゃの木 |
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社殿右手 |
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鎭座の杜 |
槻沢温泉
温泉神社
[おんせん神社]
栃木県那須塩原市・槻沢439 つきぬきざわ
主祭神:大己貴命・少彦名命
槻沢東部関根あたりに鎭座したが,いつのころかに権現山の湯殿神社に合祀された。その後,湯殿神社を温泉神社と呼ぶようになり現在に至る。昭和五十八年1983に社殿改修し,広大な杜に立派な社殿が建っている。本殿は拜殿の背後に独立して建てられている。拜殿に「温泉神社」額。
昭和十二年1937石燈籠。
南西の新南公民館に鳥居付きの石宮。
【西那須野田園空間博物館】サテライトに「権現山の湯殿神社」として紹介されています。
例祭:4月10日?/10月5日 443坪
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 槻沢 大武市正
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-76丁
狩野村大字槻澤鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命
建物本社間口二尺奥行三尺 拜殿間口一間奥行一間半 氏子十五戸
本社創立不詳 社域三百二坪字關根境に在り
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| 温泉神社額 |
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長い坂 |
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拝殿 |
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| 温泉神社額 |
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本殿 |
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| 本殿 |
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| 本殿裏手 |
昭和十二年1937石燈籠 |
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鳥居方向 |
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塩原は別にまとめておきました。
『鹿沼聞書・下野神名帳』記載の社で現在社が分からない神社が多数あります。200年以上前の記録なので,すでにないか,合祀されたか,単に見つからないかのどれかです。地名の誤字誤植の可能性もあります。現在社が推定できる社の神主が那須塩原と那須町と大田原で現在と行政区画が異なるためまたがっている可能性が高く,どちらに分類するか判然としませんが,いずれかにあげておきます。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 白目木 大武市正
那須郡 湯泉大明神 鴫ノ間 大武市正
那須郡 塩釜六所大明神 赤坂 大武豊前 [大田原から高林に,寺子も]
那須郡 神明宮 下黒磯 大武豊前
那須郡 湯泉大明神 マホヤ 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 立木 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 下横蟇 大武豊前
那須郡 天神宮 滝 養田隠岐 [弥六←屋六の神主]
那須郡 湯泉大明神 町田 碓井大和
那須郡 鳥宮大明神 岩崎 西光寺 [高林か]
那須郡 湯泉大明神 柳内 [寺子の蛇沢とセット]
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 鴨ノ内村鎮座 祭主大武氏ナリ
鹽釜六所大明神 赤塚村鎮座 祭主大武氏ナリ
神明宮 下黒磯村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 野槻村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 立木村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 嶌中村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 下模蟇村鎮座 祭主大武氏ナリ
天満宮 瀧村鎮座 祭主養田氏ナリ
石林温泉神社
[いしばやしおんせん神社]
栃木県那須塩原市・石林450 いしばやし
主祭神:大己貴命・少彦名命
昔の創建説は大同二年807。『栃木県神社誌』平成18年版は特定しておらず,弘化二年1845と嘉永五年1852以降の再建二説を載せている。
宝永四年1707から嘉永六年1853までの棟札4枚。
明治四十三年1910に大田原神社に合祀されたが,昭和二十七年1952復帰。
例祭:11月29日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-74丁
狩野村大字石林鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命
建物本社間口二尺奥行四間 拜殿間口二間奥行四間 末社二社 氏子三十四戸
本社は大同二年807の創立にして字狩野道下那須原野に接したる地に小祠を建て村社と稱せしか屢野火のために焼失せり 故に弘化二年1845七月今の地に移遷しと 社域四百四十四坪字精進塲道下に在り
乃木神社
[のぎ神社]
栃木県那須塩原市・石林795
主祭神:乃木希典命・源秀顕命 配神:乃木静子命
大正五年1916社殿造営。乃木将軍が石林に別邸を持っていたことによる。4480坪。大きな神社。
例祭:9月13日
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那須塩原の神社は小生間質性肺炎に罹り経済的・地理的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。
▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀●霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拜し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す