那須塩原市旧西那須野村の神社資料



▊西那須野村 *『下野神社沿革誌』明治三十五年1902五月十日發行 巻ニ-73丁
本村は那須野村を獨立して一の自治區をなせしものにて其幅員東西廿五町南北二里二十町に亘り地勢四面悉く平野にして鹽那両郡の郡界に跨り那珂川の分流中央を流れ灌漑用水の便自由なりとす
本村の沿革に付ては本村は明治十三年那須野原開墾の擧ありし時始めて開拓せられしものにて諸國より盛に移住者を奬勵し以て開拓に従事せしめ着々良好なる田圃を得るに至り民家所々代設けらる〻に至る 明治十八年始めて那須野村と公稱するに至る 以來太田原戸長役塲の支配する所となり爾后開墾の事業大に進歩し明治二十年に至りては移住者多く殆と三百戸にたれんとするの盛況を呈せり 適ま明治廿二年町村制實施の事あるや那須野村は他村との關係に於て自ら事情を異にするものあり且人情風俗の如きも大に異なるあり故に獨立して西那須野村の一村をなすに至る 現今の戸數四百余戸人ロ一千九百四十余人を有するも未た村社たるの社格なく只一戸或は數戸の氏神を祀りしならんか
愛宕

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須塩原市・あたご町3-7

主祭神:火産霊命 配神:素盞嗚命 境内社:甲子神社・八幡宮・稲荷社・八坂神社
あたご町は元永田区の一部。明治期に相馬家の氏神として祀られた。大正元年1912現在地に本殿造営。大正九年1920幣殿拝殿建築。平成十一年815坪の境内を整備して社殿新築。
平成22年新築の稲荷神社が境内左手に。石宮は昭和四十二年1967造営。
昭和四十五年1970石鳥居。昭和二年1927旗杭。大正五年1916石燈籠二対。鳥居右手に大正四年1915または昭和三年1928の御大典記念に大鳥居を寄付した記念碑。
境内右手に合祀した八幡宮の大正六年1917社号標が保存されている。
例祭:9月14日に近い日曜日
【西那須野田園空間博物館】サテライトに紹介されています。
本殿石宮
加茂大明神 明治廿四年1891
 
 
一本杉

一本杉稲荷神社

[いっぽんすぎいなり神社]

栃木県那須塩原市・永田町9

主祭神:倉稲魂命[うかのみたまのみこと]
広大な那須野が原の目印だった一本杉の根元に昭和三十年1955頃稲荷神社を祀った。
信号向かい側,君島生花店の方に入っていくと右手に岡埜屋酒店,和歌山平和酒造の紀土を置いている。そのまま進むと西那須野支所があり,その南に上記の愛宕神社。
【西那須野田園空間博物館】のサテライトに紹介されています。

太夫塚神社

[たゆうづか神社]

栃木県那須塩原市・太夫塚1丁目

主祭神:小林熊蔵霊
三島農場地内太夫塚地区の開拓の祖,小林熊蔵を祀って明治期に創建,昭和十五年1940現在地に遷宮。
蚕玉神社と水天宮を合祀し,太夫塚神社と改称。
【西那須野田園空間博物館】のサテライトに紹介されています。

淡島神社

[あわしま神社]

栃木県那須塩原市・太夫塚6丁目

主祭神:大己貴命・少彦名命・息長足姫命
明治四十一年1908和歌山県の淡島神社より御分霊を勧請して創建。
【西那須野田園空間博物館】のサテライトに紹介されています。

南郷稲荷神社

[なんごういなり神社]

栃木県那須塩原市・東町8-8

主祭神:倉稲魂命[うかのみたまのみこと] 境内社:八坂神社
大正五年1916南方の大田原街道沿いに鎭座した豊川稲荷を東町に遷宮して改称。
【西那須野田園空間博物館】のサテライトに紹介されています。
二つ室

金刀比羅神社

[ことひら神社]

栃木県那須塩原市・二つ室15-2→55-9で

主祭神:大物主命・別雷命 境内社:加茂神社
西那須野第二分団第一部・防災コミュニティ消防センターの裏手に鎭座。
明治十七年1884那須開墾社の農業事務所付近に創建。明治二十年1887現在地に遷宮。
鳥居額に併記してある加茂神社は,当社隣りに公民館を建設する際に境内に移遷,平成五年1993当社本殿新築のとき相殿に祀る。600坪。
以下の蚕金神社にもあげておいたが,『下野神社沿革誌』記載の琴平神社は当社の記録かもしれない。祭神が異なるが創建年が合致する。
境内に二つ室公民館と下野新四国八十八か所霊場二十番札所の弘法大師堂。下記蚕金神社にも二十一番札所の大師堂がある。
弘法大師堂。
【西那須野田園空間博物館】のサテライトに紹介されています。
例祭:10月2日に近い日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-74丁
西那須野村開墾地第一區鎭座 無格社 琴平神社 祭神金山彦命 祭日十月十日
建物本社間口三間奥行二間半 木鳥居一基 信徒五十五戸總代渡邊勇吉外三員 社掌阿美靜野崎村大字薄葉住
本社は明治十七年十月十日の創立にして相殿には養蠶守護の稚產靈命を祀り社域三百坪を有し境内には珍木(なんじやもんじや)及ひ若杉檜森々と繁茂し風色頗る佳なり
本殿石宮
加茂大明神 明治廿四年1891
弘法大師堂 二つ室公民館
なんじゃ

雷電神社

[らいでん神社]

栃木県那須塩原市一区町113-34

主祭神:別雷命
合格神社から寛永十三年1636開通の旧日光北街道,現在の「なんじゃもんじゃ通り」を北上すると右手道路沿いに高い木が一本立っている。根元に雷電神社が祀られている。左手の石は文字がすでに読めない。右手の昭和十七年1942の石祠は不明。
当社には「なんじゃもんじゃ」の木があるので『下野神社沿革誌』記載の「開墾地第一區琴平神社」があったところかもしれない。
光圀ゆかりの「なんじゃもんじゃの木<ハルニレ」は昭和五十五年1980に1000歳で大往生を遂げた。
なんじゃもんじゃの木
旧日光北街道解説 公園になっている
蚕金

蚕金神社

[こがね神社]

栃木県那須塩原市一区町306

主祭神:金山彦かなやまひこ命・稚産霊わくむすひ
石宮の台座に大正十四年1925とある。諏訪神社と大杉神社の石宮。
境内に公民館と下野新四国八十八か所霊場二十一番札所の弘法大師堂。上記二つ室の金刀比羅神社にも二十番札所の大師堂がある。
下記『下野神社沿革誌』の「琴平神社」はここか?蚕金神社の祭神と合致するので社号変更の可能性も。
八坂神社例祭:7月第二日曜日 蚕金・諏訪神社例祭:10月第二日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-74丁
西那須野村開墾地第一區鎭座 無格社 琴平神社 祭神金山彦命 祭日十月十日
建物本社間口三間奥行二間半 木鳥居一基 信徒五十五戸總代渡邊勇吉外三員 社掌阿美靜野崎村大字薄葉住
本社は明治十七年十月十日の創立にして相殿には養蠶守護の稚產靈命を祀り社域三百坪を有し境内には珍木(なんじやもんじや)及ひ若杉檜森々と繁茂し風色頗る佳なり
【西那須野田園空間博物館】のサテライトに紹介されています。
合格

玉姫稲荷神社(合格神社)

[たまひめいなり神社]

栃木県那須塩原市一区町158

主祭神:倉稲魂命・菅原道真公
明治初期の創建らしい。地図には合格神社で載っている。仮殿前には算盤が奉納され,合格祈願の絵馬が数十枚。しかし隣りに太陽光発電所が造成されたせいか,なかば立入り禁止風の柵が設けられていて,拒否されているようでさびしい。
那須塩原市のWeb「渡辺勇吉とヤスの碑」に紹介されています。
由緒 正一位稲荷神社額 算盤と絵馬
合格祈願絵馬

蚕影‏/八坂神社

[こかげ‏/やさか神社]

栃木県那須塩原市三区町553-7

主祭神:素盞嗚命・保食神・稚産霊命
明治二十七年1894頃那須開墾社が養蚕守護神として蚕影[こかげ]神社を祀り,八坂神社も境内に鎭座した。戦後神社庁に八坂神社で登録,昭和四十四年1969新築した際に二社を相殿に祀った。平成8年本殿新築。
例祭:7月15日 蚕影神社例祭:10月10日

烏森神社

[からすがもり神社]

栃木県那須塩原市三区町635

主祭神:天照大神・豊受大神・倉稲魂神・印南丈作大人命・矢板武大人命
延喜二年902創建。焼失していた社を那須開墾社が県令三島通庸の許可を得て明治二十一年1888社殿造営して再建。烏ケ森神社から烏森神社と改称。1800坪。
「印南丈作の頌徳碑」
例祭:10月5日

三島神社

[みしま神社]

栃木県那須塩原市三島5-336-5

主祭神:豊受大神・三島大神 境外社:母智丘神社
明治十四年1881頃に県令三島通庸が赤田山に母智丘[もちを]神社を祀った。三島通庸没後明治二十二年1889社殿造営,明治三十九年1906現在地に遷宮,三島神社と称することとなった。
母智丘神社は北東の上赤田248-5に鎭座。
例祭:10月13日

保食神社

[うけもち神社]

栃木県那須塩原市上赤田38-403 かみあかだ

主祭神:保食命
母智丘神社の北,ゼンリン地図にあり。詳細不詳。

養蚕神社

[ようさん神社]

栃木県那須塩原市四区町684 よんくちょう

主祭神:?
昭和十五年1940「紀元二千六百年・二社大師遷宮記念碑」
昭和六十二年1987「養蚕神社・八雲神社・弘法大師堂改築記念碑」
母智丘神社の南西,詳細不詳。


塩原は別にまとめておきました。
『鹿沼聞書・下野神名帳』記載の社で現在社が分からない神社が多数あります。200年以上前の記録なので,すでにないか,合祀されたか,単に見つからないかのどれかです。地名の誤字誤植の可能性もあります。現在社が推定できる社の神主が那須塩原と那須町と大田原で現在と行政区画が異なるためまたがっている可能性が高く,どちらに分類するか判然としませんが,いずれかにあげておきます。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 白目木 大武市正
那須郡 湯泉大明神 鴫ノ間 大武市正
那須郡 塩釜六所大明神 赤坂 大武豊前 [大田原から高林に,寺子も]
那須郡 神明宮 下黒磯 大武豊前
那須郡 湯泉大明神 マホヤ 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 立木 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 下横蟇 大武豊前
那須郡 天神宮 滝 養田隠岐 [弥六←屋六の神主]
那須郡 湯泉大明神 町田 碓井大和
那須郡 鳥宮大明神 岩崎 西光寺 [高林か]
那須郡 湯泉大明神 柳内 [寺子の蛇沢とセット]
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 鴨ノ内村鎮座 祭主大武氏ナリ
鹽釜六所大明神 赤塚村鎮座 祭主大武氏ナリ
神明宮 下黒磯村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 野槻村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 立木村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 嶌中村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 下模蟇村鎮座 祭主大武氏ナリ
天満宮 瀧村鎮座 祭主養田氏ナリ
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那須塩原の神社は小生間質性肺炎に罹り経済的・地理的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。

▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀●霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拜し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す


 

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