那須塩原市旧黒磯高林村の神社資料



▊高 林 村 *『下野神社沿革誌』明治三十五年1902五月十日發行 巻ニ-76丁
本村は高林,箕輪,木綿畑、鴨内,湯宮、百村,箭坪、油井,板室、龜山,西岩崎、洞嶋、細竹の舊十三村及ひ青木戸田の兩開墾地を合せて一の自治村となせしものにて其幅員東西三里十八町南北四里二十町に亘り地勢西北は山脈重畳し道路殆と通すへからさるものあり 而して西方は蛇尾川を以て限り鹽谷郡に接し北方那珂川を控ひ東南一帯の地平夷にして那須原頭に連れり 村民は概ね朴直にして農耕に勤勉の風あり
古來の沿革に付ては黑羽太田原及幕府の領邑に屬したりしか維新后共に栃木縣に屬し第三大區九小區に編入せられ后一戸長役塲の支配に歸し次て町村制に當り之を合して今日に及ひしものとす
本村には村社十三社ありて戸數四百八十余戸人口三千三百八十余人を有せり

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・鴫内859→348 しぎうち

主祭神:大己貴命・少彦名命 境内社:稲荷神社
万延元年1860九月創建。鴫内では黒滝山頂上に黒滝権現を祀っていた。標高1754mでかなり離れているが。
境内に鴫内自治公民館。
例祭:11月3日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-76丁
高林村大字鴨内鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命
建物本社間口三尺奥行二尺五寸 末社四社 氏子五十戸
本社創立不詳 社域三百十二坪字大久保に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・板室876 いたむろ

主祭神:大己貴命・少彦名命
寛文二年1662三月創建。文政十年1827再建の本殿。寛政十年1798,弘化三年1846石燈籠。
詳しくはこちらを
例祭:10月8日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-76丁
高林村大字板室字井戸鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命 建物本社間口二尺奥行三尺 拜殿間口三間奥行二間 末社三社 氏子二十九戸
本社は寛文二年1662三月の勸請にして一村の鎭守神たり 社域六十三坪を有せり

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・板室583

主祭神:大己貴命・少彦名命
寛政三年1791九月創建。昭和四十年1965拝殿改築。86坪。
例祭:10月19日

羽黒神社

[はぐろ神社]

栃木県那須塩原市・板室59

詳しいことは分からない。

籠岩神社

[かごいわ神社]

栃木県那須塩原市・板室841-14

主祭神:大山祇命
詳しくはこちらを

鹿嶋神社

[かしま神社]

栃木県那須塩原市・箭坪 やつぼ

主祭神:武甕槌命
箭坪には雷電神社の記録が残る。江戸期には矢坪で記録された八幡宮がある。
いずれもまだ未発見。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 八幡大神宮 矢坪 小針豊前
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
八幡宮 矢坪村鎮座 祭主小針氏ナリ *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-76丁
高林村大字箭坪鎭座 村社 鹿嶋神社 祭神武甕槌命
建物本社一尺四方 氏子二十七戸
本社創立不詳 社域百九坪字西反川に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・旧高林村大字細竹 ほそだけ

主祭神:大己貴命
戸田の北,西岩崎の西の中川右岸。現代の資料には非掲載。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-77丁
高林村大字細竹鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命
建物本社間口三尺三寸奥行四尺四寸 雨覆間口二間一尺四方 氏子六戸
本社創建不詳 社域十三坪字本田に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・洞島230-19 どうじま

主祭神:大己貴命
創建年月不詳。洞島自体が江戸後期に開発されたらしいので江戸末期か明治の創建だろう。現代の資料には非掲載。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-77丁
高林村大字洞嶋鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命
建物本社間口二尺奥行三尺五寸 氏子三戸總代一員
本社創立不詳 社域五百八十一坪字箕輪道にあり

鹿嶋神社

[かしま神社]

栃木県那須塩原市・油井118 ゆい

百村の北,中川右岸。境内に油井農村生活センター。
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-77丁
高林村大字油井鎭座 村社 鹿嶋神社 祭神武甕槌命
建物本社間口一尺二寸奥行一尺六寸 拜殿間口二間奥行三間 氏子六戸
本社創立不詳 社域百三十一坪を有せり

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・埼玉27 さきたま

主祭神:大己貴命
創建年月等不詳。明治十四年1881埼玉県出身者が那須東原開墾社を結成して開いたので埼玉開墾と呼ばれた。大正二年1913から黒磯町大字埼玉となる。終戦まで陸軍の埼玉飛行場があった。

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・箕輪410←12

主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:火産霊命
文政四年1821九月十九日創建。
鳥居額は「湯泉神社」
例祭:11月23日 愛宕神社例祭:3月24日 御別火[おべっか]・強飯式
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-77丁
高林村大字箕輪鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命少彦名命 建物本社三尺四方 拜殿間口三間半奥行二間 氏子二十四戸
本社勸請年月不詳 社域三百十五坪を有せり

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・亀山

現在社不明。高久乙と西岩崎の間,那珂川沿い。見つからない.
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-77丁
高林村大字龜山鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命
建物本社間口二尺奥行二尺七寸  氏子四戸
本社勸請不詳 社域三百七坪字間々下に在り

高林神社

[たかばやし神社]

栃木県那須塩原市・高林540

主祭神:大己貴命・少彦名命・伊加津知神
藤原利仁が大倉山の凶賊を退治し,報賽として延喜十一年911湯本湯泉大明神より御分霊を小丸山に勧請して創建。保延三年1137平美純,廣常が妖狐退治に赴く際に大業達成を祈願して鏡を奉納。
大正三年1914近隣の七社を合祀し,高林神社と改称。
高林獅子舞は藤田氏の氏神疱瘡神に奉納されたが,大正十四年1925に高林神社に合祀された後は舞の奉納も高林神社で行われる。
高林小学校の東横に鎭座。
例祭:4月23日 高林の獅子舞:4月第三日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-77丁
高林村大字高林鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社間口三尺奥行五尺 氏子四十八戸
本社勸請不詳 社域七百十一坪字稻澤西に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・百村3089 もむら

主祭神:大己貴命
明応八年1499湯本温泉神社より勧請。現在の本殿は弘化二年1845改築のもの。
いつのころからか湯泉から温泉に改称。
百村3605笹野曽里多目的センターの西。
例祭:11月3日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-77丁
同村大字百鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命
建物本社間口三尺五寸奥行四尺五寸 拜殿間口三間奥行四間 氏子百四戸 社掌宮本靜衛仝村仝大字住
本社創立不詳 社域三千十一坪字笹野曾里に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・百村1531 もむら

主祭神:火産霊命
創建年月等不詳。

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県那須塩原市・百村1788 もむら

主祭神:火産霊命
創建年月等不詳。光徳寺の西。隣りの東福寺の北東にも地理院マーク。

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県那須塩原市・湯宮559 ゆぐう

主祭神:大己貴命・少彦名命
文久元年1861九月創建。56坪。
例祭:11月23日

熊野神社

[くまの神社]

栃木県那須塩原市・湯宮 ゆぐう

主祭神:伊邪奈岐命・伊邪奈美命
創建年月等不詳。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 熊野神社 湯宮 大武市正
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
熊野神宮 湯宮村鎮座 祭主大武氏ナリ

稲荷神社

[いなり神社]

栃木県那須塩原市・木綿畑1982 きわたはた

主祭神:倉稲魂命
寛延三年1750二月初午創建。
例祭:11月1日 初午祭:4月第一日曜日 御神楽奉納

熊野神社

[くまの神社]

栃木県那須塩原市・木綿畑752 きわたはた

主祭神:伊邪奈岐命・伊邪奈美命
創建年月等不詳。400坪。

雷電社

[らいでん社]

栃木県那須塩原市・木綿畑451-1 きわたはた

主祭神:大雷命
「雷神社」かもしれない。創建年月等不詳。そば処高林坊左横の囃子に鎭座。


塩原は別にまとめておきました。
『鹿沼聞書・下野神名帳』記載の社で現在社が分からない神社が多数あります。200年以上前の記録なので,すでにないか,合祀されたか,単に見つからないかのどれかです。地名の誤字誤植の可能性もあります。現在社が推定できる社の神主が那須塩原と那須町と大田原で現在と行政区画が異なるためまたがっている可能性が高く,どちらに分類するか判然としませんが,いずれかにあげておきます。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 白目木 大武市正
那須郡 湯泉大明神 鴫ノ間 大武市正
那須郡 塩釜六所大明神 赤坂 大武豊前 [大田原から高林に,寺子も]
那須郡 神明宮 下黒磯 大武豊前
那須郡 湯泉大明神 マホヤ 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 立木 杉本和泉
那須郡 湯泉大明神 下横蟇 大武豊前
那須郡 天神宮 滝 養田隠岐 [弥六←屋六の神主]
那須郡 湯泉大明神 町田 碓井大和
那須郡 鳥宮大明神 岩崎 西光寺 [高林か]
那須郡 湯泉大明神 柳内 [寺子の蛇沢とセット]
*『下野掌覧』万延元年1860 那須郡之部
湯泉大明神 鴨ノ内村鎮座 祭主大武氏ナリ
鹽釜六所大明神 赤塚村鎮座 祭主大武氏ナリ
神明宮 下黒磯村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 野槻村鎮座 祭主大武氏ナリ
湯泉大明神 立木村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 嶌中村鎮座 祭主杦本氏ナリ
湯泉大明神 下模蟇村鎮座 祭主大武氏ナリ
天満宮 瀧村鎮座 祭主養田氏ナリ
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那須塩原の神社は小生間質性肺炎に罹り経済的・地理的・体力的に回れそうもありませんので,下調べだけにとどめます。

▊那 須 郡 『下野神社沿革誌』巻八-3丁(明治三十六年1903)
本郡は管内第一の大郡にして國の東北隅に位し東北は常陸の那珂久慈の兩郡岩城の東西白川郡及ひ岩代の南會津郡に界し南は芳賀郡に連り西は鹽*谷郡と犬牙相噛めり地勢東北は山嶽囲繞し西南は稍平地にして田野其間に開け幅員東西八里南北凡十七里に達す 面積九十三万里七分二厘に及へり 所謂有名なる那須野原の所在地にして其廣漠たる地方なるを黙想し得へきなり
郡内山岳河川に至ては郡の西北にある連山を那須岳と稱す之を分ては茶臼嶽男鹿嶽白笹ヶ岳南月山等の諸山巍々として聳ひ茶臼岳は實に郡中第一の高山にして高さ六千三百余尺而かも噴火山にして硫烟常に絶へす 山麓には那須湯本及ひ板室三斗小屋等の溫泉あり深山幽谷の間曳笻の客ひきもきらす夏時に至れは特に來遊の客多しと云ふ更に東北磐城常陸の國境に跨りて八溝山あり山岳秀●霊の氣亦以て呼吸するに足るへきか 河川の大なるは那珂川にして源を那須岳山麓に發して東南に向て流下し蛇尾川餘笹黒川木俣奈良三藏野上武茂箒及ひ荒川の各小流又は支流を合せて一大流となり芳賀郡の東端を走りて常陸の國に入り那珂の湊に注くものにして上流は最も流れ急にして砂石を轉し舟楫の便を通せさるも中流に至り河漸く大に河流又緩にして二十餘里の間船筏の便あり其沿岸黒羽久那瀬上境等に各河岸塲ありて貨物運送最も便なるものあり加ふるに是又灌漑の用に供せさるはなし適水害のために堤防橋梁等を破壊せらるゝあるも未た鬼怒川渡良瀬川の如く太甚しきに至らすと云ふ
原野に至ては那須東原西原糟塚原湯津上原夕狩原等なりしか此皆那須野原と總稱せるものにて那須岳の東南麓にありて渺茫たる一大原野なるか近來開墾地多く開かれ移住者續々として來り住し又貴顕神士の別墅なと多く有りて原頭諸種の事業起り來ると共に漸く殷盛の地に至りしを見るなり
本郡道路交通に至りては國道は鹽谷郡矢板町より來りて郡を中断し磐城の白河に至る又舊奥羽街道は鹽谷郡喜連川より來りて郡の西南佐久山を徑て太田原より郡の北東を中断して白河に通し而して日本鐵道東北線は此両街道の中間に在り並行して白河に達するあり其他關街道會津街道ありて往來交通の便あり
本郡名勝の地及ひ舊跡の尋ぬへきもの多し又神社佛寺少なしとせす今爰に其の二三を記さん最も有名なる舊跡としては湯津上の那須の國造の碑にして俗に笠石と稱す其形扁石をくほめて笠の如く碑の上にあり故に此名あり此碑は 文武天皇の庚子年に建しものにて日本第一の古碑なり碑の高さ四尺許あり今を去る千敷百年前の建碑に係り碑面文字の磨滅せしものあり且つ久しく荊棘の間に埋まれたりしか水戸源義公之を發見し祠を建て番守を置き之を保護せられ以て今日に及ひしなり次に那珂村の那須の與一宗隆乃霊祠及ひ福原愛宕邱上の廟川西町に於ける佐藤次信忠信兄弟の石塔伊王野村の義經の陣跡豊田の將軍塚等なり勝地には湯本板室の溫泉地を主とし那須駒ヶ瀑等あり名所として傳へらるゝものは那須の殺生石那須の篠原あり那須の篠原は三嶋及ひ太田原より東磐城の國境に至るまてを那須野と云ふ古昔養和保元より天文の時に至り所謂那須野七騎等の土豪此間に割據し互に土地を開き人民随て殖し以て今日に至る今の那須野と稱するもの十の五を存すと云ふ東鑑に建久四年四月二日右大将源頼朝宇都宮朝綱小山政那須光資等に命して那須野原を狩りたること見へたり金槐集に もの〻ふの矢もみつくろふこてのうへに霰たはしる那須の篠原」の歌あり此歌は鎌倉右大臣第一の秀逸なりと賀茂眞淵の稱美せしものにて有名なり又蒲生秀郷の歌に「世の中に我はなにをかなすの原なすわさもなく年や經ぬへき」其他多く枚攀に遑あらす
殺生石は那須村大字湯本にあり往古那須野に怪狐あり三浦介義明千葉介常胤上總介廣常をして其悪狐を狩り殺さしむ而るに怪狐霊石となり触る〻もの人類鳥獣皆死す故に殺生石の名あり宝治年中1247~49に至り源翁命を受て那須野に來り其怪を熄めしめたりと云ふ此石は高さ五尺許あり柵を繞らして今に人の近つくを禁す古城社には太田原黒羽烏山三輪佐久山蘆野伊王野高楯等あり神社には那須湯本の溫泉神社健武の健武山神社及ひ三輪神社等は延喜式内にして有名なり其他郷社九社村社二百四十社及ひ有名の無格社十三社ありて其氏子戸數一万五千八百十余戸を有す寺院には須賀川の雲巌寺湯津上の法輪寺あり能く考古の資料たらんか
本郡古來の沿革を尋ぬる本郡は往古那須國と稱せるを今の下野に合せて一郡となせしものなり其那須と云へる名稱の起源は鬼怒川と那珂川との間にある中洲と云ふ意味より斯く取りしものならんか始め崇徳帝の天治二年三輪郷に城きしを那須権守と稱し藤原道長の曾孫貞信賊を討つの功を以て従三位下野守に拜す邑を那須に賜ふ福原に尺+立り又高楯に従り居て那須を有す是に於て須藤を以て族となす后又更めて那須と云ふ此則ち那須家の始めにして六代の後に至り資隆と云ふ人従五位下下野守に拜し下野大焏*小山政光の妹を娶りて男子十餘人を生むあり其季を娠むに際し期過れとも分娩せす此時八幡大檞二神を祈る蓋し二十四ヶ月に禰りて生る此則與一宗隆にあり成長し治承四年源義經に従ひ平氏を討つ讃岐の八嶋に於て扇的を射たるを以て其名末代の譽を挙け后兄弟分れて各所に割據し那須七騎と稱し一族聲望隆盛たるに至りしは此時代にありけり宗隆數代後那須家は兄弟又分れて福原烏山の両城となり而して福原を上那須と呼ひ烏山を下那須と云ふ又數代后那須資房に至り之を合せて一家となり其后永正より天文年間に及ひ諸所にて戦争あり實に盛なる那須家の威勢も衰ひ行きしは是非もなき事なれ天正十八年豊太閤の小田原征伐に當り那須資睛其怒りに逢ひ領地を奪はれ同族なる大關太田原福原千本蘆野の諸家其領地を分與せられ所謂那須七騎なるもの是なり後徳川家治世に當り此等の諸家間に多少の消長興廃を來せしも敢て記すへき事なく尋て明治維新の大業のなるに及ひ那須七騎烏山大久保氏は悉く版圖を奉還するに至れり后廢藩置縣の令出るや明治四年十一月を以て宇都宮縣に屬し后栃木縣に屬し更に町村制實施せられ以て今日に及ひしものなりとす
本郡は七町二十三村にして二百三十九の大字より成り其人口十一万一千四百八十餘人を有す


 

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