▊黒 羽 町 *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-43丁
本町は黒羽田町、八鹽,前田、堀之内、北野上、北瀧,片田,矢倉,龜久の舊一町八村を合せて一の自治區となせしものにて其幅員東西一里南北三里十八町にして人口の多きこと六千余人に至る 黑羽田町は商家連携榔比し北野上前田堀之内は茨城街道に八握北瀧片田矢倉は馬頭街道に沼ふて相連り地勢山脈連亘して東北南の三面を限り西方一帯那珂川を控ひて川西町と相臨めり 黒羽田町は商業者多く繁盛の市街地にして風俗活發の風あり他は農業に従事し専ら勤勉せり
古來の沿革に付ては往時は黒羽藩廳の治所にして同藩の領邑に係り明治維新后廃藩置縣の令出つるや明治四年十一月宇都宮縣の所轄に歸し次て栃木縣に属し第三大區七小區に編入せられ次て二戸長役塲の支配となりしか町村制實施に當り更に之を合せて一の自治團体となし以て現時に及ひしものとす
本町には官祭招魂社及ひ村社十三社有名の無格社一社戸數八百余戸を有す

鎮国神社

[ちんこく神社]

栃木県大田原市・前田1073 まえた

主祭神:仲哀天皇・天照皇大神・神功皇后・応神天皇 配神:大国主命・少彦名命・豊城入彦命・反正天皇・丹治祖志麻王・大関家代々霊顕国玉王 境内社:雷神社
久寿二年1155創建。社伝は下記に詳しい。はじめ「狩野の八幡館」ついで「北八幡宮」と称し,文化十三年1816「鎮国神社」と改称。1069坪,かつては隆盛を極めた。
例祭:11月第二日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-43-44丁
黒羽町大字前田八幡舘鎭座 村社 鎭國神社 祭神 正殿天照大御神 仲哀天皇 應神天皇 神后皇后 反正天皇 宣化天皇 左殿大己貴命 豊城入彦命 顯國玉命 右殿丹治比古王 左大臣志摩朝臣 大關氏二十七世靈碑 祭日陰暦九月十五日
本社は徃時黒羽藩主崇敬の社にして王政維新に際し第四大區七小區の郷社たりしか明治十年八月村社に列せらる 建物本社間口二間奥行二間土藏造高欄濱縁付 拜殿間口四間奥行二間萱葺 神樂殿間口三間奥行三間杉皮葺 末社五社 木鳥居一基 神門一棟 石燈籠二基 石獅子二基 寶物太刀一振長さ三尺二寸文化十三年1816大關土佐守増業奉納 神號扁額従四位左少將松平越中守 源貞信筆文化十三年1816二月奉納 太神宮儀式解一部十二冊内八之巻欠寫本 日本後紀残闕一部十冊 百練抄一部五冊寫本 神代口訣一郡十四冊 日本紀纂疏一部八冊 雲圖鈔壹冊 貞観儀式一部五冊寫本 同私考一部五冊寫本 律疏義一部三冊寫本 國々風土記一部九冊板本一冊寫本八冊 本庁神社考一部ニ冊 延喜式神祗一部五冊 古語拾遺節解正誤一部一冊 日本紀畧一部十三冊 錺抄一部一冊 北山抄一部十二冊 冬良公聞書一部一冊 西宮記一部七冊 類衆三代格一部四冊 類聚雜要抄一部三冊 内裡式一部一冊各寫本 緑記一巻大關土佐守増業撰文并書 
修建梁碑銘曰く 鎭國靈社 伏惟我 先公下野之野披草萊而居歴 世布徳仁恤累洽令廣胖君嗣立繼業念 祖聿脩國都嘗有 八幡神祠士民奠祭蘋繁維新今茲臣民胥議以溫泉明神及 先公二十七世神碑配祀令祭脩葦殿宇洒掃莚席時以淸酌麁奠寓潔之意奉號曰
鎭國靈社自是萬斯年靈徳厚固國民永綏微臣茂淸奉公命謹記歳月告之久
     文政二年1819己卯五月十日 黒羽臣
          大沼助兵衛藤原滋淸
          主祀小泉甲斐守 斐
      文撰者 水戸 立原萬翠軒
本社氏子二十一戸總代三員 社掌小泉檀造仝町仝大字八三番地住
社傳に曰く本社は久壽二年1155下野那須野狩の時須權守貞信及ひ千葉之介常胤三浦之介義明上總介廣常等か弓矢の神に祈誓し陣營の西の岡を卜して齊ひ祀れるを以て狩野の八幡舘と稱す 此れか本社勸請の濫觴にして后建久四年1193四月右大將源願朝宇都宮朝綱小山朝政那須光資等本社を崇敬して再建す 應永元年1394三月那須刑部大輔資氏も再營す 後那須太郎資之仝五郎資重兄弟不和にて遂に亂國となる 其際本社拜殿共に兵燹に罹り寶物等も悉く灰燼に歸す 后天正年中大關矦黒羽に築城の時筑紫の宇佐と山城の男山に齊祭る八幡大神の御分霊を奉遷し改めて北八幡宮と稱す 其後裔土佐守増業丹治の出る所を慕ひて河内國丹南那丹治比神社に至り丹治比古王左大臣志麻朝臣の神靈を拜し祖宗の神木と淸埴を請ひて黒羽に持歸り文化十三年1816十一月を以て八幡溫泉の二神に配し大關氏世々の神靈をも合祀し四座の神祠となす 后官許を得て文化十三年1816十一月鎭國神社の號を賜はられ神祗管節長上従三位卜部良長公の揮毫せる扁額を掲けて神田三十五石を置き本社拜殿神樂殿舞樂殿假屋等建並て盥嗽石盤には勲舊の臣廿ー名の姓名を刻し社域千有三坪高燥の地にして古櫻老杉亭々として高久聳ひ境内淸洒にして五社の末社を配社し毎年黒羽藩主親ら齊戒して社殿に參向し祭典を行ひ社意を慰め奉りしも星移り物換り廃藩の後は社頭大に破壊し唯根越來りし榊の葱々として年に長し月に榮るのみ

愛宕神社

[あたご神社]

栃木県大田原市・前田1198

主祭神:伊耶那美命・迦具土命
文字が読みにくかったのか天文二年1533か天正二年1574の創建という。烏山城主那須高資の勧請なら没年が天文二十年1551なので天正二年創建が妥当。884坪,愛宕山に鎭座。
例祭:3月第四日曜日
『鹿沼聞書』につぎの飯縄山神社とともに記載され,津田村も併記されている。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 愛宕大権現・飯縄大権現 並ニ前田村並ニ津田 光明寺
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-45丁
黒羽町大字前田鎭座 村社 愛宕神社 祭神伊弉冊命 軻遇突智命 建物本社三間四方 氏子五十戸
本社創立年月不詳 社域八百十六坪愛宕山に在り

飯縄山神社

[いづなやま神社]

栃木県大田原市・前田187

主祭神:豊受姫命・級津彦命・倉稲魂命 境内社:熊野神社
文明三年1471那須資行が信州飯縄山より勧請。暴風雪霜に苦しめられた時代だった。昭和十三年1938飯綱山より現在地に遷宮。
例祭:5月5日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-46丁
黒羽町大字前田鎭座 村社 飯網山神社 祭神豊受姫命 稻倉魂命 級長津彦命 建物 本社間口四尺奥行五尺 氏子五十五戸 社掌小泉檀造仝町仝大字住
本社創立不詳 社域二百四坪字飯縄山に在り
両社稲荷

真先寶壽両社稲荷神社

[まさき・ほうじゅ・りょうしゃいなり神社]

栃木県大田原市・前田981

主祭神:倉稲魂命・保食神
黒羽城跡公園内に鎭座。天正年間1573~92に大関家が築城した際に城守稲荷として浅草橋場の真崎稲荷を勧請。真先はもとは真崎の表記で[まっさき]と呼んでいたかもしれない。山岳修業の先導の意から転じて戦場の先駆けたらんことを祈願した。時を経て宝壽院の稲荷社を合祀して両稲荷大明神と称するようになった。維新前に「神社」に改号している。
嘉永六年1853と嘉永七年1854石燈籠に「稲荷両神社」,安政二年1855石燈籠に「両稲荷神社」 拝殿額は「稲荷社」,木製祠が左右に祀られている。昭和六十三年1988頃にも「両社稲荷大明神」表記を用いている。平成二十八か九年に覆屋を改築した。
例祭:旧暦初午日
嘉永六年1853稲荷両神社 嘉永七年1854稲荷両神社 安政二年1855両稲荷神社
以前の扉 稲荷社額 本殿二基
平成元年社号標
黒羽田町

黒羽神社

[くろばね神社]

栃木県大田原市・黒羽田町493

主祭神:英霊一九三八柱 明治二年1869創建,官祭黒羽招魂社。昭和十四年1939黒羽護国神社と改称。昭和二十三年1948黒羽神社と改称。
例祭:10月13日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-44丁
黒羽町大字黒羽田町字大宿鎭座 官祭招魂社 祭神黒羽藩士定価は氏亘理長雄以下二十四人靈 建物本社間口一間奥行五尺 拜殿間口三間奥行二間 石華表一基 高燈籠石積立一基 社務所間口二間奥行二間 社掌小泉檀造仝町大字前田住
本社は明治二年1869十二月九日の勸請にして黒羽藩知事従五位大關増勤及ひ仝藩士一同の創建なり 而して官祭人名のものは皆戊辰の役に戦死したるものなり 社域三百十三坪高燥の地に在りて甚た眺矚に富み遥に富峯に對し八朶梁芙蓉遁徳なく⾭天を街き白々玲瓏たり 西には黒髪の諸山を臨む 山勢秀抜にして翠色濃かに染むか如く近くは市街及ひ那珂川を俯瞰し脚を伸へて踏藉し得るか如し 境内には多く櫻樹ありて花時には萬花亂發し遠くより望めは霞の如く近けは瓔珞を綴るに似たり 實に此地の一勝地たり
大祭は侮年十月十三日を以て執行せり

八雲神社

[やくも神社]

栃木県大田原市・黒羽田町503

主祭神:素盞嗚命・田心姫命 配神:大己貴命・少彦名命・熊野大神・別雷神 境内社:稲荷社・弁天神社・天満宮
1600年以前のいつ頃かに創建。明治三年1870拝殿新築。
昭和五年1930隣りにあった温泉神社,その境内社の加茂神社を合祀。
例祭:7月20日に近い日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-45丁
黒羽町大字黒羽田町鎭座 村社 八雲神社 祭神素盞嗚命 建物本社間口二間奥行三間 鳥居一碁 末社一社 氏子百二十四戸 社掌田代龜齢仝町住
本社は慶長五年1600まて大宿の地にありしを阿久津村に移轉し(后阿久津村は)黒羽田町と改稱せり 宝永二年1705本社大に修理を加へり 社域百九十二坪平坦の地に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・北野上1744

主祭神:大己貴命・少彦名命 境内社:神明宮・足尾神社
大同二年807創建の古社。久寿二年1155妖狐退治の伝説が伝わる社。
335坪。もと野上村。
例祭:10月9日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-45丁
黒羽町大字北野上鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命 祭日陰暦正月七日
建物本社一間四方 拜殿間口三間奥行二間杉皮葺 木鳥居一基 氏子百四十三戸總代五員 社掌小室古石仝村仝大字住
社傳に日く本社は大同二年807の創立にして後 近衛天皇の御宇久壽二年1155那須野狩の時三浦介常胤上總介廣常等本社に新願し屢靈驗ありしを以て宮殿を造營す 後那須家代々の斬願所となる 后又伊王野次郎左衛門資永次に資勝資宗資信まて代々永錢八十文を寄附せらる 永禄八年1565九月大關右衛門大夫淸増再脩を加へ拜殿を造營し永錢七十六文を寄附せられ后又十三石の除地を附せられ毎年正月七日黒羽藩主躬自ら參向ありし社なりしか文久三年1863大關領地改革の事ありて除地没収せらる 社域三百二十六坪黒羽より大子街道の北側宇田澤の高丘に在り 石の神橋(明治三十四年氏子益子巳之吉寄附)を渡り十五階の石磴を躋り木の大鳥居あり 又廿五階上りて拜殿に致れは宮殿結構にして古色藹然たり 境内には老杉及ひ眞榊御用松の古木亭々と高く聳ひ神寂ひ幽邃にして頗る雅致あり

綾織神社

[あやおり神社]

栃木県大田原市・北滝1818

主祭神:豊玉彦命・豊魂姫命 配神:大山咋命・不動明王・山廼諸神
持統天皇687〜の頃,館野宝賢が娘の絹布技術向上のために御手谷の高い山に綾織姫大明神を勧請したと伝わる。似たような伝説は足利など他の地域にもある。那須絹は当村発祥。284坪。
例祭:5月第三日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-47丁
黒羽町大字北瀧御手谷鎭座 無格社 綾織神社 祭神豊玉彦命 豊玉姫命 祭日四月八日八月八日 建物本社石寶殿 鳥居一基 氏子七十五戸總代三員 社掌瀧本政雄住所仝上
社傳に曰く本社は持統天皇の御宇此里に館野實賢と云ふ長者あり 其子女に綾姫と云ふありて機業裁縫に熱く心を傾けるを以て父實賢か子女の其道の熟逹を祈んか爲めに御手谷乃高山に綾織姫大明神を勸請し倍々宗信するにより子女能く機縫養蠶に上達し綾絹を織り出し〻かは其名近郷に高く遠近の子女皆教を受けて其業を擴むと云ふ 往昔余に那須絹と稱せしは此里に始むと云々 今に機縫養蠶家は信仰して毎年四月八日より八月八日まて詣するもの麕集す 本社は北瀧の東端字御手谷の山にありて社域九十六坪高丘の地にして本社の前に綾織池の舊跡あり古昔は水漫々たる湖水にて上下に二瀑布ありしを以て上下瀧村と稱せしと云ふ 而るに延寶二年1674の秋暴雨にて山崩れ湖水漲り出て今は小なる池(池地九十坪)を存するのみ 因に云ふ舘野長者は數世を經て舘野御前の代に至り康平年中安部頼時に荷擔せしを以て源頼義に亡ほされ今に其舘跡を字舘野御前と稱す 且上瀧下瀧兩村を合併し明治維新の始めに北瀧村と號す 后明治廿二年中一の自治區に入り黒羽町とはなれり

温泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・北滝1139


GoogleMap
主祭神:大己貴命・少彦名命 配神:大己貴命・少彦名命
永正元年1504創建。現在は慶雲年間704~708説より新しい時代を採用している。
大膳院は修験道。明治三年1870に「温泉神社」と改称するが読みは[ゆぜん]を残した。
『栃木県神社誌』旧版では「湯泉大明神」,平成18年版では旧社号を「湯前大明神」にしているが,御前様の連想から通称の湯前様になり社号記載の際に湯前になったのかもしれない。
明治四十四年1911黒羽北滝下滝にあった湯泉神社を合祀,祭神と配神が重なっているのはこのため。
例祭:11月23日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-45丁
黒羽町大字北瀧宮本鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命 祭日九月十九日
建物本社間口三尺奥行三尺板葺 拜殿間口三間奥行二間萱葺 木鳥居一基 石燈籠二基 氏子七十五戸總代深澤和吉川上淺一郎大沼金太 社掌瀧本政雄大字仝七十五番地住
本社創立は慶雲年中にして舘野良眞の勸請なりと云々
維新前は溫泉大明神と稻し大膳院にて代々奉仕せしも明治三年四月復飾し瀧本彈馬と改め本社に奉務せしむ 社域二百二十坪高燥の地にして石磴二十階躋れは淸洒たる境に古杉及ひ槻の老樹蓊蔚にて周圍二拾余尺ありて枝四方に蔓延し其幾百年を經たるを知らすと云へし故に古社にして神威の尊さを知るのみ
八雲

八雲神社

[やくも神社]

栃木県大田原市・北滝1187

主祭神:素盞嗚命
上記温泉神社の北西,那珂川を見下ろす県道27号線沿いに鎭座。
昭和五十五年1980旗杭。
例祭:?
八雲神社 暗くて見えない
那珂川左岸 切株 昭和五十五年旗杭
片田

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・片田1065

主祭神:大国主命・少彦名命
文治元年1185創建。天文十三年1544黒羽藩主大関宗増逝去したのでその木像を彫って社脇に安置,後に厨子も作ったが明治二十三年1890木像を残して全焼,大正四年1915現在地に再建遷宮。443坪。
例祭:4月第一日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-46丁
黒羽町大字片田鎭座 村社 溫泉神社 祭神大己貴命‏‏‏‏ 少彦名命  建物本社間口三尺五寸奥行二尺二寸 拜殿間口三間奥行二間 氏子二十四戸
本社創立年月不詳 社域三百九十九坪平坦の地にして字根岸に在り

温泉神社

[おんせん神社]

栃木県大田原市・片田1676

主祭神:大己貴命・少彦名命
文治二年1186黒羽藩主大関家が創建。339坪。
例祭:4月第一日曜日

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・片田1488

主祭神:大己貴命・少彦名命
仁治年間1240~43亀山城主片田氏が創建。慶長八年1603落城の後は黒羽藩主大関家が崇敬。200坪。
例祭:10月27日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 山田 郡司伊予 →山田は明治九年片田村に
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 山田村鎮座 祭主郡子氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-46丁
黒羽町大字片田鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命‏‏‏ 少彦名命‏
建物本社間口五尺奥行一間二尺五寸 末社四社 氏子二十二戸
本社は勸請不詳 社域百二十六坪字寺山に在り

岩室神社

[いわむろ神社]

栃木県大田原市・堀之内470

主祭神:大己貴命・少彦名命 境内社:神武天皇社
創建年等不詳。明治六年1873三嶋神社・稲荷神社・星宮神社・日枝神社を合祀して「岩室神社」と改称。
例祭:11月第二日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-46丁
黒羽町大字堀野内鎭座 村社 岩室神社 祭神大己貴命‏‏‏ 少彦名命‏
建物本社間口二尺奥行三尺三寸 末社四社 氏子四十七戸
本社は往時領主大關氏より祭祀料として年々米七斗つ〻寄附せられ領主崇敬の社たりしか廢藩と〻もに止めらる 社域百五十七坪字岩谷に在り

生駒神社

[いこま神社]

栃木県大田原市・亀久1147 かめひさ

主祭神:大宜津毘売命 境内社:稲荷神社

例祭:月日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-46丁
黒羽町大字龜久鎭座 村社 生駒神社 祭神大宜津比賣命 建物本社間口二尺奥行二尺に寸 拜殿間口三間奥行二間 木鳥居一基 石燈籠二基 氏子三十八戸 
本社創立は寛政八年1796にして衆庶崇敬の社にあり 毎年二月初午日には多くの馬參詣ありて境内に群集す 社域三百六十三坪高燥の地にあり

日光神社

[にっこう神社]

栃木県大田原市・亀久223

主祭神:源家康朝臣 境外社:加茂神社
天保十二年1841創建。
例祭:3月第二日曜日

鹿嶋神社

[かしま神社]

栃木県大田原市・八塩456

主祭神:武甕槌命 經津主命
延宝六年1678黒羽藩主大関家が創建。
大正十五年1926字内宮沢の諏訪神社とその境内社疱瘡神社を,字岡沢添の温泉神社を合祀。
例祭:10月第二土曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-47丁
黒羽町大字八鹽鎭座 村社 鹿嶋神社 祭神武甕槌命 經津主命 建物 本社間二尺五寸奥行四 末社一社 氏子四十一戸
本社創立不詳 社域二百六十一坪字北山に在り

鷲子神社

[とりのこ神社]

栃木県大田原市・矢倉322

主祭神:天日鷲命 配神:木花開耶姫命 境内社:水神社
馬頭の鷲子山上神社より勧請。創建年等不詳。明治三十年1897頃現在地の富士山に遷宮,木花開耶姫命を配神とした。
県道298号線をはさんで眼下に那珂川の清流を見下ろす。水色の鳥居が鮮やか。
例祭:12月第一日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-47丁
黒羽町大字矢倉鎭座 村社 鷲子神社 祭神天日鷲命 木花開耶姫命 建物本社間口二尺五寸奥行三尺 氏子十四戸
本社勸請年月不詳 社域二十一坪字富士山に在り
青色鳥居 鷲子神社
県道298号線から 暗すぎ・拜殿内 本殿覆屋
水神社 那珂川が見える



▊川 西 町  *『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-40丁
本町は黒羽町、大豆田,余瀬,蜂巣,檜木澤及ひ寒井の舊一町五村を合せ一の自治區となせしものにて其輻具東西二十町南北一里十八町を有せり 地勢挾長にして頗る平坦山岳なく東方一帯那珂川を控ひ黒羽町と相對し西南北の三面は平野田園遠く開け黒羽向町は商家櫛比し大豆田檜木澤寒井は關街道に沿ひて相連れり 黒羽向町は商業に他は農耕を業とし頗る勤勉の風あり
古來の沿革に付ては往時は共に黒羽滞の所領にして維新后栃木縣に属し第三大區七小區となり后三戸長役塲に分れ次て町村制に當り現時の一町となりぬ
本村には村社六社無格社一社ありて戸數四百七十戸人口三千二百余人を有す
余瀬

加茂神社

[かも神社]

栃木県大田原市・余瀬331→415-2で よぜ

主祭神:別雷命 配神:八龍神 境内社:温泉神社
延暦十三年794創建の古社。白旗城趾(本城山)に鎭座。
拜殿前に明治三十四年1901村社雷神社の石塔。明治三十六年刊『下野神社沿革誌』は雷神社で記録。
【余湖くんのホームページ】によると義経塚から登った本丸跡に愛宕神社がある。『下野神社沿革誌』の愛宕神社は白旗城趾の堀を隔てた南,義経塚との間と記録されているので加茂神社の南のこの拝殿のない愛宕神社でいいだろう。
例祭:2月第三日曜日
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-41丁
川西町大字余瀬鎭座 村社 雷神社 祭神別雷命 祭日陰暦二月廿日九月廿日 建物本社間口二尺二寸奥行二尺 拜殿間口三間奥行二間 木鳥居一基 石燈籠二基 氏子三十六戸總代蓮實又重郎薄井仁平蓮實源吉 社掌津田四郎仝町仝大字住
社傳に曰く本社は人皇六十一代醐醐天良の御宇延暦十三年794の夏大旱魃にて禾苗枯死せんとす 民衆大に憂ひし時粟野行麿民衆の苦悶を救はんとして山城國加茂神社に詣て〻懇に祈願し御分靈を請ひて歸郷し粟野の西丘なる淸地に鎭して勸請し雨を祈るに天俄然として黑雲を生し一聲の怒雷轟然として大雨盆覆かへすか如くに降り來り禾苗勃然として起くぬ 衆大に喜ひ此れ靈驗の著しきを頌して宮殿を宏壯ならしめ粟野驛の總鎭守神と崇敬す 后永承六年1051鎭守府將軍源頼義其子義家奥州征討下向の時當粟野驛に對陣し軍兵を募り吉日を選みて本社に戦勝を祈り軍勢を率ひて西の丘に登り白旗を翻して魚鱗鶴翼の備をなせしと 此より西の丘を改て白旗山と稱す 又粟野驛の西側に白旗驛と云ひ東側を寄勢宿と云ふ(東側に軍勢を寄せ集めたるを以て名つけしと云ふ后勢を瀬と書り)同五年奥州平き歸途本社に報賽し神領ニ町歩を寄附せらる今に其田字を八幡田と稱すと 后ち人皇八十一代高倉天皇の御世治承四年1180源義經二十騎を率ひ駿河に赴く路次當粟野驛に宿陣し往昔源頼義父子か奥州征討下向の砌軍勢を揃し地なるを聞出し白旗山に白旗を押立て我に従はんものは疾く來れと令を出して兵を募しに那須資隆の十男十郎爲隆弟與一宗隆等來り属へて君臣の契約をなし臣僚を引率し本社に詣て〻戦勝を祈願し側らに白旗観音を創立し一大塚を築きたり 今此塚を土人傳へて義經塚と云ふ 白旗観音の詠歌に「祈りおくしるしをここに白旗の山にーと度またかへりこん」云々
文治三年1187那須與一宗隆四國の八嶋の扇的の功にて那須に司たるを以て本社を崇敬し社領二十石を寄附せらる 后永禄三年1560黒羽藩主大關右衛門佐高増崇敬して社領二十石を附せらる 本社に藏せる寳物は粟野驛問屋某より奉納せし鰐口にして年號の字形あれとも磨滅して明かならす 次は久壽二年1155三浦介義明那須野狩の時本社に祈誓して野狐を射止めし弓の奉納あり 次は永録五年本村蓮實典惣の献する古鏡なり次は慶応三年1867本村落合欣一郎より奉納の太刀にして氏の祖先内匠忠治軍功に依り拜領せしものにて家寶として傳る處の淸景の名刀なり 次は雷神社由來記の古書なり 社域三百五坪にして白旗古城趾西百間を距る小丘にて高さ八十尺ありて數階の石磴を躋れは左右に石燈籠並列して丘上平坦にして稍廣闊なり 社殿の周園には古杉老壽蓊欝として天を蔽ひ晝尚暗く幽静にして自ら神威の儼たるを覺ゆ 殊に眺望に富み余瀬の八景一目に下瞰す 其名稱を擧れは八幡田の飛蛍、白旗山の秋月,直箆落雁、粟野夕烟,新築▢雪,廣前富士見,秋村の穂波,歸一の鐘等なり
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-42丁
同町大字余瀬鎭座 無格社 愛宕神社 祭神伊弉冊命 軻遇突智命 祭日陰暦二月二十四日 建物本社間口二尺奥行一尺八寸 鳥居一基 寶物神鏡一面享保三年1718蓮實與惣奉納*享禄三か? 由來記二巻 御像繪一輻 氏子十一戸 社掌津田四郎住所仝上
社傳に曰く本社創建は享禄三年1530六月二十四日にして蓮實與惣の勸請なり 抑本社勸請の由來を尋るに大永元年1521正月二十日白旗宿北方なる一民家より火を失し折しも烈風にて白旗余瀬の兩宿火災に羅り僅に残家ありしのみ 后仝三年極月八日又もや失火し兩驛大半類燒し驛民の困苦甚たし 又享禄二年1529八月二十日祝融の災ありて兩驛概ね灰燼となる 七ヶ年の内に前後三回驛民益々貧困に陥り朝夕炊煙の上る能はす遂に荒廢し徒に草叢萊の繁茂するを見る 災餘の光景寂寥たり 此時繹民の曰く期の如く火災の縷々起るは實に天の爲せる禍にて人の爲る所にあらす宜しく此時にあたり鎭火の神を祀りて祝融の災を除くへしと 議成り享禄三年1530二月十二日驛民蓮實與惣上京し同月廿八日京都愛宕山別當威徳院に着き勸請の事を議し御分靈を乞へ請け歸郷し兩驛の中央に祠を立て勸請し繹民彌尊信して大正院源久を以て奉仕せしむ 此によりて火災頓に其跡を絶ち驛民榮ひ人足り炊煙豊に白旗の山腹を包み歓聲洋々として湧か如くに至る 后天正三年1575大關右衛門佐高増黒羽城に移るや白旗南城趾を本社境内地に寄附し社頒二十石を附せらる 故に驛民宮殿を改築し本社を奉遷す 別當大正院は勸請年月より十五世奉仕せしか明治八年より津田四郎社務を掌る 社地東西廿ー間五分南北三十三問面積七百十坪高さ八十尺ありて東は断崖直下し西には市塲川淙々として其麓を流れ南は堀切を隔て〻義經塚に至る 北は空壕を越へて白旗本城跡と相對す 境内には老杉森々として蓊蔚し馬塲の左右には櫻樹を植へて春は萬櫻亂發し艶雪香雲凝つて流れす風色焉然として掬すへし

余瀬には以下が記録されたが現在社不明。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 天神宮 余瀬,白旗山 大正院
那須郡 稲荷大明神 余瀬
那須郡 丹生大明神 余瀬
那須郡 直篦湯泉大明神 (空白)
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
直篦湯泉大明神 余瀬村鎮座 祭主直篦氏ナリ

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・寒井1425 さぶい

主祭神:大己貴命・少彦名命
創立不詳。享保年間1716~36に焼失。寛政四年1792黒羽藩主大関増栄が再建。32坪。
寒井は大野村と称した。旧地名大野室と推定。江戸期の資料二つの大室も大野室だろう。
例祭:10月19日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 寒井 碓井大和
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 寒井村鎮座 祭主碓井氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-41-42丁
同町大字寒井鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社間口四尺二寸奥行四尺二寸 拜殿間口二間奥行三間 華表一基 末社三社 氏子五十四戸 社掌大野浪江仝村仝大字住
本牡創立遼遠にして詳かならす 后寛政四年1792三月十二日再建 社域三百三十八坪平坦の地にありて境内には古樹亭々と高く聳ひ神寂ひて頗る雅致あり

*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 大室 藤橋対馬
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
湯泉大明神 大室村鎮座 祭主藤橋氏ナリ

寒井には以下が記録されたが現在社不明。矢絙は矢組と推定補正。
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 己正明神 矢絙村* 藤橋対馬
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
巳王大明神 矢組村鎮座 祭主藤橋氏ナリ

三島神神社

[みしま神社]

栃木県大田原市・寒井1643

主祭神:大山祇命・大己貴命・少彦名命 配神:大物主命・保食神 境内社:稲荷神社
天応年間781~782に当地を開拓した中納言藤原房磨が,大木の元に薬師如来を奉祭し大野村と称した。大野室の薬師さまと呼ばれる。
明治六年1873那珂川の3つの島,三嶋淵から御神体を勧請したところから三島神社と改称。480坪。
大野室の銀杏,樹齢400年,高さ30m,目通り7m。
例祭:4月8日 風神祭:9月1日

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・寒井163 鮎ケ瀬

主祭神:大己貴命・大己貴命・少彦名命
寛保三年1743創建。文化七年1810現在地に遷宮。
昭和三十一年1956鳶久神社を合祀。平成九年1997本殿新築,97坪。
例祭:10月9日

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・大豆田387-2 おおまめだ

主祭神:大己貴命・少彦名命
川西(大豆田)の開拓者の磯豊為が祖先を祀るために鬼一大明神を創建。応永四年1397には温泉大明神と改称,村民7戸の崇敬を受ける。
明治四十年1907,愛宕神社を合祀。 昭和四年1929,白山神社を合祀。
714坪。
例祭:10月9日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 大豆田 直篦出羽

高岩神社

[たかいわ神社]

栃木県大田原市・黒羽向町207 くろばねむこうまち

主祭神:伊弉諾命・伊弉冊命・大山祇命・火産霊命 配神:武甕槌命・磐裂命・根裂命・経津主命
天文三年1534字石井沢に創建,熊野神社と称した。明治三年1870,三嶋神社,愛宕神社と合併し,現在地に遷宮して高岩神社と改称。
168坪だった境内地は昭和三十一年1956に1646坪に拡大した。
例祭:7月第三または第四日曜日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 熊野大権現・宗像大明神 石井沢 碓井大和
那須郡 三島大明神 石井沢 碓井大和
*『下野掌覧』万延元年1860 那須部之部
三嶌大明神 石井澤村鎮座 祭主碓井氏ナリ
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-42丁
川西町大字黒羽向町鎭座 村社 高岩神社 祭神伊弉諾命‏ 伊弉冊命 建物本社間口一間三尺奥行二間 末社九社 氏子二百三十三戸
本社は天文三年1534三月字石井澤に勸請せしか濫觴にして明治三年1870今の境地に移遷す 社域百六十八坪平坦の地にして字上町に在り

湯泉神社

[ゆぜん神社]

栃木県大田原市・檜木沢515 ひのきざわ

主祭神:大己貴命・少彦名命
文安三年1446創建。
大正五年1916愛宕神社を合祀。
昭和二十五年1950境内地は446坪に拡大。
例祭:10月19日
*『鹿沼聞書・下野神名帳』1800年頃
那須郡 湯泉大明神 檜沢 △石門
*『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻八-42丁
同町大字檜木澤鎭座 村社 湯泉神社 祭神大己貴命 少彦名命 建物本社間口三尺九寸奥行四尺八寸 氏子四十一戸
本社は文安年中1444~49の創立なりと口碑に傳はれり 社域百二十六坪字上の臺に在り
玉藻

玉藻稲荷神社

[たまもいなり神社]

栃木県大田原市・蜂巣709 はちす

主祭神:倉稲魂命・玉藻前神霊 境内社:玉藻社
建久四年1193源頼朝那須野狩のときの創建。久寿二年1155退治された九尾金毛の狐の霊を慰めるために頼朝が祠を建立。
明治三年1870焼失。五年再建。篠原稲荷神社玉藻稲荷ともいう。鏡ヶ池と骨塚がある。798坪。
昭和五十四年1979旗杭。
朱塗りの一の鳥居は平成5年1993創建八百年記念に奉納された。
寛政十二庚申1800龍集四月吉祥日奉納の二の鳥居柱には妖狐退治の顛末がぎっしりと刻まれている。
「夫當社玉藻大明神者三國傳來乃野干(yakan=野獣>狐)也往古人皇七十六代近衛院之御宇化而成美女名謂玉藻▢中略…華表寄進大豆田村磯又右衛門▢▢」
拜殿前に昭和二十四年1949石燈籠。狐の狛犬は昭和五十九年1984奉納。
拜殿右手に昭和二十九年1954神社改築記念碑。
狐塚祠=玉藻社の鳥居柱に「奉納神殿鳥居平成九年1997八月吉日』とある。
元禄二年1689松尾芭蕉は当地を訪れ,
やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信おとづる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原わけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣…」
その縁により石段右手に芭蕉の句碑
まぐさおふ人を枝折しおりの夏野哉」
石鳥居左手は昭和五十年1975源実朝の歌碑
「もののふの矢並みつくろふ小手の上に あられたばしる那須の篠原しのはら
那須温泉神社の境内社に「九尾稲荷大明神」
例祭:旧暦初午日
入口 解説板
一の鳥居 二の鳥居
二の鳥居柱に文字多数  
実朝歌碑 実朝歌碑解説 芭蕉句碑
拜殿
新築記念額
改築記念碑
昭和五十九年1984狛犬 昭和二十四年1949石燈籠
鏡が池解説
狐塚祠鳥居 狐塚祠
狐塚祠鳥居柱 右手に鏡が池
トイレも完備 地図上方に犬追物跡
多賀

多賀神社

[たが神社]

栃木県大田原市・蜂巣790

主祭神:伊弉諾命・伊弉冊命 配神:大己貴命・少彦名命・大日孁貴命・菅原道真公 境内社:愛宕神社・八雲社・疱瘡神社

建久二年1191創建。文政十二年1829再建。
明治三十年1897本殿拝殿改築。
明治三十年1897,多賀神社とともに三社祭礼を行っていた字堀之内の湯泉神社,字天神林の天満宮を,また光丸山神社を合祀。230坪。
例祭:10月19日

 

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